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小菅から宮城刑務所へ

平成十四年八月二十一日、払暁、私と現在『財団法人日本易学推進機構』の代表である岸本龍雄氏とたった二人で、法務省の大型バスに乗せられて東京拘置所の前を流れる綾瀬川の水面に薄靄がかかる中、仙台にある宮城刑務所に押送された。

護送する東京拘置所の看守は酷い奴で、官から支給される押送される懲役の弁当代まで掠める牢番と言う言葉が、ぴったりの意地の悪い者達であった。だから仙台に着くまで小便をする事はおろか、ジュース一本飲ませて貰えなかった。馬鹿馬鹿しいので、岸本氏と二人で髙村光太郎の『智恵子抄』の中の詩を話題にして、看守達を自分達の視界に入れないようにして、仙台市若林区古城にある宮城刑務所に着いた。宮城刑務所は歴史があり、明治時代・西郷隆盛の西南の役の際の捕虜を収容したのが最初である。正門を入ると詩人土井晩翠が、名づけた『幡龍の松』が両手を広げ待って居ましたという様に枝を伸ばしていた。

(後、八年か…何としても生きて出なければ成らない)

岸本氏は幡龍の松を見て何を感じたのか解からないが、込みあげて来るものが有った様である。一ヵ月の新入訓練を済ませて、私がこれから作業をする工場が決まった。靴を製造する工場で第六工場と呼ばれる柄の悪い者が多い工場である。岸本氏は女性のブラジャーを縫製している第四工場であった。私は岸本氏と約一ヵ月共に生活をして、この男は博学で理性もあり思想もしっかりしている人物であると気づいた。だから、岸本氏とこれから工場が別々になるのが解っていたから、自作の短歌を岸本氏に贈った。

 

霧深き五十路の獄の分されに君思う身を君に思われ

 

こうして正式には、岸本氏と十年間会う事が出来なかったが、今は知己と成り毎日電話で話をする間柄に成った。

扨て、私が配役(作業をする為に行く工場)に成った六工場には、自分で言うほどの大物は居なく、ただ一人禅僧の様に、解脱をした人間が持つ、アルカミックな微笑を常に湛えている左翼の鎌田俊彦氏がいた。鎌田氏は学生運動が盛んであった頃、新宿の追分交番に、クリスマスツリーに擬した爆弾を配下の者に仕掛けさせて、無期刑を受けている黒ヘル軍団のリーダーでもあった。この鎌田氏と私が友人に成るのに時間はいらなかった。左翼である鎌田氏と話す事は、正反対な事ばかりであったが、私は鎌田氏に新鮮さを感じ鎌田氏の言葉を漏らさず聞くようにした。唯一つ共通項があるとすれば、読書好きである事だけである。然し、鎌田氏と私の読書の志向は全く違っていた。だが電流のプラスとマイナスが引き合う様に、お互いに興味を持ちその為には、お互いを晒して話をした。私は短歌を詠むが鎌田氏は、俳句しかやらないという。全ての点で違っていた。だから、鎌田氏は私に西洋の本を随分紹介をしてくれ、私はそれまでは日本文学と歴史文学・それに禅系統の本と儒教の本だけを読んでいたが、塩野七生先生の『ローマ人の物語』全十五巻を紹介されて読んだ時は、自分の視野が広くなったような気がした。挙句は『カールマルクスの生涯』を薦められたが、私は敬遠していた。然し余りにも進めるので読んでみようという気になって『カールマルクスの生涯』を読んでみたら、難しい事は書いて無く、子沢山で貧乏・女房に弱い男でエンゲルスの支援が無かったらとても『資本論』と言う難解な共産主義者のバイブルと言える本はできなかったことが解かった。第六工場にはヤクザが多くいたが、私が他組織の葬儀や食事会であった顔は居なくて話が通じる者が居ないので、私は話をする事がなかった。それに、第六工場にいたヤクザは、群れを成す私が一番嫌いな刑務所に於いての輩である。群れをなし、ヤクザ週刊誌でヤクザの動静を知り、それを恰も自分に関係がある様に語り、他の者を圧する者が多く私は馬鹿馬鹿しくて、見ている事ができなかった。余りにも工場内を、俄かヤクザと言うか、私達は週刊誌ヤクザと呼んでいる者が、胸を張り歩いているので、私が戯れ歌を一首読んでみた。

