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坐禅てなんだろう

私は誰に指導をして貰うことなく坐禅を続けた。それでも何の変化は起こらなかった。然し、看守暴行事件で、刑務所側に逆らい闘争を始めた時に、金沢と言う宮城刑務所でも一番悪いと言われた看守に理由もなく規則違反として、独房に入れられてしまった。そして、その頃は医務課では私の体は『肝硬変末期』と診断を下しておいて投薬もしてくれなかった。昼夜独居は四年以上、東京拘置所で経験しているので、全く苦にならず寧ろ清々した気持ちでいられた。それまでは朝飯を食べると工場に出役しなければ成らないので、忙しく本当に落ち着いて、坐禅をする事が無理であったような気がする。昼夜独居では、二十四時間部屋にいるのだから、自分で決めた時間に何時間でも坐禅をする事が出来た。その頃の坐禅をした時の記録を紹介しよう。

当寺使用していた大学ノートを見ると『坐禅記』とある。

 

平成十七年六月二十八日

夜が明けたばかりの窓に外は霞が立ち玄妙な感じがした。この様に早い朝、座ったのは久しぶりなのでなぜか懐かしい気持ちがした。

 

二十九日

小周天の呼吸法で気息を整えて、三十分位した時に窓外に囀る雀・山雀・鶯・鵯・鴉の声が異常に大きく聞こえてきた。暫く聞いているとそれぞれ、勝手に囀っているようだが、実は自然と言う楽譜を共に奏でているのである。

この様にして百日間坐禅の記録を綴っていったのである。全部紹介をすると切りがないので一部抜粋をして書き綴る事とする。

 

七月三日

吾も人も眼に見えぬ偉大な宇宙の力で生かされ、一生を通じて修行させられている。人生を苦であるとして苦を与え、苦しみの中に喜びがあるという事、喜びの中に苦しみが潜んでいる事、愛の中に憎しみが潜み、憎しみの中に愛がある。坐禅はあの手この手で教えてくれる。

 

七月四日

生きるという事は苦であると佛教では説いている。鉄格子の部屋に入れられて規則で縛られ食事は最低、作業は厳しい。これ苦でなくてなんであろう。佛教では人が必ず受ける苦しみとして、四苦八苦を上げ、その苦しみから救われる方法を解いているが、生きて行く上での苦しみに、どっぷり漬かっている私としては、苦しみから救われる方法は、日々の生活で小さな事でも喜びを感じ小さな事でも、他人に喜びを感じさせることであると思う。何気ない人の善意は、我が喜びと成り、何気なく人に善意を施した時は、人の喜びと成り、我が心も豊かになる。一日に九つ苦しみがあっても、一つの喜びがあれば、その日は幸福であったと思えば善いだろう。

 

七月五日

私は宇宙にいて私の中にも宇宙がある。宇宙は私であり、私は宇宙である。突然キジバトが、ククココロー、ククココローと啼いた。郭公と同様、私に何か教えてくれているのだろうと思った途端、キジバトの啼き声は喰喰心・空空心・苦苦心と聞こえてきた。喰喰心とは分別に心を食われず自分の持って生まれてきた純粋な、拘りのない心を大切にしなさいという事であり、空空心とは難しい事は考えずに、心と頭を空にしなさいと思えた。苦苦心は苦しみの全てが心の置き所次第で喜びに変わる事であると思えた。

 

七月六日

老いるという事を考えていた。生老病死の四苦は連鎖していて万人に平等に与えられている。然るにこの苦しみから逃れるのには如何したら良いかなどと考えていたら、窓の直ぐ傍で鴉が「喝―」と一声啼いたので我に返った。

 

七月七日

両親によりこの世に生を受け、天若しくは、御仏に魂を吹き込まれ任侠という修羅道に生かされ、この世の地獄とも言われる監獄に座っている。これは全て生まれて来る時に、天若しくは、御仏により決められていた既成事実を踏襲しているのではないだろうか、私の人生をこの様に決めてくれた天若しくは、御仏の心は何処にあるのだろうか。

