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 天保四年(一八三三)長雨、冷涼の天候不順から飢饉は始まった。半世紀前に猛威を振った天明の飢饉と同様、天保の飢饉も、奥羽地方に甚大な被害を与えた。関八州でも例外でなく、上州でも不作が続いて、葛、蕨、野老(ところ)などを掘り、木の実を拾って、飢えを凌ぐありさまであった。

 特に、天保七年(一八三六)の秋作が、未曾有の凶作であったため、貧民は不穏な動きを始めた。

 天保七年、大阪町奉行所与力で、陽明学者である大塩平八郎は、飢饉の救済を町奉行所に訴えたが、受け入れられず、蔵書を売って難民に施米したが、焼け石に水であった。翌年二月、門下の与力、同心を従え、幕政を改めさせるため挙兵したが、失敗して自殺した。

 忠次郎が、飢饉のための窮民救済を計画し、実行したのは、大塩平八郎の挙兵に溯ること、五、六カ月前である。

 暫くして、重兵衛が口を開いた。

「要するに、百姓衆は食う物がねぇ訳だ。だから、米か麦を手に入れなけりゃならねぇ。此の様子じゃあ、米と麦の相場はかなり上っているに違いねぇ。一体どれ位上っているんだ」

「先達って、伊勢崎の米問屋に訊いたら、金一両で米八斗、麦なら二石三斗と謂っていた」

 香林一家の久兵衛が答えた。

「十倍は優に上っているぜ」

 浅次郎が、信じられぬといった面持ちをした。

「して、一家の金は現在、幾等あるんだ?重兵衛」

「百両弱しかありません」

 重兵衛の答えに頷いた忠次郎は、意を決したように眦(まなじり)を上げた。

「こうなったら、金はある所から借りるしかねぇ。上州の三大尽にお頼みしよう」

 こうして、大戸の加部安には、忠次郎の信書を携えた円蔵が、甘楽郡一宮の鈴木家には、民五郎が、桐生の佐羽本家には、文蔵が、忠次郎の名代として、窮民の救済資金を融通して貰うべく出張って行った。

 

 縞の合羽に三度笠、長脇差を腰に落した道中姿の男が、桐生新町に入って来たのは、赤城颪が吹き始める頃であった。男がしきりに叩いているのは、たった今、店を仕舞って閉めたばかりの、佐羽本家清右ヱ門の大戸である。

「どなた様でしょうか?」

 不審に思った手代の新助が、大戸の内側から誰何した。

「手前は、国定村の長岡忠次郎の名代で参りました、文蔵という者でござんす。ご主人様に、取り急ぎお目にかゝりたい用件を持ちまして、夜分、失礼さんでござんすが、参上致しました」

 文蔵の丁重な挨拶を聞いて、新助は早速、清右ヱ門に取り次いだ。

「忠次郎親分の名代とあっては、むげにお断りする訳には行くまい。お通しなさい」

 清右ヱ門の許しを得て、新助は潜り戸を開けて、文蔵を招き入れた。

「ご免なすって」

 文蔵は潜り戸を潜り、店内に入った。座敷に通された文蔵に、清右ヱ門は言った。

「して、ご用件は何んでしょうか?」

 清右ヱ門に訊かれた文蔵は、忠次郎の言葉を手短に伝えた。

「今年は近年稀にみる凶作で、近在の百姓衆の難儀は深刻であり、見るに忍びない。歳の瀬も近い、飢えに泣く百姓衆に、例え僅かにもせよ、近郷分限の助けを借りて、温かい救援の手を差しのべてやりたい。就いては、突然の申し出ながら、忠次郎の名に於て、救援資金として金五十両借用したい」

 清右ヱ門は、あまりの突然さに呆然としたが、やがて奥から切餅(二十五両)包みを二つ持ってきて、文蔵の前に差し出した。

「親分さんのご心情、此の清右ヱ門好く判りました。少々ですが、用立せて下さい」

 流石に大店の主人である。悪びれもせぬ貫禄は、桐生屈指の分限者佐羽本家の当主として面目躍如たるものがある。

 文蔵は清右ヱ門に、厚く礼を述べ、間もなくからっ風の吹く闇の中に消えるように去って行った。

 甘楽一宮の鈴木に出向いた民五郎も、五十両を持って首尾好く帰って来た。

 大戸の加部安に出張て行った円蔵は、百両の金を持って帰って来た。

 忠次郎の文を読んだ加部安は、直ぐに手文庫から、切餅四つを取り出して、円蔵に渡した。

「国定の貸元に申し伝えて下さい。大戸の加部安が会える日を楽しみにしていますと…」

 一家の金が百両。加部安が百両。佐羽が五十両。鈴木が五十両。合計三百両の金が集まった。具体的に何処の村に施米をして、窮民を救済するのか?四天王や円蔵に諮った。結果、国定・田部井を中心に五目牛・赤堀の村々を、その範囲とした。