 

工場を我がもの顔で闊歩する俄かヤクザの安蒲鉾よ

 

安い蒲鉾には板がついていない事を揶揄した歌であるが、鎌田氏は腹を抱えて大笑いをした。

「髙田さんあなたは歌が上手い!」

「ここの刑務所はLBの凶悪犯が多くいると聞いてきたが。ヤクザ者は皆、子供の様でチンピラばかりだ。眺めていてやっている事を見ると面白くてしょうがない」

どうしようもないと言えば堅気の者の中にも多くいて、笑いのネタには尽きない出来事が沢山あった。凶悪犯と言われた者達はまるで、吉本興業の芸人顔負けの者が多くいて、笑いには事欠かなかった。次にその吉本の芸人も顔負けの芸達者の者達を何人か紹介しよう。

 

 

 

バイアグラ&豚ウィルス

私達の工場に、茨城県生まれの猪狩と言う五十年配の強盗犯が、隣の五工場から、解体する携帯電話に電池が残っていたのを見つけ、自分のポケットに入れて毎日『写メ』と呼ばれているいかがわしい画面を見ては、便所に行き自分を慰めていた。それを看守に見つかり、処遇部門に連行されて取り調べを受けて『陰部摩擦罪』と『不正物品不正所持』の二件の規則違反で懲罰三十日を受けて元の工場である五工場に戻れず六工場に来たのである。猪狩が六工場に来た日の昼休み私と鎌田氏が、食卓を挟んで出版された本の寸評をしていると猪狩が傍に来た。

「今度、この工場で働きます猪狩と申します。宜しくお願い致します」

「解ったよ。処で猪狩さん。あんたは茨城生まれかな?」

「はいっ、自分は茨城生まれで、十人で強盗団を組み全国を回っていましたが、到頭パクられてしまい、ここの刑務所に入った訳です」

「全国を回っていたというが、埼玉県は回ったのかな?」

「埼玉県では江南町と言う所で、やばい目に遭いそうになりました」

江南町は私の家がある場所なので興味が湧いてきた。

「江南町で何かあったのか」

「怖い目に遭いました。江南町に大沼とか言う公園があり、その畔に和風の大きな家がありましたので、仲間と下調べに行き今夜はあの家を狙おうと決めました。一応と思って町に人にどんな人が住んでいるか聞き込みをしましたら、あの家はヤクザの親分の家で、若衆も荒っぽいから、近寄らない方が好いですよと聞き、その和風の家へ強盗に入るのを止めました」

「おいッ、その家は俺の家だ。お前殺されずに済んでよかったな」

「???…有難うございました。親分の家とは知らず失礼をいたしました。お陰様でこの通り生きている事が出来ています。親分は命の恩人です。有難うございました」

猪狩は深々と頭を下げた。既に、鎌田氏は大笑いをしている。私も腹を抱えて笑いたいのを我慢して微笑むほどにして猪狩に言った。

「今度出たら、家だけじゃなくて、その家に誰が住んでいるか良く調べてから強盗に入れよ」

「はい。そうします」

猪狩が起した爆笑問題は多くある。後、一つだけ紹介をしよう。服役者は入所する時に、自分のもっている私物の荷物・指輪・時計・その他、諸々の品物を領置される。

そして囚人服に着かえさせられて、毎日の生活で使用する物は、毎月一回の購入日がきまっていて、石鹸・歯ブラシ・歯磨き・チリ紙・ノートなどを買って生活をする訳であるが、出所三ヵ月前に成ると『私物調べ』をする事が出来る。それは、社会に出て行くのに、自分の着て出るものを確認する訳であり、又、領置してある物が何であるか調べ足りない物は、社会から送ってもらうのである。

