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数日後、子分の弥兵衛達の奔走の甲斐あり、政五郎の寝込みを襲ったのは、高橋一家の貸元治助に頼まれた難波の次郎達の仕業であることが判明した。憤慨した弥兵衛達子分は、貸元の治助とその倅の綱助を政五郎の前に連れて来た。

「兄弟分の盃を交した綱助と、その親である治助が、なんの恨みで俺を殺そうとしたのか?しかも、手前達で手を下さねぇで、寝込みを襲うとは卑怯じゃあねぇか。そんなに俺の命が欲しくば呉れてやる!さあ勝手にしろ!」

 政五郎は、胸のすくような啖呵を切ると、諸肌を脱いで胡坐を組んで、治助と綱助を睨め付けた。

「申し訳ねぇ。合の川の、この通りだ」

 政五郎とは、渡世人として、漢として、貫禄の違いを悟った治助と綱助は、平謝りに謝り、政五郎に詫びを入れた。

 結果、今まで政五郎の四分六の舎弟であった綱助を子分にして、高橋一家の貸元である治助を四分六の舎弟とすることゝした。

 治助親子は、政五郎の度量の大きさに救われたが、実際に親分の寝込みを襲った野郎は、看過できないとして、弥兵衛達子分は、難波の次郎達四人をひっ捕えてきて、叩っ斬ろうとした。

「止めろ!弥兵衛。此奴等は、渡世の義理立で俺を斬らねばならなかったのだろう。お前達が俺に義理立して躰を賭けるのと、少しも変りはねぇ。どうしても次郎達を斬りてぇなら、俺を斬ってからにしろ」

 親分にそこまで謂われて、次郎達を斬れる子分はいない。弥兵衛達は翻意して、長脇差を鞘に納めた。

 政五郎の度胸の良さと、度量の広さは、この事件を知った旅人の口から口に、越後は疎か、関八州、奥羽、東海道、津々浦々に知れ渡った。

 この後、各地を旅して、舎弟分、子分を多く持ち、その数二千人と謂われた。

 

 文政五年(一八二二)政五郎、三十五歳。信州水内郡権堂村に居を構えて、合の川一家初代として渡世を張った。権堂村で渡世を張ること十年。二代目を島田屋以伝次に譲り、隠居して、上総屋源七と名を変えて、女郎を抱えた旅籠「上総屋」を営んだ。

 天保八年(一八三七)政五郎、五十歳の時、旅籠「上総屋」を、渡世の二代目である島田屋以伝次に譲り、上州に帰って、日光例幣使街道木崎宿に、合の川の発祥の地である海老瀬村の名を取り、旅籠「海老瀬」を開業した。この時から、先祖伝来の襲名である仙右衛門を名乗り、高瀬仙右衛門となった。

 

 国定一家の常設の賭場、即ち常盆は、国定一家の代貸で四天王の一人である重兵衛が死守する本部屋は、毎月丁の日(偶数日)の二、六、十二、十六、二十二、二十六の二と六の日に、四天王の板割の浅次郎が死守する下部屋は、半の日(奇数日)の一、五、十一、十五、二十一、二十五の日に、四天王の三ッ木の文蔵が死守する下部屋は、丁の日の四、八、十四、十八、二十四、二十八の日に、更に四天王の一人、山王民五郎が死守する下部屋は、半の日の三、七、十三、十七、二十三、二十七の日に、それぞれ開帳していた。

 天保の飢饉の傷跡が癒えかけた天保八年の暮れの二十八日、三ッ木の文蔵が死守する賭場の縦盆に座って、五両、十両の駒札を景気好く、ぽんぽん張っている、一人の漢がいる。身形(みなり)は堅気の旦那のようであるが、賭場での所作は、渡世人其の物である。長年の間に染み付いた渡世の垢は、隠しても隠しきれないものである。

 この日は忠次郎も赤城山を下りて、退屈しのぎに文蔵の賭場に来て、張り取りをしていた。

 縦盆に座った客は、賭場の雰囲気に融け込んで、真から博奕を楽しんでいて、勝負にはあまり拘泥していないようである。

(奇特な人がいるもんだ。ありがてぇ)

 文蔵は賭場を死守する貸元として、喜んでいる。

 暫くして、縦盆で張り取りをしている客の駒が多いので、他の客は駒が合わせられなくなってきた。縦盆の客は淡々として、駒が合わなければ、足りない分の駒を引っ込めて、盆の上の駒を合わせている。次に、縦盆の客は、これ一番を張り流して、帰るのであろうか。丁座に五十両の駒札を張った。他の客は顔を見合わせて躊躇している。一人で縦盆の客の向うを張り、五十両を張れる者はいない。縦盆の客は、自分の張った駒を引っ込めようとして、手を出した。