 

七月九日

何が起ころうと何をされようが 泰然自若としている事が、禅を遣っている者の真骨頂であり、これを指して不動心と言うのではないだろうか。朝露の流れ込む独房で坐禅をしている眼の前を羽音を立てて瞬時、キジバトが飛んで行く、広い宇宙から思えば、人の生涯と言うものは、窓の外を瞬時、飛んで行くキジバトの様ではないか。その短い人生を煩悩に捉われて生きて行くことは愚かであるとしか考えられない。

 

 

七月十日

眼の前の草は、風に靡いて揺れている。檜の樹は動かず枝は揺れている。風が止めば両方とも静止して、今まで風が吹いていなかったように、取り澄ましている。坐禅をしている者は、檜の様に何事が起きても一時的に心が揺れてもその事に何時までも拘泥しないで、風が去った後の檜や雑草の様に、元の姿に立ち返らなければ成らない。でないと何のために坐禅をしているのかが分からなくなる。

 

七月十二日

雨音ばかり聞こえていた。雨は大地に恵みを与え、大地の汚れを洗い川に流れる。奢れる者には洪水と成り鉄鎚を下し、正しき者には力を与える。海に流れ込んで洋々として、その広さ深さから人に心の在り方を教えてくれる。陽の光により熱されて蒸発して雲と成る。雲と成りやがて、雨と変じ元の姿に立ち返る。輪廻している訳である。然し、我々が六道に生死を繰り返しているのとは違い、人に語りかけ人を善導している様は、天若しくは、佛の様である。

 

七月十四日

人は死んで又、六道のどこかに生まれて来ると言う。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上である。刑務所は社会の常識が全く通用しない所である。規則・規律に縛られ、それを行使する看守は将に、地獄の悪鬼・羅刹の他ならない。即ち刑務所はこの世の地獄である。食事は決められた時間に、決められた量しか食べられない。しかも不味い。常に不満を言っている収容者は、餓鬼である。男ばかりの生活であるから、購入する本は若い女性の裸の写真集で、それを眺めてあらぬ妄想を抱く挙句は、自分で和ぐさめる畜生道である。刑務所の中に入れられる者は法を破るくらいだから、自分勝手である。自分の思う儘にならぬと人を恨んだり、憎んだり、疑って見たりする。これは修羅道である。人は刹那・刹那六道を彷徨っている。六道を彷徨わない心を持つことも坐禅をする意義があるのではないか。

 

十月五日

今朝は暗い内から起きて坐った。一時間以上坐っただろうか。結跏趺坐した足は坐所に根が生えた感じで不動であり、上半身は空気が通り抜けるような透明感が有った。百日禅を坐って、私自身何を掴んだか。答えは何も掴まず何も変わらない。唯、確かであるのは『自分は自分でしかない』という事である。何処にあっても自分の主体性を失わずにいられると言うか『随所に主と作れば立つ処皆真なり』に近いものであるの違いがない。腹式呼吸をつづけたので体調は良くなった。又、煩悩多き身である故、坐って雑念が湧いて来てばかりいたが、今は全部排泄されて脳内はいたってシンプルになったような気がする。

 

私の坐禅修行の一部分を紹介したが、警備副隊長による収容者暴行事件との闘争を止める事はなかった。だが、天は私をもっと修行をさせようと待ち構えていたのである。平成一七年十二月二十八日仙台地方検察庁から、私が告発した警備副隊長の暴行事件は不起訴と言う通知が届いた。日付けを見ると前日の午前中に届いていたのが解った。その事が何を意味するかを、舟木先生に年が明けて面会をして、直ぐに解かり、私は刑務所に対して義憤を感じずにはいられなかった。

(公務員は保身が第一と言うが、これ程まで汚い野郎ばかりか…