詐欺で十年の刑期を務め終ろうとしていた佐藤と言う、小でっぷりしたメガネをかけた者が、出所三ヵ月前に成ったので、領置調べに行った。領置調べに付く看守は、領置専門にやっているから、普段反則を見つけ様として、鵜目鷹の眼になっている工場看守とは違いズバリ言えば鈍間である。佐藤は鈍間看守の目を盗み、領置してあるバイアグラを一錠ズボンとパンツに間に入れ隠し持って工場に還ってきた。幸いか幸いでないか、私には解らないが、佐藤と猪狩は同室者である。舎房に隠し持って入り、九時の消灯前に成ったので佐藤は言った。

「バイアグラを領置調べのときに持ってきたが、誰か飲みませんか?」

刑期が長く本で読んだ事しかないバイアグラに、興味を持っていた猪狩は、直ぐに佐藤に返事をした。

「俺は、未だ、バイアグラと言うものを見たこともないし、飲んだ事もない。是非・俺にバイアグラを飲ませてくれよ。佐藤さん」

「好いですよ。でもバイアグラは効きますよ」

五十歳を過ぎて、六十歳が目の前に来ている猪狩は、思ったのに違いがない。

(今夜はバイアグラを飲んで優子リンの写真でも見て、目いっぱいやってやろう…)

佐藤からバイアグラを受け取ると水も飲まずに、バイアグラの青い錠剤を口に中に猪狩は放り込んだ。

一時間もしない内に、猪狩が本棚から、エロ本を三冊ばかり取るために立ち上がった。部屋の者は猪狩が、バイアグラを飲んだ時から、寝ている振りをしていたが全員が猪狩の動向を観察していたのである。猪狩はエロ本を取るために、蒲団から立ちあがった時は、猪狩のジュニア―も既に立ち上がっていたのである。部屋の全員が盗み見をしているとも知らず、猪狩は日頃の疲れを癒すように、朝まで起きていて到頭、五回もジュニア―に安らぎを与えてしまった。ニュースが少ない刑務所の中において、この出来度とはビックニュースとして流れ、翌朝の工場内は、あっちでクスクスこっちでクスクス笑う声が聞こえたので、私と鎌田氏は何事が起きたのであろうかと、同じ班の藤原君に聞いた。

「皆、クスクス笑っているけど何かあったのか」

「親分、猪狩の馬鹿が、バイアグラを飲んだらしいです」

私もバイアグラと言うものを知らないので、藤原君に猪狩を呼んで来るように頼んだ。

「適当な用事があると看守に言って、猪狩を連れて来てくれ」

「解りました」

と言うと藤原君は、直ぐに手を上げて自席から移動することを看守に告げ猪狩の所に行き、猪狩を私と鎌田氏が並んで作業をしている横に連れてきた。

「猪狩、お前は何をしたのだ」

と私が問いかけた。

猪狩はバイアグラの効果を、他人に話したくてどうしょうもない様な顔をしながら応えた。

「親分。バイアグラはスゲーですよ。最高です」

笑いを堪えるのが、きつくてこの儘、ここへ猪狩を置いておくと腹がねじれる位に笑ってしまうと思えたので、笑いを我慢して猪狩に自席に帰るように言った。

「好かったな猪狩、これでシャバに行っても女性に対して、恥を欠かなくて済むな」

「頑張ります」

何を頑張るのか分からないが、猪狩はそう言って私達の席から自分の席に戻った。又、茨城県の者で申し訳ないが、放火で十年の刑期を持ってきた当時、七十歳のでっぷりした爺様がいた。芝の内一家の中島氏が、私に馬橋の爺様は同県人で年を取っているので、運動仲間にしてやってくださいと申しこんで来たので、運動仲間に入れてやった。然し、休憩時間と昼休みに遣る私たちの運動は、並みの人間ならすぐに泣きを入れてしまう位キツイものである。

