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部落解放同盟上杉佐一郎理事長

徳川家康が関ヶ原の戦いで天下を掌握して、二度と戦国の時代が訪れない様に林羅山に命じて儒教を取り入れた教育を武士に行った。更に、四民制度を導入して士・農・工・商と人々に階級を付けた。そして、その下に非人・穢多を置き四民の優越感を満足させた。儒教では博愛を謳っているが、儒教学者である林羅山はそれを無視してこの様な同じ人間に階級を付けたのだから、似非儒教学者と言わなければ成らない。人間は何がありても、犯す事が出来ない尊厳を持っている。その尊厳を犯す事は、例え天皇陛下であっても出来ない。この歴史的差別と戦ってきたのが、部落解放同盟を創設した松本治一郎であり、その片腕と成り。部落解放運動に身をささげてきたのが上杉佐一郎である。まさかこの様な立派な人と会う羽目に成るとは、私は思っても見なかった。それは、日本興業銀行の件で桑原太郎が犯した信義にも悖る行為に対して、上杉佐一郎が稲川会三代目会長に詫びをする為でもあった。誠に美味しいステーキを食べさせ又美味しいワインを飲ませる新橋の地下にある店であった。出席したのは三代目会長を始め会長秘書の、近藤・中谷・私と大山健太郎会長室々長の稲川会側五名で、先方は上杉佐一郎。成塚靖雄・須永洸の三名である。上杉佐一郎は顔の半分を白い髭に包まれて、パイプを咥えて、にこにこしていた。成塚は上杉佐一郎の側近である事が直ぐに解るように、気を使いながら店にあれこれ指図をしたり、上杉佐一郎に耳打ちをしたりしていた。先ずは成塚が口を切った。

「本日はお忙しい中、稲川会々長に置かれましては、態々斯様な所までおいでいただき誠にありがとうございました。又先般、日本興業銀行の件については大変ご心配及び、ご迷惑をおかけいたし、誠に申し訳ございませんでした。衷心よりお詫び申し上げます。本日これを機会に会長には、ご厚情を持っていただきたく存じます故。今後とも宜しくお願い致します」

会長は大きく頷いた。そして愛嬌のある微笑をした。会長が微笑むと上杉佐一郎も微笑んだ。私はそれを見て事を為した者は誰でも微笑が良いと思い。この微笑の中には一点の稚気があるからだと思った。

どんなに偉く成ろうとお金を持とうが、人間は年をとっても一点の稚気が欲しいものである。ヤクザ社会の頂点にある会長と部落解放同名の頂点にいて、カリスマ的存在の二人を見て私は一点の稚気の大切さを知った。頬が落ちる位、美味しい肉とロマネコンテであろうか、ブルゴニューのこれ又、美味しいワインを飲みながら雑談が続いた。

「髙田さん。ご出身は何処ですか?」

成塚が私に聞いてきた。

「埼玉の深谷です」

「私は行田ですよ」

驚いた様に成塚は言った。それを聞いた会長は命じた。

「出身地が直ぐ近くだな。これからは髙田お前が、成塚さんの担当として、何かが起きたら処理をしてやれ」

「はいっ、了解いたしました」

こうして私は成塚の担当に成った。当時、成塚氏はジャンボ尾崎の後援会長と九重部屋の後援会長を歴任していた。又、ゴルフが好きで週に二回はランドしていた。ジャンボ尾崎は、毎年正月に成ると熱海の本家に来て会長とゴルフをランドして、帰って行くのである。従って、この後の会話はゴルフ談義に花が咲いた。会長が言った。

「成塚、ジャンボは如何して、マスターズや他の試合で外国に行って勝てないのだ」

「色々訳がありまして、ジャンボは外国では、チキンハートの尾崎と呼ばれています。良い奴ですが、ここは弱くては勝負になりません」

と言いながら成塚は自分の心臓の上を叩いた。

「ジャンボの奴、根性がないのか。しようがない野郎だ。今度来たら根性を持てと言ってやる」

ジャンボファンの会長は、ジャンボが外国で勝てないのをテレビで観戦して何時もイライラしていたのである。この食事会が終わり、会長が帰るのを見届けると今度は成塚が二次会に誘った。

