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石原の幸次郎

 

 天保十年(一八三九)関東取締出役十三人が、罷免された上に、中追放、江戸払い、重追放、遠島の処分を受けた。関東各地に累積した取締出役の不正が、芋づる式に発覚したのである。飢饉救済のための施金の不正配分、商荷物引負、手躍興行の許認可に絡んで、職権を悪用し、賄賂を受け取ったことなどである。忠次郎を追っていた吉田左五郎、太田平助、小池三助、須藤保次郎、内藤賢一郎、堀江与四郎、泰助父子は、有宿、無宿の世界にどっぷり浸って、甘い汁を吸っていたのである。島村の伊三郎と癒着していた河野啓助だけが、罪を逃れて再任された。処世術に長けていたのであろう。新規に任命されたのは河野啓助、太田源助、奈古留七郎、桂栄助、杉浦又四郎、田中彦一郎、中山誠一郎の七人である。

 先任者が穢してしまった関東取締出役の名誉を恢復すべく、新任の七人は、闘志を滾(たぎ)らせていた。必然的に矛先は渡世人に向けられた。忠次郎への追及は、峻烈さを増して、人相書が全国に撒かれた。

 神崎の友五郎は、紀州に逃れたが捕縛された。忠次郎に似ているので、忠次郎に成り済まして、処刑されようと考え、上州無宿忠次郎と名乗って、紀州藩では友五郎を、忠次郎だと認定していた。所が、である。嘗て、友五郎が下総にいた頃、顔を見知っている者が牢内にいて、己れの減刑を条件にして、友五郎が忠次郎ではないことを、役人に告げたのである。友五郎は忠心虚しく斬首され、刑場の露と消えたのである。

 中野代官代理の萩野広介と松代奉行山寺源太夫は、忠次郎が松代一家と深志一家の喧嘩を、仲直りをさせ、手打ち式まで執り行い、向後の憂いを取り除いたので、己れの立場を守ることができた。忠次郎の器量を認め、贔屓にした。忠次郎の人相書が、関東取締出役から配布されてきたが、打ち捨てゝ反故にしていた。

 

 天保十一年(一八四〇)三ッ木の文蔵と八寸の才市は斬首され、江戸は千住小塚原に梟首された。

 秘かに、国定村に戻った忠次郎は、文蔵、才市、友五郎の供養を、養寿寺で行い、永代供養を貞然に頼んで、供養料として、百両の金を貞然に渡し、赤城山に入ることにした。

 信州に逃れる前は、山賊〝鬼辰〟が隠れ家にしていた紫藤洞に住んでいたが、文蔵捕縛の一件もあり、関東取締出役が察知していると考えられるので、紫藤洞に行く訳にもいかない。さて、赤城山の何処を隠れ家にしようか?と思案していると、新里村生まれの久次郎が、得意そうな面持ちをして忠次郎に言った。

「親分。新里村新川にある善昌寺を知っていますか?善昌寺の裏の坂を登って行くと崖があります。その崖の中程に、岩が屋根みたいに張り出していて、雨風は凌げます。広さも可成りあるので、十人位なら十分寝泊りできます。それから国定村から遠くねぇ。俺らぁ餓鬼の頃、よく善昌寺の岩屋に泊ったもんです」

「そうか、久次郎。それじゃあ、善昌寺の岩屋に行くか」

 新里村新川の善昌寺は、天台宗開祖最澄の弟子宥海が、大同年間(八〇六~八一〇)に開山したと伝えられている。境内には、鎌倉時代から南北朝時代に建立された五輪塔群がある。伝承では新田義貞の首塚と謂われている。本堂の北側には、新田義宗の墓がある。

 善昌寺の奥裏にある岩屋に着いた忠次郎は、円蔵を連れて善昌寺の老和尚に挨拶に行った。老和尚は、養寿寺の貞然から忠次郎の漢振りは聞いていた。

「好く訪って下さった。拙僧は一度、国定の貸元とお目に掛かりたいと思っていた。貸元の、吾が身を捨てゝ、一隅を照らす生態は、天台開祖最澄のお言葉に通じる。さあ、お上りなされ」

