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岸本卓也本部長

関東二十日会は毎月二十日に赤坂『山王飯店』で稲川会・住吉会・松葉会・国粋会・東亜事業組合・興和会・二卒会・双愛会の九団体で関東のヤクザの友好を目的として、稲川会総裁が創ったものである。現在は場所も変わり脱落した組織もあるので規模も小さくなってしまったが、当時は関東の名のある親分衆が一同に会する月に一度の集まりであった。

私達秘書も席に着き開宴を待っている時、鎌倉時代の縁覚上人を彷彿させる男が颯爽として、席の間を抜け一番上座にある各会長の席に歩いて行った。

(あれは岸本さんじゃないか。オーラがあるな…)

この日、岸本氏は三年間・冤罪の為に東京拘置所に入っていて、漸く保釈となり出てきたばかりである。

岸本氏を見ていた各会の者達にざわめきが起こった。何としても稲川会第一の行動派であり、三代目会長の秘蔵子でもある。幾度かの抗争を潜りぬけてきたという自信が、所作に顕れ、それが他人から見ればオーラと成って輝いているのである。現在ほどではないが、人物鑑定の慧眼を人一倍持っていると自負しているその私が、この男は只者ではないと思った。その後、岸本本部長と甲府の当時総長代行であった近藤登氏と三人で熾烈な嫌、卑劣ともいえるのではないだろうか、賭けゴルフの魔窟に落ち込んで行くのである。賭けゴルフは、当時のプロのトーナメントより勝った時の儲け金額が多かった。何百万円勝った。負けた。何千万円勝った。負けた時には一億単位の金を賭けてプレーをしていたのだから、クレイジーとしか言いようがなかったと今と成り思っている。然し。賭けゴルフの魔窟に落ち込んだ私たち三人は、賭けゴルフをやらなければどうにもならない状態になっていた。

毎年、春に成ると茨城県大子町にある『大子ゴルフクラブ』へ会長が秘書や側近の者二十名程で一週間ばかり連れて行ってくれた。

毎年行っているので、コースのレイアウトは全部頭の中に入っている。

忘れもしない。アウトの十七番ショートコース百七十五ヤードで私の岸本氏への勝ちが一億五百万円ほどに成り、近藤氏の勝ちが三憶円以上に成っていた。いよいよ最終ホール一八番である。このホールは右側に池があり、グリーンの前にもクリ―クがあり、グリーンを池が囲んでいるのである。

「おうっ、髙田、俺も負けは一億位だな」

「その位ですよ。どうしますプッシュしますか」

「当たり前だ。処で近藤には幾ら負けている」

「三億ちょっとですよ」

「よし纏めてプッシュだ。さあ、行こうじゃないか」

余りにも岸本氏が熱いので、私と近藤氏は顔を見合わせてコースをお互いに見て左側にバンカーがあるのを認め頷いた。

(ティーショットをあのバンカーに入れれば、二打ではこのロングホールは乗らない。四オンワンパット若しくはツーパットで良いだろう…)

オーナーである私がティーショットをした。フックを掛けたので左側のバンカーに狙い通りボールは落ちた。

次は近藤氏である、三人の中でも一番上手いのが近藤氏である。ティーショットして声を出した。

「しまった。髙ちゃんと同じだ!」

二人がバンカーに落としたのを見て、岸本氏は高笑いをした。そして直ぐに素振りをするとゆっくりとバックスイングをして、オンプレイでダウンスイングをした。ボールはストレートボールで二百ヤード少し飛んだ。岸本氏が頷くと三人は歩き出した。私と近藤氏は左のバンカーに行きお互いにバンカーショットをした。ボールは周りに池のあるグリーンの手前百二十ヤード付近に落ちた。次に何を考えているのか岸本氏が三番ウッドを持ちだして、二五〇ヤードくらい残っているピンまでの距離に挑戦しようとしていた。

(無理に決まっている。あんなところから届かないのが解らないのかな…)

岸本氏は三番ウッドで思い切り叩いた。ドローボールは左に曲がり、池の手前に落ちて転がって池に落ちた。処が池の中に岩が据えて有り、その岩に跳ね返りピンの傍、一ヤードも無い所に落ちた。私と近藤氏はマジックでも見ている気持ちにさせられた。

(本当にゴルフは人生と同じで、何が起こるか分からない…)