「私の彼女が、やっている店が銀座にあるのですが、これから行きましょうか」

会長を見送りほっとしたところであり、皆それぞれ遊び人である。全員が成塚の彼女が経営している銀座の店に行くことに成った。

銀座スズラン通りの地下にその店はあった。余り大きくない店であるがホステスは多くいた。稲川会の当時の秘書は近藤氏を除き全員歌が上手い。ピアノに演奏に合わせてそれぞれ歌を歌いワインを飲み適当な時間に成ったのでお開きにした。私も相当酔っていたので、ホステスに抱えられるようにして、地下の階段を上がった。それぞれの運転手がスズラン通りで車を止めて待って居た。私のプレジデントが来た時にホステスが声を出した。

「プレジじゃないナウイわ」

私は最近発売に成ったばかりのプレジデントを褒められ、いい気分でいた。そしたら、私の後ろの方で別なホステスの声がした。

「熊谷ナンバーって、ださくない」

ワインを飲んで酔っている私は気分を害した。

(何が銀座だ。銀座には二度とこないぞ…)

新橋にある成塚の事務所はレンガ通りにある。何というビルであるかは忘れたが、確か五階のワンフロアを全部借りている大きな事務所である。事務所入口に大きな文字で『尾崎将司東京事務所』という看板と『タートル企画』と社名が書いてある看板が尾崎の看板の下に有った。

成塚は博学で色々な事を教えてくれた。何しろ私が無理と言われた熊谷高校を出ているのである。人脈も多くあり、埼玉信用金庫の理事長の安田氏・財界の次郎丸嘉介氏・東京スポーツ新聞の太刀川恒夫氏の他、企業ではブリジストンや大成建設・清水建設等大手と言われる企業のトップを電話一本で呼び出せる立場にいた。そして自分のサクセスストーリを時々語ってくれた。

「私は熊谷高校から立教大学を出て普通の会社に就職しました。好きな人が出来て結婚もしました。処が、私が被差別部落の出身であることが解かり、女房の実家の両親から離婚を迫まれました。女房も同意をして離婚をしたら今度は、会社の方でも被差別部落民である事を理由に退社を勧告されました。途方に暮れた私は頼る所も無く東京に出てきました。そんな私を拾ってくれたのが上杉佐一郎です。だから上杉佐一郎は現在の私があるのもあの人のお蔭です。上杉佐一郎という人は私の前の九重部屋の後援会長をしていました。そんな時に奥さんを癌で亡くしましたので九重部屋の力士が何人も九州の家に弔問に行きました。その時にどうなったか解りますか」

「解りませんどうなったのでしょうか」

「上杉佐一郎という人は、お金を自分の為に使った事はありません。従って家がボロボロな家でして、大きな体の力士が廊下に上がったら、廊下が抜け落ちてしまったのです」

「なる程、立派な人ですね。部落解放の為に身を殺して活動した人でしょう。我々仁侠を標榜するものも『如何に人の為にやってやれるか』と思っているのですが、上杉先生の話を聞くと正に、その通りの事をやり貫いている人ですね」

 一週間に二度位ずつ、成塚氏の事務所には行くようになった。この様な間柄に成っても若い者が拳銃を成塚の事務所に打ちこまなくてはならない状態になるとはこの時は全く解らなかった。

そして、若い者が先走りして、拳銃を成塚氏の事務所即ち、尾崎将司東京事務所に打ち込み私が懲役十二年の刑を判決される事は神のみぞ知る事であった。目まぐるしく回る社会の渦に巻き込まれながら、モガキつつも己の生き方を変えずに信念を持ち生きてきたと考えながらこの章を綴ってきた。