 老和尚は、飢饉に際しての忠次郎の義侠や山賊退治、村々の巡回で治安を維持したことを、最澄の言葉である〝一隅を照らす〟を使って称賛したのである。

 忠次郎は、年甲斐もなく含羞んで俯いた。

「大したことはしていません。俺達がこうして御飯(おまんま)食っていられるのも、百姓衆あってのこと、その人達が困った時こそ、ご恩返しをしなければならねぇのが、漢の道です」

「漢の道じゃとな、何ものにも捕らわれず自由自在にして、自信に充ちて拘らずに生きる……」

 ――任運騰々(にんうんとうとう)として、拘(かかわ)る処なし

 老和尚が、耶律楚材の湛然居士文集にある詩句を、噛み砕いて謂うのが、円蔵には理解できた。

(確かに親分は、任運騰々として生きている。だが俺はそうゆう訳にはいかない)

 僧侶の歳ほど判りにくいものはない。善昌寺の老和尚は皺の多い面持ちをして、すでに傘寿にはなっているのではあろうが、矍鑠としている。

「何んでも必要な物があれば申して下されよ。遠慮はいりませんぞ。時に貸元、おぬし、般若湯は嗜むのか?……」

「へい。少しばかりは」

「それは重畳(ちょうじょう)重畳。明日の晩にでも一献傾けようぞ」

「承知致しました」

 老和尚は、今評判の仁侠国定の忠次郎と、一緒に酒を飲む約束ができたので嬉しくて堪らない。大口を開けて呵々大笑した。老和尚の笑い声は、上州の初夏の風に運ばれて、赤城山の裾野を這って行った。

 

 昔、大工職人であった浅次郎を呼んで、張り出ている崖の廂(ひさし)に丸太を支()って板を打ち付けさせ、岩屋の奥の十畳ばかりの土間に板を敷いて寝間にした。この上に茣蓙を置けば寝間としては十分である。更に岩屋の中央に、沢吉と久次郎が近くの鏑川から運んできた石を組んで、囲炉裏を造った。

 重兵衛と二人で善昌寺の岩屋に来た浅次郎は、利根川で釣り上げた今が旬の鮎を一魚籠持ってきて、魚籠から鮎を取り出すと、手早に鮎の鱁鮧(うるか)を作った。酒を飲む際に忠次郎が、殊の外、鮎の鱁鮧を好むのを知っているからである。鱁鮧を作るために腸を抜いた鮎は、開きとして保存食にするので、久次郎に言い付けて、笊の上に置いて、陰干しさせ、残った鮎は竹串に刺して塩を振り、囲炉裏の周囲の灰に竹串を刺して焼き始めた。暫くすると、鮎の焼けたこうばしい香りが、岩屋に充満してきた。

「重兵衛、円蔵供をしてくれ。善昌寺の老和尚に、一杯やろうと謂われ呼ばれている。浅次郎と沢吉それに久次郎は、此処で飲んでいろ」

 重兵衛が手配した大間々の辛口酒赤城山を二升と、焼き上った鮎と鱁鮧を手分けして持って、忠次郎、重兵衛、円蔵の三人は、善昌寺の裏に続く坂道を下って行った。

 善昌寺に着くと、老和尚の生活空間である方丈に通された。酒の入った徳利と鮎、それに鱁鮧を差し出すと、老和尚は、皺の中に埋没して、あるか無いかの目を、更に細めて喜んだ。

「鮎か、今が旬じゃな。それは鱁鮧であろう。鱁鮧を肴にして飲むと酒が進む。それに鮎の鱁鮧は肝の臓の薬じゃ、善哉〳〵」

 老和尚は、微笑みながら合掌した。

「禅門には、葷酒山門に入るを許さずと戒壇石に刻まれているが、当寺は天台じゃから、山門に戒壇石もない。第一任運騰々として拘ることなし、が拙僧の信条じゃ。さっ、般若湯でも頂戴しながら、国定忠次郎の水滸伝を聞かせて貰おうぞ」

