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日本興業銀行の闇

私は、極東会を創った関口愛治の倅で関口愛光という人物が、アメリカで市民権を受けてゴルフ場やハワイにホテルを経営していて、自家用ジェットに乗りアメリカ・ハワイ・日本を行ったり来たりしていて日本興業銀行から、三五〇億円の融資を受け返済不能となった事の情報を耳にした右翼や暴力団が、日本興業銀行を攻め脅している事を知ったのは、埼玉県行田市にある関東では解体業者としてトップクラスの『関東建設工業』の社長須永洸から聞いたからであった。須永は部落解放同盟の事業資金と特例措置を最大限に利用して、横浜博覧会の終わった後の解体工事を一手に引き受けて、自分の会社を大躍進させたやり手の社長でもある。ある日、私の自宅である江南町の大沼の畔に来て日本興行銀行が困っていると言ってきた。

「実は、御存じのことだと思いますが、あの極東会の創立者である関口愛治の倅が日本興業銀行に三五〇憶も借金をしていて、現在返済不能の状態に成りました」

「関口愛治と言えば私達の世界では的屋で渡世人と違うが、人物的に大きい人であったと聞いている。その関口愛治の倅がそんなことをしているのですか」

「そうです。ハワイにホテルを建設予定でしたが、失敗をしたのです」

「然し、銀行に金を借り返済不能となっている会社はごまんとある。それ以上の訳でもあるのかな」

「その通りです。この事の情報が洩れて、東京にいヤクザや右翼が、日本興業銀行に脅しにかけて、頭取である西村正雄氏も弱っているのです。中にはヤクザの倅に金を貸すなら、俺の子供にも金を貸せと脅してくる者もいて、西村氏はこの問題が公には出来ないし、暴力団や右翼に言いなりにも出来ないと言って頭を抱えているのが現状です。この件が何とかなれば金にはなりますので、組長の所に、この情報を伝えに来た訳です」

面白い話であるが、厄介な問題であると思った。然し、私も若い者ばかりに、渡世の義理の苦労をさせてばかりいられないと思っていたので、須永社長に言った。

「如何するか考えておきましょう。一両日中に返事は致します」

「この話が解決できれば、西村頭取も恩に着る事に成りますから、是非私としても組長に解決をして貰いたいと考えているのです」

世間話を一時間ほどして須永の社長は帰って行った。

この『関東建設』の社長は現在東京オリンピックの開催の為に国立競技場を不正な手段により談合した疑いがもたれ週刊誌などで記事にされているが、須永社長を知る私には最もな話であると思える。如何にしても『関東建設』の須永会長は解体の仕事を取るためにはヤクザから始まり大手ゼネコン国会議員・県議・各市町村首長の所に『毒饅頭』(袖の下)を惜しみなくばらまく人物である。

話しを元に戻そう。

(この話は良い話であるが、今まで日本興業銀行を攻めていた者達は手ぶらでは引き下がらない。俺一人で解決をするか又は会長に相談をして、攻めている者達を引き下がらせれば問題はない。如何したら良いのだろう…)

翌日から岡山の串田組の叔父御の所へ一週間ばかり、招待を会長が受けているので私はその日の内に、東京に行き赤坂プリンスに泊まる予定でいた。

午後になり急いで赤坂プリンスに行きチェックインし運転手と共に、奥のエレベーターの近くに行くと稲川会々長の事業を一手に引き受け任されている桑原太郎が前から歩いて来た。

(おっ、丁度良い彼なら事情通だから、東京の興銀の騒ぎは知っているだろう…)