有為転変はこの世の中を生きて行くためには、大なり少なり誰にでもある。有為転変という荒波に梶をずらさないように執って行くことは、荒波を大きく被るものである。だが、この荒波を被ることにより、人間が洗わて汚れが落ちて行くものであると思っている。この章を綴りながら、私は振幅の大きい人生を送ってきたことが、認識できた。それは決して後悔には繋がらない。一人の人間として、天が生きている間、多くの絵や映画・本を私に見せてくれたのである。

斯様な楽しい人生は余り他人にはない事であると考えている。荒波や振幅が大きい人生は、私をどんどん成長させてくれたのではないか、とすると前章と同じく天に感謝をしなければ成らない。

 

稲川会会長・稲川裕絋親分は秘書や側近の者達にビックな事をプレゼントしてくれた。それは一ヵ月近くも滞在することに成る中南米へのチャーター機による旅であった。昔から可愛い子には、旅をさせろと言う言葉が日本にはある。JAL機でカナダのバンクバー空港に行きホテルに一泊して、翌朝、チャーター機でアメリカ大陸を縦断して、バハマのナッソー空港に降りた。カナダのバンクーバーから、アメリカ大陸を縦断した時は、夜と成り整備されたアメリカの高速道路の街灯が首都ワシントンに向かって、裾野の広いクリスマスツリーの様に集まって見え行けども、行けども続く、高速道路の明かりに眼を奪われてアメリカと言う国の偉大さを自分の眼で確かめる事が出来た。

 

 

成田・バンクーバー・バハマ

熱海本家の相馬班長から連絡を受けて、会長のお供で約一ヵ月中南米に行くと知らされたのは一週間前である。

「バハマ・カンクン・アカプリコに行くから、ゴルフウェアとクラブは当然で現金は最低でも、一千万円は持ってくるようにしてください」

一ヵ月もの間外国に行くのだからお金が必要であるのは解かるが、一千万円を用意するようにと言う言葉が気になり、相馬班長に聞き返した。

「一千万円は何に使うのだ。訳でもあるのかよ」

「それはあなたなら、良く解りますでしょう。バハマはカジノの国ですよ。小さい勝負をして日本のいや稲川の親分衆が笑われては腹が立つでしょう」

「よーく解かった。俺も本場のカジノで勝負がしてみたい。相馬楽しみにしている」

平成六年二月一日、成田空港からJALのジェット機に乗った。会長と私達はカナダのバンクーバーに、八時間半かけて着陸した。バンクーバーのホテルは、確か『シェラトン・バンクーバーウオールセンター』であったと記憶している。ホテルの窓ガラス越しの見えるカナダの雪をかぶった山々のカナディアン・ロッキーやその他の山々は、神が鎮座している様な落ち着いた静けさを醸し出している。神を信じない私を敬虔な気持ちにさせてくれた。然し、夕食に食べたステーキは、乳臭く大きいが、固くて日本人には食べられない代物であった。ホテルのガラス越しに見えるヨットハーバーは、モネや若かりし頃の、ゴッホの絵を見ている様な気持ちを引き起こさせる景色である。気候は、カナダは冬である日本から着てきたスーツで、過ごす事が出来たが、私が表現すれば、バンクーバーの寒さは静かなる寒さと言えるだろう。ホテルに着いてからショッピングにも行った。私はバンクーバーの町は日本人が多くいる事を本で読んだことがあるが、その通りでショッピングには英語を話せなくても日本語で話をする事が出来た。私は、自分が好んで着ているベルサーチの店に行った。黒のパンツとメドーサの顔が大きく絵画かれているブルゾンと白と黒の小さな格子のスーツを一着買った。ショッピングをしている内に、バンクーバーの町の道は、桁外れに広いと思った。ショッピングを済ませホテルに帰るとシャワーを浴びて直ぐに、ベッドに入り、眠ってしまった。翌朝、バンクーバーの特別機専用のイミグレーションがなく歩いてジェット機の所まで行きジェット機の背後から、タラップが降りている。この時の為に、会長が身銭を切って借りた一ヵ月三億円のチャーター機に乗り込んだ。