「半に五十両だ」

 見るに見兼ねた忠次郎は、この出目はないだろうと考えつつ、自分の前に置いてある五十両分の駒札を張った。

「待った、国定の。俺は駒を三十両ばかり加減するぜ」

 忠次郎が、立て引きをしてくれたのを察して、縦盆の客は遠慮したのである。

 国定の、と謂われて忠次郎は、縦盆の客に対して抱いていた疑問が氷解した。合の川の政五郎が隠退して、木崎で旅籠をやっていると、耳にしていたのである。

「若しや客人は?」

 忠次郎が言い掛けた時、縦盆の客は頷いて、口の前に左の人差指を翳した。それ以上言ってくれるなと謂うのである。肯いた忠次郎は、縦盆の客を自ら案内して、隣りの部屋に誘った。客を床の間を背にした上座に座らせて、忠次郎は恭しい態度で下座に座った。

「合の川の叔父御。本日初めてお目通り叶います。手前、国定の忠次郎にござんす。ご視見通り、しがない者にござんす。今日向お見知り置かれまして、行末万事、お引立の程お願い仕ります」

「丁重な挨拶、ありがとうよ。国定の。俺は今堅気だ。堅苦しいことは抜きにしてくんな」

 気さくに高瀬仙右衛門は応えた。

 高瀬仙右衛門こと、合の川の政五郎は、木崎宿に来て、旅籠を開いて、忠次郎の侠名を聞く度に、忠次郎に会いたいと思って、文蔵の賭場に来て、忠次郎が来るのを待っていたのである。

 仙右衛門は初めて忠次郎をまのあたりにして、思った。

(噂以上の好い漢振りだ。俺の二代目の以伝次も又五郎も、忠次郎どんには敵わねぇ……)

 叔父御とは、己れの親分の兄弟分(五分)又は兄貴分を指して謂う。叔父貴とは、己れの親分の舎弟分を謂うと前述したが、渡世の先達で著しく貫禄のある者に対して、尊称することもある。忠次郎はそれに従った。噂では聞いたことがある合の川の政五郎と会って、話をすることで、忠次郎は、合の川の政五郎が、並の漢ではないと識った。大前田の兄貴とは違った偉大さを感じた。

「国定の、俺の跡目の島田屋以伝次が、信州の権堂にいる。楽旅の時はどうでも好いが、兇状旅の時は必ず以伝次の所に草鞋を脱いでくれ。役に立つ野郎だ」

「ご心配してくれて、ありがとうござんす。信州には浅からぬ縁がある手前ですので、その折はどうか宜しく、叔父御。お願い申します」

 仙右衛門は、嬉しそうに微笑んだ。

 これが三ッ木の文蔵が捕縛される、三カ月前のことである。

 

 赤城山の紫藤洞に、四天王の重兵衛、浅次郎、民五郎を呼び、円蔵を交えて、文蔵が捕縛された後の世良田、木崎一円の縄張りを、境川の安五郎に死守させることとした。次に忠次郎と一緒に旅に出る者を選定した。行く先は、信州権堂村合の川一家二代目、島田屋以伝次の所で、随員は円蔵、沢吉、久次郎の三人である。

 翌早朝、忠次郎、円蔵、沢吉、久次郎の四人は、赤城山を南西に下り、渋川に出て、吾妻川沿いを中之条に向った。中之条で一泊して、翌朝は長野原を経て、草津を目指した。草津は天下の名湯がある。開湯は、日本武尊とも源頼朝とも伝えられている。室町時代は、連歌師の宗祇や宗長が訪れた。戦国時代は武士の湯治場として賑わい、下って江戸時代には、温泉番付で〝西の有馬、東の草津〟として大関の地位にあった。

 

 三月半ば、吾妻川の反対側、忠次郎達の進行方向右側に連なる畑の所々に、遅咲きの白梅が、楚々たる花を咲かせている。

   春来り幽谷に 水潺々(さんさん)たり

   的皪(てきれき)たる梅花 草棘(そうきょく)の間

 忠次郎が自然に詠じた詩を耳にして、円蔵は如何にもという面持ちをして、深く肯いた。

「蘇東坡ですね、親分。正に今、此の辺りの場景そのものですね」

 曲がりなりにも、法華寺で小僧をして、修験道の行者として修行をしていた円蔵である。漢詩の素養はある。

 久次郎が、梅の花の香りを嗅ごうとして、鼻を蠢かした。

「あれ?温泉の匂いがする。草津に着いたかな?」

 畑の中の梅の花に見惚れていた三人が、前方を眺めると、草津は指呼の間にあった。

 草津の旅籠「桜井」に草鞋を脱いだ忠次郎達は、旅の疲れを湯に入って癒した後、夕飯を食った。膳を運んで来た女中に、忠次郎は、久次郎に命じて、小粒銀を御捻りして渡させて訊いた。