 しかし問題なのは、如何にして、米を買い入れるかである。金があっても凶作だから、米が少なく、思ったように米を買い入れられないのが、飢饉の飢饉たる所以である。

 窮余の策として、重兵衛が国定村の名主又兵衛に頼んで、米を買い付けて貰った。その米を国定村の名主の又兵衛と田部井村の名主宇右衛門に渡して、窮民に施米して貰った。

 己れの徳行を自慢するを恥とした忠次郎の行為は、やがて村々の百姓衆の知るところとなり、弥が上にも忠次郎の侠名は上った。

 当時の様子を、関東代官羽倉外記が書き残している。

(土地の者が謂うには、赤城山中にお尋ね者の賊が隠れています。忠次郎と謂う博徒で数十人の子分を引き連れています。昨年の冬以来、たびたび山を下りては、飢饉に苦しむ貧民に米銭を与えて助けています。本来は民の父母たる代官の私が、窮民を救助しなければならないのに、忠次郎という劇盗のお蔭で、民は飢えや凍えから救ってもらっているではありませんか。この事実を聞いて、恥ずかしさのあまり赤面して、背中までぐっしょりになり、穴があったら入りたいくらいでした)

 飢餓に苦しむ窮民に手を差しのべるのは、本来、為政者の仕事である。次に生業、その他、生活圏を共にする裕福な持てる者、豪農商であろう。それをこともあろうに、お尋ね者の博徒である賭魁(とかい)忠次郎が、賑救(しんきゅう)に当っているのである。苟(いやしく)も関東代官である羽倉外記は、内心忸怩たるものがあったであろう。

 天保の飢饉の際、窮民の救済に立ち上った漢が、上州にもう一人いた。東小保方村の三室に住む、三室の勘助である。勘助は義侠である。

 

田中の沢吉

 

 文化十二年(一八一五)忠次郎の誕生に遅れること五年、田中の沢五郎こと沢吉は、新田郡下田中村で生まれた。下田中村は、文蔵の生家のある三ッ木の隣村である。父親の原田武之助は柔術家である。兄が一人いて金吾と謂う。後に蘭学を学んで医師となる。武之助は金吾、沢五郎兄弟に、文武共に英才教育をしたので、二人は神童と呼ばれ、将来を嘱望されていた。

 沢五郎は十五歳の頃、三ッ木の文蔵と知り合い、百々の紋次の賭場に顔を出すようになった。

 忠次郎が国定一家を名乗った時は、弱冠十五歳であったため、子分の盃は貰えなかった。民五郎と円蔵が盃を受けた際、同時に忠次郎から、子分の盃を貰った。

 嘉永三年(一八五〇)忠次郎始め、国定一家の殆どの子分が捕縛され、獄死又は梟首されたなか、沢五郎は捕史の手を逃れて、沢吉と名乗った。

 忠次郎が大戸の関所で、磔刑されてから七年目の安政四年(一八五七)夏、国定一家の縄張りである世良田の祇園の祭日に、賭場がたった。賭場を仕切る貸元は、下久方村の博徒で佐市と謂い、佐渡の金山で、水替人足の地獄を生きのびて、上州の地に生還した、生命力のある強運の持ち主である。佐市は、国定一家が壊滅したものと考えていた。何年か振りで世良田の祇園の賭場がたったので、客の入りも多く、盛況を極めていた。佐市は、盆茣蓙の上に張られている駒札の多さに、ほくそ笑んだ。

 と、その時、賭場の入口に苦味走った一人の男が立っていた。身の丈は五尺二、三寸程で、胸は厚く、肩幅もある。何処の貸元かと考えて、佐市が眼を凝して男を見ると、男は訛み声ではあるが、良く通る声で、佐市を詰った。

「此の賭場を仕切っているのは手前か?此処が国定一家の縄張りと知ってのことなら、好い度胸だ!それとも、貸元面しているが、渡世の筋も判らねぇ紛い物か!!