チャーター機はバーや座席のテーブルが下りてくるように改造されたジェット機で、乗っていて何んとなくセレブに成った気持ちにさせてくれた。私が一眠りしている内に、いつの間にか夜に成っていた。チャーター機から、窓の外を見るとアメリカの高速道路沿いにある街灯が、どこまでも続きワシントンに向かってクリスマスツリーの様に東西南北から集まっていた。

(何て綺麗なんだろう。それにしても、アメリカは大きな国である。バハマに着くのは何時に成るのだろう…)

バハマのナッソー空港に降りた私達は、税関の調べも無くフリーパスでチャーター機に横付けにされたリンカーン・コンチィネンタルのリムジンに乗りホテルに着いた。

『アトランティス・パラダイス・アイランド』ホテルである。ホテルはピンク色をした建物で日本では見たことがない紺碧の青空の中に屹立していた。

ロビーに入ると会長や私達全員が声を上げた。

「おーっ、これはなんだ?」

ホテルに一階フロアは全部がカジノに成っていて、スロットからバカラ・トニーワン・様々なカジノの台やその傍にいるディーラーたちが、私達の到着を待っていたように注視した。異様な雰囲気である。一階フロア右側にある受付フロントを無視して、カジノの中をかき分けるようにして、一番奥のエレベーターに、リンカンコンチィネンタルを運転して飛行場まで迎えに来た黒人のホテルの従業員が二名で案内をするとエレベーターの扉は開いた。四機あるエレベーターに全員が乗ると二十数階で止まり、扉が開いた。私たち秘書は会長の部屋である一番奥にあるロイヤル・スイートに会長の荷物を持って入り又驚いた

(何て広くて豪華なのだろう。インテリヤはロココ調ではないか。ナポレオンもこの様な部屋で過ごしていたのではないか…)

会長は部屋の海に面している窓側から何を見ているのか、遠くをじっと眺めていた。しばらく、無言で海の向こうを眺めていた会長は皆に言った。

「それぞれの部屋に行き、荷物をかたずけて少し休め」

そのひと言で皆は、本家班長相馬から、割り振られた自分の部屋に向っていった。全員が二十数階の同じフロアで、私の部屋はエレベーターに近い場所と成っていた。荷物を整理して、時差で体が少し狂っていると思われるのでベッドに横に成った。

何時間寝たのか何分寝たのか分からないが、ドアをノックする音で眼が覚めた。ドアの所まで行くと相馬がいてこれからの予定を告げてきた。

「後、三十分したら会長さんが、部屋から出てきますから、エレベーターの所で待っていてください。本来ならホテルの外に出て食事をするところですが、明日のゴルフのスタートが五時ですから、今日はこのホテルの中のレストランで食事を致します」

「了解した。処でカジノへ行くことは、会長は許可してくれているのだろう」

「髙田さん。我々は博徒です。英語で言う所のギャンブラーですから、カジノへ行こうが何をしようが、会長さんは何も言わないですよ」

「食事が終わったら少し稼ぎに行こうかな」

「本部長や山崎さん達もバカラで勝負をすると言っています」

「そうですか。それでは私も食事が済んだら、カジノへレッツゴーだ」

エレベーターから皆が下り、直ぐ左手にあるレストランに行くと既に、食事の用意がしてあり、直ぐに食事をする事が出来た。食事はフルーツが新鮮でおいしかったという事だけで印象に残っている物は無かった。

食事が済んで部屋に帰り、暫くするとカジノへ行きたくなってきた。博奕打ちの本能が動き出したのである。三百万円ほどバックに入れてエレベーターを降り、バカラの幾つもあるテーブルの傍に行くと同じ秘書である山崎功氏が、少し禿げ上がった頭に湯気を立てながら、バカラの台に向って何か言っていた。この分では相当獲られているのではないかと思った。廻りには、外国人であると思われる人々が、大きくかけている山崎氏を何者であるのかと言う顔付きで見ていた。私が近寄って行き山崎氏に聞いた。