でも近藤氏も私も考えていた結果に成ったのだから良かったと思った。五年間東京拘置所に入り、無罪と成り又、このようなありえない事が起きる岸本本部長に凄い守護霊で憑いているのかとさえ思った。この頃、岸本本部長は稲川会本部長。近藤氏は会長秘書・私も会長秘書と成っていたが、賭けゴルフの時は、お互いの役職を忘れてプレーに専念することができた。又、ゴルフはローカルルールなどというものがあり、一般プレイヤーには解釈のしようではどうにでもなる。様々の状態で正確なルールが、賭けている以上必要になってくる。三人で話し合いゴルフ本来の『ありのままで打つ』の原点に帰り、側溝の中からもオービーのネットについているボールを外側から打つことも始めた。勿論、ティーショットは、フルバックからティーショットした。私は会長秘書であるからそれ程、過酷に体を使う事はなかったが、岸本本部長は稲川会が関係している抗争の仲裁や他団体との食事会の為、東西奔走している合間に財産博奕に等しい賭けゴルフをしていたのである。

然し、私達のゴルフの賭けが大きいので到頭、『週刊実話』に掲載されてしまった。仕方ないのでキャディーを付けずプレーしたり、金の事を符牒を使いメモをしながらプレーに嵌まりこんでいた。熱海の近くに『函南ゴルフクラブ』というオリンピックという会社が経営しているクラブハウスが、ロココ調クラブハウスのゴルフ場がある。熱海に近く沼津の親分である山崎氏が面倒を見ていた。

直ぐにプレーができる事もあり、時々プレーを遣りに行った。このコースは大子と同じ経営で、当時の金丸信の奥さんがグリー上で倒れ返らぬ人となったホールもある。そのホールはロングホールであり、グリーンの周りは杉の木で囲まれ薄気味が悪い所である。右ドックコースなので二打でグリーンを狙えるコースであるが、狙ったボールが、グリーンにオンしている筈が必ず無くなってしまうので皆、不思議に思っていた。私もロングヒッターであるから、何時も二オンを狙っていったが、十回狙い一回グリーンに乗って入れば良い方であった。到頭、信仰深い岸本本部長は言った。

「ここコースには何かあるのじゃないか。上った時にでも支配人に聞いてみよう」

ハーフを上がり、支配人を呼びつけ岸本本部長は聞いた。

「アウトの休憩所がある後の、ロングホールは何か謂れでもあるのだろ」

支配人は困った顔をして口を開いた。

「聞いていると思いますが、あのホールで金丸信先生の奥さんがグリーン上で倒れ亡くなりました。それで、私が遡り工事の時に、何かあったかと建設会社に聞き来ましたら、あの場所には庚申様や石像が立っていたのをブルの運転手がお構いなく踏みつぶしてしまい工事を遣ったという事実が解りましたので、今はその場所にお祓をして貰い時々私も手を合わせているのです」

「そうかやっぱり、何かがあると思っていた。支配人好く供養をしなければ駄目だ。お客がこなく無くなるぞ」

「はい解りました。でも不思議な事があるのですね」

「この世の中に、不思議な事は多くある。なぜこんなことが起きるのだろうと考えて一心に仏様にお願いをすることだよ」

信仰深い岸本氏の言葉は重く感じられた。

 

 

三代目稲川会々長

東京にいる時は香代子という女性と世田谷の池尻という場所に住んでいたが、稲川会の本部がある六本木とは少し離れすぎていて本部からの呼び出しを受けても直ぐに飛んで行けないので、芝の白銀にマンションを借りた。私は妻の民子以外の女性を愛した事がなかったが、香代子の聡明さと洗練されたファッションと所差に惚れてしまった。そしてそれは、妻に対しての罪悪感と成り東京にいる間はいや、江南に帰ってきた時は、尚更に辛いものがあった。然し妻はその事に何も触れず今までと変わらない私に対する愛情を注いでくれていた。

(悪いな。民子。でも東京に住んでいなければ、会長秘書は務まらない。自分勝手な理屈であるが許してくれ…)

こうして、金・土曜日以外は東京で暮らすようになった。

マンションには元野球選手で解説者や政治家に成った江本孟が、愛人と暮らしていた。時々、マンションのエレべ―ターで一緒の成る事があったが、体格がよく一七七センチの身長を持つ私が大きいなと感じる男であった。夕方は一日置き位に、総会屋の小川薫氏が電話を掛けて来て何処かで食事をしようと言ってきた。大抵は六本木近辺の店を使った。