スクワット百回・腕立て伏せ百回・腹筋百回と言うものである。中島氏の推薦なので運動仲間に入れてやったのは好いが、途中で鳥が絞殺されるような声を上げ泣きを入れるので、真剣に運動をしている者の邪魔に成ってしまう。仕方ないので私が馬橋の爺さんに言ってやった。

「さま爺、自分で出来る運動を遣っていいよ。それから鳥が絞殺されるような声はだすなよ」

その日から馬橋の爺様は、私達が運動をしている間中、腰をくねくねさせる卑猥な運動を始めた。堪らなくなり、後藤君が馬橋の爺様に言った。

「可笑しな運動をしているが、それはなんだのだ」

「儂の女房は、三十六歳だから出てから、女房に出来ないと困るから腰だけは鍛えておくのさ」

何をいわんやである。この様な人物は多く宮城刑務所にいた。冬が来て豚ウィルスが、流行っている頃、私が馬橋の爺様の席の処を通りながら話しかけた。

「さま爺、豚ウィルスが流行っているから、気を付けなさいよ」

一瞬、何を私が言っているのかと疑ったような顔をして、馬橋の爺様は言った。

「俺は豚と遣った事がねーよ」

おもしろい事をいうなと思い、更に私が浴びせかけた。

「豚と遣ってねーと言うのは何の事だよ」

尽かさず馬橋爺様は、右手の親指を人差し指と中指の間から出して、そのナックルを私の眼に前に突き出した。

 

 

反権力闘争の狼煙をあげる

 稲川会八王子一家の若い者で塚原と言う者が工場では、反則喧嘩と言った事を起して、何度も懲罰を受けながら、反省をしないとして昼夜独居者として生活をしていた。そこへ勤務変えに成り、相原と言う独居担当の看守部長が来た。この看守は塚原が八王子の高校へ通っていた時の後輩である。通常、服役者と看守は、作業や願い事の時以外は、口を聞いてはならないという内規がある。然し、遠く仙台まで来てお互いに、自分の生れ育ったところの話ができる相手はいない。自然この二人は親しく話をする仲に成ってしまった。クリスマスの時である。塚原が相原につくづくと呟いた。

「相原よー、ワインでも飲みてーぜ。娑婆では新宿辺りで、皆でワインを飲んで騒いでいるだろう」

相原は東京で生まれ東京で育った。だから仙台が北の都と言っても東京から比較してしまうと雲泥の差があることが解かり、自分では田舎に送られたと思っている。勤務も二日置きに夜勤がある。その内、良い勤務先があれば辞めたいと考えていた。

「先輩。ワインを持ってきましょうか」

塚原は瓢箪から駒が出たような気持ちに成り、相原に聞いた。

「大丈夫なのか相原」

「如何ってことはないですよ」

「それじゃー、煙草なんかも大丈夫か」

「まあっ、見ていてください。先輩の気に入るように遣りますから」

「相原、俺にワインや煙草を持って来てくれれば、それなりの金は事務所に連絡してお前の所に送って遣るから、そうだ携帯も何とかなるか」

「携帯でも何でも、自分がやれば何て言う事はないですよ」

刑務所側の発表では、金銭のやり取りはなかったとしたが、社会に出て塚原に私が直に聞いたら、金銭の授受は当然あったという。ワイン・酒・煙草・携帯の看守による収容者に対する供与事件は、こうして約二年近く続いた。然し、悪い事も良い事も、長く続かないのが刑務所である。二年に一度づつある勤務替えで、警備副隊長が変わり、小野進と言うサディストになった時にうすうす、この件を知っていた小野が、警備隊を連れてきて、塚原の部屋を徹底的に捜検(家宅捜査の様な事)をして、蒲団の中に隠してあった携帯や煙草を見つけたのである。