 田中の沢吉に詰られた佐市は、顳顬(こめかみ)に血管を浮べて、口を震わせた。

「何処の馬の骨か知らねぇが、俺の賭場に因縁を付けて、たゞで済むと思うな」

 佐市は、長脇差を鞘から抜くと、いきなり沢吉に斬り込んだ。佐市の太刀筋を見極めて、左に躱した沢吉は、一歩踏み込んで佐市の右腕を掴むと、背負い投げで、地べたに強かに投げ付けた。

「この野郎!」

 佐市の子分達は、熱り立ち、匕首を抜いて沢吉を取り囲んだ。沢吉も長脇差の鞘を払った。沢吉は、佐市の子分で、最も腕の立つと思える身の丈六尺はあろうかという鬼瓦のような顔をした男を、先ず叩き斬ろうとして、一歩間合を詰めて、長脇差を大上段に振り翳した。

「待ちねぇ!」

 何者であっても、躊躇せずにはいられない、凛とした響のある声がした。

 沢吉が振り翳した長脇差を下して、後を振り返ると、そこには大前田栄五郎が立っていた。

「大前田の叔父御……」

 この時期、栄五郎は、前橋から母親の生家がある勢多郡大胡に居を移していた。駒形に米八という子分がいて、貸元として駒形一円の縄張りを死守していた。たまたま、米八の所に遊びに来ていた栄五郎は、明日、長楽寺の賭場が開かれることを、米八から聞いたのである。

(はて、残っている国定一家の子分で、賭場を死守できる者がいただろうか?)

 こうして、栄五郎は、長楽寺の賭場に現われたのである。

「沢吉じゃねぇか。一体どうしたんだ」

 暫く振りに栄五郎が沢吉を見ると、渡世人としての貫禄がすっかり備っている。腕っ節が強くて喧嘩っ早い沢吉の面影は、微塵もない立派な貸元である。

(大きくなったなぁ……)

 何が起っても、決して魂消たりしない栄五郎が、渡世人として成長した沢吉をまのあたりにして、感嘆した。

「叔父御。ご無沙汰しておりやした。手前、長い草鞋を履いていましたが、先達って上州に帰ってめえりやした。すると、家の縄張りの長楽寺に賭場がたつと耳にして、乗込んで来た訳でして、後は、見た通りでござんす」

「国定の兄弟と主立った子分は御用となり、処刑されたり遠島されたが、子分の全部がそうなった訳じゃあねぇ。この通り、沢吉もいるじゃねぇか。従って、国定一家の縄張り内で勝手に賭場を開くことは、渡世の筋にはねぇぜ」

 息を吹き返して、我に返った佐市と子分は、片膝を地べたに着いて、項垂(うなだ)れて栄五郎の言葉を聞いた。

「おい佐市!手前は好くねぇ。沢吉に詫びを入れろ」

 栄五郎の鋭い眼差しに射竦んだ佐市は、地べたに両手を着いて詫びを入れた。

「沢吉どん。俺が悪かった、勘弁してくんな。この通りだ」

 沢吉が栄五郎の顔を見ると、栄五郎は切れ上った眦(まなじり)を下げて頷いた。

「佐市、判ったぜ」

 過ちて則ち改むるに、憚ること勿れ。当時の渡世人は、己れが悪いと気が付けば、誰に憚ることなく詫びる潔さと、それを許す度器を尊ぶ傾向が顕著であった。

「処で沢吉、好い機会だから、今日向、国定一家の縄張りは、全てお前ぇが受け継げ。儂が承認するし、後見もする。境川の安五郎に、国定の兄弟は駒札と壷、それに賽を譲ったと聞いてはいるが、肝心な安五郎が、捕縛を恐れて、行方を晦(くら)ましていたんじゃあ、一家は成り立たねえ。今日のような騒動は又起こる。沢吉、お前ぇは既に、その貫禄はある」

 栄五郎から、国定一家の跡目を継ぐように言われた沢吉は、胸に溢れるものがあった。その感激を押えて、着物の裾の乱れを直し、襟を正して、栄五郎を正視した。

「大前田の叔父御。折角のお言葉ではございますが、私、浅学非才、渡世駆け出しの若輩者で、その器ではありません」

 栄五郎の薦めを二度辞退してから、

「謹んでお受け申します。今後共、宜しくお引立お願い申します」

と言って、作法通り三度目に、国定一家の跡目になるのを承諾した。漢として見事な行蔵である。

 栄五郎は、切れ上った眦を細めて笑っている。

「大事なことだから言っておく。国定一家を継いだからといっても、国定一家を名乗るな。国定の家名を名乗れば、お上を蔑ろにしたとして、必ず弾圧されて挙げ句は獄門だ。沢吉、お前ぇは確か、田中の沢吉と呼ばれていたな。家名は田中一家として、国定一家の残っている者を集め、一家の縄張りを死守しろ」