「草津には賭場はねぇのかい?」

「お客さん。大有りですよ。五町田一家の賭場が、この先の『富士屋』で毎晩できてます。行くのですか?それならわたしが案内します」

 忠次郎は、上州の外れの草津に来て、明日は、信州に入れるという安堵感もあり、向日後の運を試したいと考え、五町田一家の賭場に行くことにした。

 

 五町田一家は、伊香保・五町田・中之条・草津の温泉道に発生した一家で、吾妻郡東村五町田の嘉四郎が貸元で、吾妻一円、北群馬郡から渋川に伸びた一家である。嘉四郎は、忠次郎より三歳下で、明治三十三年二月、八十七歳で大往生しているから、この時は二十五歳である。東村五町田が本拠で、そこに本部屋があり、草津は下部屋の貸元赤岩の仙松が死守していた。五町田一家の賭場は、湯治に来ている各地の旦那衆で賑っていた。

 身分を隠して、二刻(四時間)ばかり遊んだ忠次郎は、八十両程儲けた。三十両を賭場に祝儀として渡し、五十両を懐に入れた。どうやら、幸先は良いようである。

 忠次郎に付いて来た久次郎は、春の朧月を見上げて言った。

「此奴は春から…縁起がいいや…」

 久次郎の利いた風な科白を耳にして、忠次郎は腹を抱えて笑った。

 

 翌日、黎明前、忠次郎達は「桜井」を出た。白根山に登り、山田峠を越えて信州に出て、渋峠、木戸池、三角池、琵琶池を経て、湯田中温泉に至る山岳地帯を、四人は歩いた。雪はかなり残っている。下げ緒の草鞋に革製の足袋を履いているが、冷気が足袋の中まで染み込んで、足の指が千切れそうである。それをものともしないで、忠次郎達四人は、その日の亥の刻に、湯田中温泉の「千曲荘」に辿り着いた。並大抵の足ではない。驚異的である。

 千曲荘は四年前、忠次郎から、子分の盃を受けた茅場の長兵衛が、国定一家の下部屋の貸元として、初めて花会を開いた場所である。それを僻んだ小布施の滝蔵が、捕方に化けて乗っ込んできたのを、見破り、何人かを叩っ斬り追い払ったことがある。執念深い滝蔵は、忠次郎が上州に帰った後、長兵衛を騙し討ちにしてしまったのである。長兵衛の仇を討とうとして、国定一家の精鋭を引き連れて、忠次郎達が大戸の関所を破り、信州に入った時は、すでに時遅くして、滝蔵は役人に捕縛されたと知り、悔しい思いをしたのである。それを思うと、後悔の念が湧き起る。

(あの時、捕方に化けた小布施の滝蔵を、追い掛けて行ってでも、殺っておけば好かった…………)

 白根山を強攻突破した疲れが、湯田中の湯に浸ると、嘘のように消えて行った。

 近くで、鶯が鳴いている。法ー法華経―騙し討ちされて彷徨う、茅場の長兵衛の魂魄を、鎮魂しているように、鶯の啼く声が忠次郎には聞えた。

 

 善光寺は、山号定額山。七世紀の初めに創建された。本尊は、阿弥陀如来。古くから特定の宗派に属することなく、独自の信仰的存在として、信仰を集め、善光寺詣が盛んに行われた。現在は、僧寺の大勧進(天台宗)と尼寺の大本願(浄土宗)が、共同管理している。

 一般的に寺社領や天領の幕府直轄地は、大名支配の藩領よりも取り締りが緩やかであった。そういう寺社領の典型が、信州善光寺、伊勢山田、讃岐琴平、奈良である。渡世人が集まり、暮らし、隠れ易い土地とされ、女郎を置く旅籠も商売し易かった。

 善光寺の門前町である権堂は、女郎屋、旅籠が多く、善光寺詣の客で殷賑を極めていた。

 祭りのような賑わいの中、忠次郎達は、高瀬仙右衛門に貰った地図を頼りに、合の川一家二代目、島田屋以伝次の店に向った。本通りを暫く行くと、「上総屋」はあった。間口が何間あるのであろうか、相当に広い。円蔵と沢吉は、先触れの仁義を切ろうとして店先に立ったが、はてなと思案した。

(お客の出入りしている店の中で、仁義を切って良いのだろうか?)