桑原は向こうから声を掛けてきた。普段、ゴルフの賭けを私たち三人と遣り良く負けてくれる。だからゴルフでは、何時もぼやいているのである。

「なんだよ、太郎ちゃんこんな所で女性と待ち合わせじゃないのだろう」

「又そんな冗談を言って、こっちは忙しくてどうしょうもない位で女どころではないよ」

この時、桑原太郎は六〇歳少し過ぎたくらいで、頭髪は純白であり、落ち着いた品のある顔をしていたので確かに女性には持てた。

「処で、太郎ちゃん日本興業銀行の件は知っているだろう」

桑原は驚いた顔をした。

「如何して髙ちゃんが、それを知っているの」

「俺は地獄耳だよ。太郎ちゃん」

「どうしょうもないなー、この件は私がやっていて、今日も頭取と会って来たのさ」

地下のティールームに私を連れて行き、ブランド品のバックから一纏めの書類の束をだして話してくれた。

「ほらこの通り西村頭取から、この話を全面的に任せるという念書もある」

私は、手に取って念書を読まず頷いた。

「このほか、色々な書類があるが見るかい」

「好いよ。でもこの件は我々業界の者や右翼が絡んでいる。太郎ちゃん一人で大丈夫かな」

「高ちゃん。心配いらないよ。もう会長さんに話しをしてあるから」

「そうかい。分かったよ。会長に話しを通しておけば怖いものなしだね。太郎ちゃん」

「でも、この話は他の誰にも言っては駄目ですよ。変に動かれては話がまとまらなくなる。高ちゃんもこの話で動かないようにしてください」

桑原太郎もこの話には、気を入れているのがよくわかった。然し、私に介入することを拒むところに何かあるのではと思った。

(いずれ。この話は業界の者を阻止するのには、稲川会から誰か出て行くことに成るだろう…)

「何かあった時は遠慮なく私に話してくださいよ。それと、この話は私が知っているという事を忘れないでください」

桑原太郎とはこの様な遣り取りがあり、私が串田の叔父御の一週間の招待から帰ってきた時、頃合いを見計らっていたのか桑原太郎から、自宅に電話があった。

「どうかしましたか」

「いや、そうではありません。本日、只今例の件について、全部話し合いが付きました。西村頭取、部落解放同盟の上杉佐一郎先生・その秘書である成塚靖雄氏と私が同席をして、相手方の代表に日本興業銀行をこれ以上攻めないという誓約をさせました。西村頭取も上杉先生も成塚氏も高田さんには、大変お世話に成りましたと申しております。ここに、御三方がおりますから取り敢えず成塚氏がご挨拶を致したいというので電話で失礼ですが、今変わります故、御挨拶を聞いてやってください」

この件については、私は何もしていない。それなのに挨拶とはどうゆう事だろうと思いながら成塚氏の言うことを聞いた。

「お陰様で無事この件は話がつきました。これも高田さんの御尽力の賜と心から御礼もうしあげます。後ほどまたお会いして、ご挨拶を致したいと思いますので本日はこれで失礼をいたします」

私は日本興業銀行の件で少しも動いていない何故。私にお世話に成りましたと言うのだろうかと疑問を持った。

「太郎ちゃん。会長にきちんと報告をした方が好いよ」

「解かっております。これは会長に命じられてやったことですから」

事業経営を上手くやる者は、詐欺もやる詐欺師はヤクザ怖がらない太郎は典型的な詐欺師であった。

この件で日本興業銀行から十億円の謝礼を貰いその上に、会長が事業で預けてある資金まで懐にして姿を晦ませた。

桑原太郎と親しくしていた者には、本家の班長である相馬から電話があった。

「今後桑原太郎とは、会っても話をしてはならない」と…

その時点で桑原太郎が、会長の許しも無く日本興業銀行のスキャンダルを会長の名を使い納めて、自分で謝礼金十億を懐にして消えたことが私には解った。

(酷い野郎だ。太郎の奴は…)

私は、会長を騙したという事に納得が行かず成塚の会社がある新橋に行き成塚に会った。

「例の件、日本興業銀行を攻めていたヤクザ者を黙らせたのは、会長である。会長はきっと引き下がったヤクザには、小使いはやっただろう。そうして話が付いたものの、その謝礼を猫糞してしまう事は、良い事か悪い事か、成塚さん考えてみた方が好いと思うけど如何なの」

「まさか、桑原さんが、自分一人で踊っているとは思いませんでした。この件については上杉佐一郎とよく相談をして対処いたします」

こうして部落解放同盟の理事長の上杉佐一郎と会う事に成った。

 

 