 国定の忠次郎は、生きていた時も、処刑されてからも、反権力の象徴である。その国定一家が、再生されたと知れば、幕府が徹底して弾圧を加えるのは、目に見えている。沢吉には好く理解できた。こうして、国定一家の跡目と決まった沢吉は、国定一家としては二代目、田中一家としては、初代になったのである。

 

 大前田栄五郎の承認を受け、後見人になって貰った沢吉は、忠次郎の後継者として、国定一家の残党を集め、賭場を再開し、渡世を執り始めた。これを察知した関東取締出役は、天下の極悪人国定忠次郎の一家を継承するとは、お上を恐れぬ不届き者であるとして、田中一家に弾圧を加えた。安政六年(一八五九)田中の沢吉は、関東取締出役中山誠一郎の手に拠り、到頭、捕縛されてしまった。中山誠一郎は、江戸勘定奉行御役屋敷に、沢吉の身柄を押送する前、罪状を自白させて、口書きとして纏(まと)める必要があるので、伊勢崎藩の中島牢に収監した。

 沢吉が中島牢に収監されて五日目、顔が強張(こわば)り、耳が千切れる位痛い、赤城颪が身を嘖む満月の夜、一人の若い漢が中島牢の高い土塀を乗り越えた。暫く様子を窺っていたが、人の気配の無いのを確認して、一歩、二歩、三歩と忍び足で、牢屋と思える横長の建物に近付いた。すると、その建物の中央部に詰番所らしい小屋があったので、中の様子を窺うと、牢屋同心が二人、いぎたなく寝ていた。傍(かたわら)に一升徳利が転っている。一人の同心の腰の帯には、牢の鍵が差してある。これは幸いと、そっと手を出し鍵に指を掛けた時である。

「曲者!」

 いきなり、背後から斬り付けられた。牢屋を見廻りしていた同心が、還って来たのである。

 咄嗟に体を躱して、長脇差を抜くと、透かさず二の太刀が振り下された。頭上で長脇差を水平にして受けて防御し、一歩後退してから、次に二歩半踏み込んで、同心を左肩から袈裟懸けに叩っ斬った。騒ぎに目を覚した二人の同心が、刀を抜くのを尻目に、若い男は土塀を乗り越えて、月も凍るような闇の中へ、一目散に走り去った。呼子の音が、夜空に空しく鳴り響いていた。

 沢吉の一子、田中の敬次郎。この時十五歳というから、その大胆さは渡世人としての資質に、端倪すべからざるものがあったと謂えるであろう。

 敬次郎の孝心空しく、田中の沢吉は春を待たず獄死した。安政六年三月十五日、四十四歳であった。

 牢破りのお尋ね者となった敬次郎は、江戸に行った。江戸では、当時、新門辰五郎と共にその漢振りが謳われた、臥煙(がえん)の肥後常の所に世話になった。肥後常は、その名の通り肥後の産であり、加藤清正公を尊崇していた。

 後に清水港に行き、次郎長一家に草鞋を脱いだ。次郎長にその漢振りを認められ、請われて四分六の兄弟分の盃を交し、舎弟になった。拠って、清水の二十八人衆に数えられている。

 明治になり、ご一新の恩赦に浴して、上州に帰り、原田政蔵と名を変えて、田中一家二代目を継承した。明治三十年八月三日、五十三歳で政蔵が没すると、三代目を小此木藤吉が継承した。二代目政蔵の子分、笠懸村の長沢代助が、国定一家を名乗った。

   国定一家系譜

 国定忠次郎 嘉永三年十二月二十一日没 四十一歳

 田中沢吉(沢五郎) 安政六年三月十五日没 四十四歳

 原田政蔵(田中敬次郎) 明治三十年八月三日没 五十三歳

 小此木藤吉 昭和十一年九月十四日没 七十八歳

 長江喜代治(通称福島庄) 昭和三十年五月五日没 九十一歳

 栗原今治(通称幕田今治) 昭和四十五年五月三日没 八十二歳

 そして、現隠居である大澤孝次氏当代である鈴木郁夫氏が、系譜に連なるのである。