小川薫は元々野球をしていたこともあり、野球賭博にどっぷりつかり、借金がかなりあったようである。この当時、私はカジノ通いを毎日していた。それは東京での生活費を稼ぐ必要があったからで、純粋な博徒である私から見れば東京でカジノを経営している店など赤子の手を捻る様なものであった。だから、ときには負ける事もあったがカジノに行く度に百万円ずつは、現金を手にすることができた。その頃は、岸本氏即ち、稲川会の本部長もカジノ通いをしていた。時々、同じカジノで出会う事があり、そのような時には別なテーブルに移動した。同じ組織の先輩のチップの向こうを張ることは、博徒として失礼な行為とされているからである。

岸本本部長は麻布に、高級ゴルフ道具専門店を経営していて、そこの社長は畠山ミドリの兄でもあった。

お客は芸能人が多くクラブはどれを見てもワンセット百万円以上していた。私も付き合いで二百万円近いフルセットを買った事がある。全てのアイアンからウッドまで私のフルネームが入っていた。然し私はジャンボ尾崎がブリジストンから毎年貰う五組のセットの一組を会長から戴き、そのクラブを使っていた。シャフトはXでパワーが無い者が使用すると肋骨を複雑骨折をするくらい固いものである。だから私のドライバーの飛距離は平均三百ヤードは飛んでいた。夕方になり渡世の用事がない時は、岸本本部長が六本木の『瀬里奈』に良く誘ってくれた。『瀬里奈』の前には私がよく小川薫を連れて行く『ドマーネ』というイタ飯屋がり、この店のムール貝のオリーブ焼きを小川薫は私がこの貝は精力が付くと言って教えてから、行く度に食べていた。額と鼻に汗を書いて食べている小川薫を思い出すと大物総会屋として、企業に恐れられた影は微塵も感じなかった。私は『ざくろ』のしゃぶしゃぶが好物で、香代子とジョギングをしながら、白銀から赤坂まで来てトレーナーのままでよく食べに行っていた。

焼肉は麻布交差点の『游玄亭』に良く行った。『游玄亭』の裏側にあるニューハーフの店には色々な者と行きどんちゃん騒ぎをして、ニューハーフをからかい遊んでいた。この店のママとも友人と成り、私が接待で人を連れて行くと最高のもてなしをしてくれた。鑑みると八木田一家の跡目には境の叔父御の裏工作でなれなかったが、ほとんど会長と共に昼間はいる事が出来て幸福であったと思った。会長も賭けゴルフは絶対にしないが、ゴルフはシングルで大抵パープレイで回ってくる。体が大きいので飛距離が出る。同じパーティーで回る時は、会長より距離を出す事が出来ないから、加減をしようとして私がミスを良く犯した。そんな時会長はアドバイスをしてくれた。

『下田カントリー』は会長も総裁もメンバーである。毎年熱海の夏祭りが終わると一週間位、下田の『大和館』に宿泊して、熱海の芸者を三十人ばかり招待をし、夕食は賑やかにやった。その後は、歌手の松山千春や内藤康子たちが来て、カラオケ大会をした。千春はシンガーソングライターで今風の歌を歌っているが、演歌を歌わせたら北島三郎でも敵わないだろう。『神奈川水滸伝』など謳わせたらヤクザ者としての琴線に触れてくるものがあった。それは千春という男の人間的な繊細さであり、豪胆な気性と人の痛みが解かる心にあったのではないか。岸本本部長・この時は、山梨一家二代目総長に成っていた近藤登氏・私の三人と一緒にゴルフを遣るものが居なくなってしまった。仕方がないので時には足手まといになるが、芸者を一人入れて回った事もある。『下田ゴルフクラブ』に関する事で忘れられないのは二件ある。一つは何時も通り三人で賭けゴルフをしていて、最終ホールのロングで私が五百万円ほど岸本本部長にプッシュした時である。確か、このロングホールは五百十ヤードくらいであったと思う。

この儘、行けば岸本本部長に、五百万円プレーが終わったら支払わないといけない。

「今までの負け分、全部プッシュします」

近藤総長は、岸本本部長に勝っていたから、今度は岸本本部長が近藤総長に七百万円ほどプッシュをした。

近藤総長は、自信があると見えてにこにこして応えた。

「オッケー、七百ですね。商売繁盛・商売繁盛」

「この野郎、泣き面をかくなよ。高田の方は五百でいいのだな」

「ここはロングですから、戴きですよ」

「七百と五百で千二百だ。いい小使いに成る。さあっ、行くぞ」

徐に、テーショットをした岸本本部長は、右側にある草の茂った山が気に成ると見えてフックを掛けて、ひっかけて隣りのコーストの境目に、ボールを落とした。

打ち下ろしでもあるので私と近藤総長は、三番ウッドでショットした。コントロールショットなので二人共、フェアウェイど真ん中に落した。

残り二百三十ヤード位である。その前にショットをした岸本本部長が、二打地点に行きセカンドショットをした。トラブルや小技が上手い人なので難なく二打目を残り一五〇ヤードに着けた。