部落解放同盟上杉佐一郎理事長

徳川家康が関ヶ原の戦いで天下を掌握して、二度と戦国の時代が訪れない様に林羅山に命じて儒教を取り入れた教育を武士に行った。更に、四民制度を導入して士・農・工・商と人々に階級を付けた。そして、その下に非人・穢多を置き四民の優越感を満足させた。儒教では博愛を謳っているが、儒教学者である林羅山はそれを無視してこの様な同じ人間に階級を付けたのだから、似非儒教学者と言わなければ成らない。人間は何がありても、犯す事が出来ない尊厳を持っている。その尊厳を犯す事は、例え天皇陛下であっても出来ない。この歴史的差別と戦ってきたのが、部落解放同盟を創設した松本治一郎であり、その片腕と成り。部落解放運動に身をささげてきたのが上杉佐一郎である。まさかこの様な立派な人と会う羽目に成るとは、私は思っても見なかった。それは、日本興業銀行の件で桑原太郎が犯した信義にも悖る行為に対して、上杉佐一郎が稲川会三代目会長に詫びをする為でもあった。誠に美味しいステーキを食べさせ又美味しいワインを飲ませる新橋の地下にある店であった。出席したのは三代目会長を始め会長秘書の、近藤・中谷・私と大山健太郎会長室々長の稲川会側五名で、先方は上杉佐一郎。成塚靖雄・須永洸の三名である。上杉佐一郎は顔の半分を白い髭に包まれて、パイプを咥えて、にこにこしていた。成塚は上杉佐一郎の側近である事が直ぐに解るように、気を使いながら店にあれこれ指図をしたり、上杉佐一郎に耳打ちをしたりしていた。先ずは成塚が口を切った。

「本日はお忙しい中、稲川会々長に置かれましては、態々斯様な所までおいでいただき誠にありがとうございました。又先般、日本興業銀行の件については大変ご心配及び、ご迷惑をおかけいたし、誠に申し訳ございませんでした。衷心よりお詫び申し上げます。本日これを機会に会長には、ご厚情を持っていただきたく存じます故。今後とも宜しくお願い致します」

会長は大きく頷いた。そして愛嬌のある微笑をした。会長が微笑むと上杉佐一郎も微笑んだ。私はそれを見て事を為した者は誰でも微笑が良いと思い。この微笑の中には一点の稚気があるからだと思った。

どんなに偉く成ろうとお金を持とうが、人間は年をとっても一点の稚気が欲しいものである。ヤクザ社会の頂点にある会長と部落解放同名の頂点にいて、カリスマ的存在の二人を見て私は一点の稚気の大切さを知った。頬が落ちる位、美味しい肉とロマネコンテであろうか、ブルゴニューのこれ又、美味しいワインを飲みながら雑談が続いた。

「髙田さん。ご出身は何処ですか?」

成塚が私に聞いてきた。

「埼玉の深谷です」

「私は行田ですよ」

驚いた様に成塚は言った。それを聞いた会長は命じた。

「出身地が直ぐ近くだな。これからは髙田お前が、成塚さんの担当として、何かが起きたら処理をしてやれ」

「はいっ、了解いたしました」

こうして私は成塚の担当に成った。当時、成塚氏はジャンボ尾崎の後援会長と九重部屋の後援会長を歴任していた。又、ゴルフが好きで週に二回はランドしていた。ジャンボ尾崎は、毎年正月に成ると熱海の本家に来て会長とゴルフをランドして、帰って行くのである。従って、この後の会話はゴルフ談義に花が咲いた。会長が言った。

「成塚、ジャンボは如何して、マスターズや他の試合で外国に行って勝てないのだ」

「色々訳がありまして、ジャンボは外国では、チキンハートの尾崎と呼ばれています。良い奴ですが、ここは弱くては勝負になりません」

と言いながら成塚は自分の心臓の上を叩いた。

「ジャンボの奴、根性がないのか。しようがない野郎だ。今度来たら根性を持てと言ってやる」

ジャンボファンの会長は、ジャンボが外国で勝てないのをテレビで観戦して何時もイライラしていたのである。この食事会が終わり、会長が帰るのを見届けると今度は成塚が二次会に誘った。

「私の彼女が、やっている店が銀座にあるのですが、これから行きましょうか」

会長を見送りほっとしたところであり、皆それぞれ遊び人である。全員が成塚の彼女が経営している銀座の店に行くことに成った。

銀座スズラン通りの地下にその店はあった。余り大きくない店であるがホステスは多くいた。稲川会の当時の秘書は近藤氏を除き全員歌が上手い。ピアノに演奏に合わせてそれぞれ歌を歌いワインを飲み適当な時間に成ったのでお開きにした。私も相当酔っていたので、ホステスに抱えられるようにして、地下の階段を上がった。それぞれの運転手がスズラン通りで車を止めて待って居た。私のプレジデントが来た時にホステスが声を出した。