「山ちゃん。勝負は如何だね?」

「おうっ、高ちゃんか、六百万程、獲れてしまったよ。このディーラーの野郎、手品師みたいな野郎で、プレイヤーに張ればバンカーに出し、バンカーに張ればプレイヤーと言う訳だ。手先や周囲の天井なんかよく見ているのだが、仕事(如何様)をしているとは思えない。これから遣るなら髙ちゃん気を付けろよ」

山崎氏は見切りよく、すっと立ってバカラの台から離れた。私は直ぐにバカラの椅子に座らず立ったまま見ていた。

その内、立て続けにバンカーの方へ目が出てきた。

(おおっ、好いツラ(続けて同じ目が出る事)が出てきた。

ここぞと思った私は、今まで山崎氏が座っていた椅子に腰かけ、百万円をディーラーに渡してチップに変えた。私の博奕に対しての持論は、博奕は全部如何様である。と言う一点に絞ることができる。その如何様を見抜いて稼ぐのが博徒であるという誇りを持っている。然し、マカオでもそうであったが、外国の博奕の如何様の手口は複雑で見抜くことができなかった。何回かツラを張りチップを増やしたが、いつの間にか二五〇万円ほど負けた。

(バンクーバーから、飛んできたその晩である。感も狂っているだろう。この辺りで手止めだ…)

バカラの台から立つとキャッシャーの鉄格子が張ってある隣にあるセフティーボックス室に行った。その前には六十歳は過ぎたと思われる黒人がいて、セフティーボックス室のドアを開けてくれた。セフティーボックスには一千万円の金が入れてある筈である。それを確認して、バックに入れ替えセフティーボックスを出ようとしたら、年老いた黒人が、悲しそうな顔をして私を見た。どうして悲しそうな顔をしたのか分からないが、私はパンツのポケットに入っていた十万円を黒人にやった。遠慮をする仕草をしたが、無理矢理手に掴ませると黒人はカジノの方を向き英語で行った。

My daughter works as a dealer at a table ofthe Tony one : do not go?」(娘は、トニーワンのディーラーとして働いています。 行きません?)

トニーワンのテーブルの行けと言っているのだろうと思って私は全く解らない英語で黒人の年寄に話した。

Your going on a table of the Tony one」(あなたはトニーワンのテーブルに行けというのか)

黒人は大きく頷いたので、私の英語は通じたのであると考えて踵を返して、カジノのトニーワンのテーブルに向かった。トニーワンのテーブルは幾つもあったが、一台だけ愛想は良い黒人の娘がディーラーをしているテーブルがあり、直感的にここではと思った。私がテーブルに向って端の席に着くとディーラーの娘は英語で何かを言った。

Welcome to the Bahamas」(バハマにようこそ)

これ位の英語は解るので慣れない英語で返事を返した。

Yes. Thank you」(はいっ、ありがとう)

娘は微笑んで頷き慣れた手つきでカードを配りはじめた。私は試に二つの張る所に迷っている様な素振りを見せてチップを持って手を右左にゆっくり動かして見せた。勿論、ディーラーの顔を見ながらである。私が左にチップを置こうとした時に、ディーラーは大きい瞳を瞬きアイコンタクトを送ってきた。

(ここは駄目だという事だな…)

尽かさず右に置いたら、唇の両脇を上げて微笑んだ。そうかここだなと思い五十万円分ほどにチップを置くとナチュラルで二十の数字が出た。

(勝ったこの調子で行けば、バカラで負けた二五〇万円は直ぐに取り返す事が出来る。何の気なしに黒人の年寄にやったことが幸いをした様である…)

そのテーブルで私は三百万円ほど勝ちバカラで負けた二五〇万円の他五十万円儲かった事に成った。