「グットショット!」

近藤総長の二打目は、残り百ヤードくらいである。私はパーで上がったのでは同点に成ってしまうと考えて、少し大きいと思ったが三番ウッドでスイングをした。

二オン成功であるボールはグリーンの中央に落ちたのが見えた。

(しまった。オバーしてしまっただろうかな?)

岸本本部長も近藤総長も三打でオンしてきた。

私が早足で歩いて、自分のボールを確認しようとして、グリーンの傍まで来るとボールはグリーンオーバーをして砲台グリーンの下に落ちていた。私が残念がっていると会長が傍を通り、私のボールをグリーンに放り投げて、にこっと笑い次のホールに行ってしまった。稲川の三代目会長という人はこの様な人であった。

何時も私が岸本本部長に負けているのを知っていたのである。

 

稲川会の三代目を継承するという事は、二代目が残した債権までも継承する事であるのを三代目会長を見ていて初めて知った。

平成六年頃であったと記憶している。正月の四日に熱海に行き新築中である、本家では無く新築をする為に会長が借りていた『大蔵別亭』の会長の部屋に行き新年の挨拶をした。するといつも優しく微笑んでいる顔を更に、歪ませて微笑んだ。

「髙田。今年は良い年になるぞ!」

会長が何を差して良い年になると言っているのか解からなかったので、不思議そうな顔をして頷いた。

「二代目が野村に残した例の物は全部返した」

この事は具体的に何を差して会長が言っているのか解からなかったが、後日、岸本本部長に聞いたところ経済ヤクザの先駆者と言っても過言ではない稲川会二代目会長は佐川急便事件や皇民党事件・平和総銀事件当時マスコミが騒ぎ話題になった事件の他、パナマのノリエガ将軍と兄弟分に成り桁外れの事を多くやり、今でもヤクザ渡世では伝説的な人物である。その二代目稲川会石井会長が百憶単位で東急株に投資した。初めの内は見る間に株が上げり、石井会長は売りに出ようと考えて何時も傍で様々な事をアドバイスしていたフランク永井の歌を作った元作詞家の安部某に相談をした処、この阿部が俄か占い師であるのにも拘わらず東急株はマダマダ上がりますから、会長我慢のしどころですと言って石井会長が売りたいのを我慢させたら、東急株は急落して約三百五十憶円損失を出してしまったのである。同時にその頃から、石井会長は脳腫瘍が発見され入院を余儀なくされ引退をしたのである。

その東急株の損失分が野村証券に負債として残った。それを三代目稲川会会長が誰に相談をっする訳でも無く分割をして支払っていたのである。

だから二代目から三代目になるのには華々しい表面の稲川会三代目の継承という事だけではなく先代の債権まで継承する事なのである。会長は偉いから良いなと思うだろうが、表面に出せない厳しい事が多くあるのを知ってもらいたい。

上納金云々と第三者は言うが、上納金と言う名目はなく実際は、稲川会会員から集めたものは稲川会と言う組織が全国の組織と友好を保ち義理掛けに行ったり、喧嘩の仲裁に行ったり、ヤクザ渡世で稲川会と言う大看板を維持するために使用する経費である。組織が大きく成れば大きい程経費は掛って当たりまえである。

三代目会長は直接事業を遣らなかったが、五反田の某大使館跡に『最高級会員レストイラン&クラブ』や熱海の渚町に『エミールガレ―専門の美術館』を経営させていた。その他、茨城県にある『岩間カントリー』を愛着を持って経営していたが暴力団新法ができた時に、断腸の思いで経営から身を引いた。最も岩間カントリーを作る時、会長自ら長靴を履いて岩間カントリーの現場に行きあれこれと指示をしたゴルフ場である。人一倍感情の起伏が激しい会長が岩間カントリーの経営から身を引いた時は、寂しさや遣る瀬無さを通り過ぎた複雑な感情が湧いて来ていただろう。