 忠次郎は、十七歳で二足の草鞋の山桜の鎌吉を叩っ斬り、旅に出て文殊院の耀山に出会い、渡世人として、漢になろう、漢らしく生きよう、漢らしく死のう、と決意して、大前田栄五郎を川越に訪ねて、渡世人の修行をしたことから、百々の紋次の跡目として、国定一家を名乗り、貸元となった。島村の伊三郎を叩っ斬り、旅に出て、大戸の加部安に世話になり、刀工山浦環との邂逅、信州松本の勝太と謂う漢、山賊鬼辰退治の様子、信州の合の川一家の政五郎と以伝次、松代一家と深志一家の手打ち式と、重兵衛と円蔵を交えて、老和尚に訊かれるまゝに語った。唯、天保の飢饉に際しての施米、施金と磯沼の浚渫工事に就いては、己れの徳行を誇るを恥とする忠次郎は、老和尚に訊かれても、頑として語らなかった。

 老和尚は、大間々に斯様に旨い酒があったのかと言って、地酒の赤城山を五合程飲んでしまった。亥の刻(午後十時)は過ぎているであろう。夜更まで五合以上の酒を喰って、少しも乱れない傘寿過ぎの老人があろうか。忠次郎は老和尚の躰を心配しないではいられない。

「和尚、夜遅くまで大変失礼致しました。今夜は一先ず岩屋に帰ります。近々、又参上して一献傾けたいと思ってます。それを楽しみに、本日はこれで失礼します」

 忠次郎が立ち上ろうとすると、老和尚は手を下に向けて、座るように促した。

「貸元。一言教えておこう。仁義の士は際を貴ぶ、と、ある御仁が曰っている。際とは、御仕舞のことじゃ。判るか?」

 ――仁義の士は際を貴ぶ

 忠次郎は、老和尚が死に際のことを言っているのが、理解できた。

(漢になろう。漢らしく生きよう。漢らしく死のうと考えていても、人間は弱いもの。死に際に従容としていることは、難しいことであろう。この言葉は、肝に銘じておこう)

「死に際だけは、無様にしたくはありません」

 忠次郎の言葉を聞いて、老和尚は、莞爾として笑った。

「灼然灼然(いかにもいかにも)」

 

 赤城の小沼の脇に聳える長七郎山の峰から眺める、小沼、大沼、それに覚満淵の紅葉は、目を瞠るものがある。特に、覚満淵の錦繍は、西方浄土を髣髴させてくれ、黄金色に黄葉した覚満淵は、この世のものではない。

 この季節、重兵衛は、小塚原に梟首された三ッ木の文蔵と瓜二つの若い漢を、岩屋に連れて来た。色白で鼻筋が通り、二重の目が張っていて、雀斑のある顔。六尺近い身の丈、胸を反らせて歩く挙措まで、文蔵にそっくりである。

 国定一家に仁義を切って入り、貸元の忠次郎さんとは知り合いであるから、どうしても会わせてくれと拝まれて、重兵衛は困惑したが、どう疑ってみても、忠次郎に仇なす者には思えない。然も、幼馴染みの文蔵と瓜二つである。文蔵に対する懐しさも相俟って、この若い漢を岩屋に案内して、忠次郎に会わせたのである。

 この三ッ木の文蔵の生まれ変りとも見紛う若い漢は、十三年前、忠次郎が、山桜の鎌吉を叩っ斬り、川越で渡世を張る大前田栄五郎を頼って、旅をしている途中、武州熊谷宿の近くを流れる荒川の河原で、漁師と争っている子供を助けたことがある。その時は七歳であった石原村の幸次郎である。

 忠次郎に荒川の河原で助けられて間もなく、労咳で臥せっていた幸次郎の母親は死んだ。頼る者もなく、途方に暮れる幸次郎を、秩父の渡世人岩五郎が拾って育てた。岩五郎は、旅から旅へと渡り歩く渡世人で、その行動圏は、伊勢、駿、豆、武、甲、信州の七カ国である。