 沢吉は、たまゆら考えた。

「一寸待て、円蔵。店の裏に廻ってみよう」

 忠次郎の言葉に従って、店の裏の道に入ると、入口の障子に、墨痕鮮やかに、合の川と書かれてあった。

 先ず、円蔵と沢吉が門口に立って、先触れの仁義の一声を放った。とん、とん、とんと、三歩半進んで、とんと一歩戻った。上州の渡世人の仁義は、型に填(はま)っていて垢抜けている。受ける合の川一家も、上州系の渡世人である。気迫と気迫がぶつかる仁義が済んで、お互いに渡世人としての器量と技倆を確認し終って、忠次郎達は、合の川一家二代目の貸元である以伝次の部屋に通された。

 以伝次はこの時、四十歳位であろう。脂の乗った漢盛りである。中年太りで肥えてはいるが、堅太りで、眼光は炯々としている。

 忠次郎は一見して、以伝次が只者ではなく、修羅場を掻い潜って来た本物の漢であることを看破した。合の川の政五郎が、自分の跡目に選ぶだけの漢である。

 仙右衛門からの添書を読み終ると、口元を綻ばせて、以伝次は言った。

「好く御出下すった。俺は国定の忠次郎と謂う漢に、一度会ってみてぇと思っていた。会えて嬉しいぜ。俺の所にいれば、絶対に役人に手は掛けさせねぇ。どうか気の済むまで、信州にいて下され」

「兇状旅で厄介をお掛けすると思うが、今日向宜しくお頼み申します」

 以伝次の温かみのある言葉に、忠次郎は丁重に応じた。こうして、一カ月ばかり、合の川一家に逗留していた忠次郎達は、以伝次が手配して借りてくれた中野の家に移った。中野は、四年前、茅場の長兵衛が、忠次郎の子分としての盃を受けた際、深志の勝太が一家の飛縄張(とびしま)である中野の縄張りを、餞贐として、長兵衛に呉れた場所である。

 中野は代官支配の天領である。八州取締出役の捜索の手を逃れている忠次郎が、どうして、天領である代官支配地に居を構えることができたかと謂うと、中野代官高木清左衛門は、百俵二人扶持で、江戸本郷元町に住み、江戸常詰で、年に一度、中野に出張するだけである。代官代理として、萩野広介がいて、中野代官所を取り仕切っていた。この萩野広介は、合の川一家の先代政五郎が、上総屋源七と名乗り、旅籠をやっていた頃から、交際があり、源七を贔屓にしていた。以伝次の代になっても、それは続いていた。悪党捕縛の捜査協力、時には金を融通し、渡世上の御目零しをして貰う、切っても切れないものが、萩野広介と以伝次の間にあり、その紐帯は堅いのである。

 代官領に住むことは、上州にいるのと何ら変りはなく、危険極まりない。怪訝に思った忠次郎ではあるが、以伝次の漢を信じた。

 そのうち、忠次郎が中野にいるのを聞き付けて、茅場の長兵衛の代貸をしていた曽我の新蔵が、子分を連れて来て、賭場を開くようになった。幕府の八州取締出役に指名手配されている忠次郎が、幕府の天領で堂々と賭場を開いていられるのだから、以伝次の中野代官所に対する影響力は、刮目すべきものがある。

 忠次郎は、嘗て、島村の伊三郎を殺した時、信州を旅して、松本の深志一家の貸元である勝太の所に草鞋を脱いで、一方ならぬ世話を受けた。その内、勝太を訪って、久闊を叙したいと考えていた。

「親分。深志一家と松代一家の喧嘩があるという話です。両方共、助っ人が陸続(りくぞく)と集まり、大変な騒ぎです。松代一家の貸元は、以伝次さんと兄弟分で四分の舎弟だから、合の川一家は、松代一家に手を貸すのじゃねぇか、と噂されています。合の川一家が松代一家に助っ人すれば、この喧嘩の帰趨は決まると、この近所の者は謂っていました」

「そうか………」

 久次郎の報告を聞いて、忠次郎は腕を組み、首を傾けて思案した。この前の旅で厄介になった勝太には、義理を感じている。此の度の旅では、以伝次に厄介になり、義理を感じている。その以伝次が、勝太の敵である佐久造に味方すると謂う。彼方を立てれば、此方が立たぬ。渡世の義理の重さを、忠次郎は痛感した。