刑務所の事件としては、前代未聞であるこの事件を、如何に社会に発表するかで新しく赴任した全国に、その悪名を知られた平川忠輝所長は飽くまでも刑務所は悪くないようにしないと自分の首が危ないと考え懲役悪人説・刑務所善人説を作りだして、仮釈放に成る者に、直ぐに仮釈放を遣るという約束をして『アサヒ芸能社』に刑務所側で作成したシナリオ通りリークさせたのである。その上で、仙台地検に行き、支部長検事にこういったと後から、弁護士に聞いた。

「新聞等で御存じであると御承知でしょうが、今、宮城刑務所の収容者は良くありません。少しばかり締めたいと考えているのですが、如何なものでしょう」

「然るべく」

こうして宮城刑務所の警備隊による収容者無差別暴行が始まったのである。取締り側の副警備隊長がサディストであるのが、収容者にとり最悪の事態に成った。自分達の工場では、まだ警備隊が来て殴るけるの暴行を加えた事実はなかったが、毎日何処の工場で誰が暴行を加えられたという情報が入った。

「鎌田さん。今度来た副警備隊長は異常ですね」

「このような所へ勤務している者は、劣等感の塊の様な者ばかりです。その劣等感のはけ口を何も出来ない懲役に、向けているのです。人間としては逆らう事が出来ない者を虐めるという事は最低な事です」

「逆らう事が出来ない者を虐める野郎は、俺は大嫌いだ」

だが、この警部副隊長の小野進と私で衝突する事に成ってしまった。平成一七年七月七日、この日私の愛する唯一の娘である麗子の十七歳の誕生日である。私は夜間独居で部屋に帰り、一人静かに坐禅をして、我が子の誕生を祝いたいと考えていた。坐禅を遣る事により遣りながら、自分で思っている事を一心不乱に念ずればその思いは相手に届くのである。麗子に元気に育ってくれて有難うと、念を送りたかった。作業が終わり部屋に帰った時、隣りに入っている取り調べ中の京都の極道が、作業の材料を何時の様に、部屋の外に出そうとして、材料を持って部屋の外に出た。それを見咎めた警備副隊長の小野進が、安全靴の音をドタバタと立て駆けつけていきなり、右足を上げると京都の極道の胸を蹴り上げた。

(何て酷い事をするのだろう…)

噂では小野進の異常な暴力は聞いていたが、間の辺りにしたのは初めてである。

「なにをするんやー」

と言いながら倒れた極道を今度は、引き立たせて柔道の払い腰で投げ飛ばした。

「ドッスーン!…」

と音を立て音は私の部屋にも響いてきた。更に倒れた極道の首をやはり同じく柔道の締めにかかった。

思わず私は声を出してしまった。

「止めろ!」

小野進は極道の首を絞めながら、私の方を見て如何にも憎らしいという様な顔をして反則違反を告げた。

「無断交談だ。連行する!」

その内、看守が二人ばかり飛んできて、極道は羽交い絞めにされ手錠をされ連行されてしまった。その後、配食をしている鎌田氏が、お茶を配りながら、私の部屋の前に来て聞いた。

「大きな音がしたけれど、何かあったの?」

「酷いものですよ」

警部副隊長の小野進が、傍にいるとは二人共解からなかった。

「髙田・鎌田・無断交談だ。処遇に連行をする!」

勝ち誇ったように小野進は、サディスチックな笑いを浮かべた。

(この野郎だけは勘弁できない…)

小野進が押した非常ベルを聞きつけた看守が、二十五人ばかり来たので鎌田氏が驚いた顔をした。

「無断交談位で、こんなにも看守が来るとは、一体どうした事なのだ」

すると小野進が、鎌田氏の腕をねじ上げた。

「何をするのだ。痛いじゃないか」

小野進はしてやったと言うサディスチック顔をして、鎌田氏に更に、規則違反を告げた。

「不穏な言動だ!」

こうして鎌田氏と私は処遇部門に連行されてしまった。