「プレジじゃないナウイわ」

私は最近発売に成ったばかりのプレジデントを褒められ、いい気分でいた。そしたら、私の後ろの方で別なホステスの声がした。

「熊谷ナンバーって、ださくない」

ワインを飲んで酔っている私は気分を害した。

(何が銀座だ。銀座には二度とこないぞ…)

新橋にある成塚の事務所はレンガ通りにある。何というビルであるかは忘れたが、確か五階のワンフロアを全部借りている大きな事務所である。事務所入口に大きな文字で『尾崎将司東京事務所』という看板と『タートル企画』と社名が書いてある看板が尾崎の看板の下に有った。

成塚は博学で色々な事を教えてくれた。何しろ私が無理と言われた熊谷高校を出ているのである。人脈も多くあり、埼玉信用金庫の理事長の安田氏・財界の次郎丸嘉介氏・東京スポーツ新聞の太刀川恒夫氏の他、企業ではブリジストンや大成建設・清水建設等大手と言われる企業のトップを電話一本で呼び出せる立場にいた。そして自分のサクセスストーリを時々語ってくれた。

「私は熊谷高校から立教大学を出て普通の会社に就職しました。好きな人が出来て結婚もしました。処が、私が被差別部落の出身であることが解かり、女房の実家の両親から離婚を迫まれました。女房も同意をして離婚をしたら今度は、会社の方でも被差別部落民である事を理由に退社を勧告されました。途方に暮れた私は頼る所も無く東京に出てきました。そんな私を拾ってくれたのが上杉佐一郎です。だから上杉佐一郎は現在の私があるのもあの人のお蔭です。上杉佐一郎という人は私の前の九重部屋の後援会長をしていました。そんな時に奥さんを癌で亡くしましたので九重部屋の力士が何人も九州の家に弔問に行きました。その時にどうなったか解りますか」

「解りませんどうなったのでしょうか」

「上杉佐一郎という人は、お金を自分の為に使った事はありません。従って家がボロボロな家でして、大きな体の力士が廊下に上がったら、廊下が抜け落ちてしまったのです」

「なる程、立派な人ですね。部落解放の為に身を殺して活動した人でしょう。我々仁侠を標榜するものも『如何に人の為にやってやれるか』と思っているのですが、上杉先生の話を聞くと正に、その通りの事をやり貫いている人ですね」

 一週間に二度位ずつ、成塚氏の事務所には行くようになった。この様な間柄に成っても若い者が拳銃を成塚の事務所に打ちこまなくてはならない状態になるとはこの時は全く解らなかった。

そして、若い者が先走りして、拳銃を成塚氏の事務所即ち、尾崎将司東京事務所に打ち込み私が懲役十二年の刑を判決される事は神のみぞ知る事であった。目まぐるしく回る社会の渦に巻き込まれながら、モガキつつも己の生き方を変えずに信念を持ち生きてきたと考えながらこの章を綴ってきた。

有為転変はこの世の中を生きて行くためには、大なり少なり誰にでもある。有為転変という荒波に梶をずらさないように執って行くことは、荒波を大きく被るものである。だが、この荒波を被ることにより、人間が洗わて汚れが落ちて行くものであると思っている。この章を綴りながら、私は振幅の大きい人生を送ってきたことが、認識できた。それは決して後悔には繋がらない。一人の人間として、天が生きている間、多くの絵や映画・本を私に見せてくれたのである。

斯様な楽しい人生は余り他人にはない事であると考えている。荒波や振幅が大きい人生は、私をどんどん成長させてくれたのではないか、とすると前章と同じく天に感謝をしなければ成らない。

 

稲川会会長・稲川裕絋親分は秘書や側近の者達にビックな事をプレゼントしてくれた。それは一ヵ月近くも滞在することに成る中南米へのチャーター機による旅であった。昔から可愛い子には、旅をさせろと言う言葉が日本にはある。JAL機でカナダのバンクバー空港に行きホテルに一泊して、翌朝、チャーター機でアメリカ大陸を縦断して、バハマのナッソー空港に降りた。カナダのバンクーバーから、アメリカ大陸を縦断した時は、夜と成り整備されたアメリカの高速道路の街灯が首都ワシントンに向かって、裾野の広いクリスマスツリーの様に集まって見え行けども、行けども続く、高速道路の明かりに眼を奪われてアメリカと言う国の偉大さを自分の眼で確かめる事が出来た。