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盃の意義について

盃儀式はヤクザにとり重要な意義を持つ集団加入の契機場面であるから、古来からの、格式作法という高度で厳粛な雰囲気を醸しだす、秘儀的様式によって執り行われる。

それは全ての封鎖社会団体、秘密結社において行われるのと同様で本来一種の秘儀である。そして、単なる通り一遍の儀式ではなく集合性あるいは団体の表現的象徴的主義(イクスプレッシング シンボリズム)を色濃く出している。

即ち、スペンサー・ロス、或いはユタンにより指摘された合理化されぬ神秘的要素に満ちた象徴的な行動(symbolic behavior)の組み立て、その背後を流れる強烈な集団感情(collective sentiment)の表出、そして、その雰囲気の中の連帯性(solibality)と集団統制(social control)の意志が強く貫かれているのが特徴である。そしてそれを組み立てる構成要素のひとつひとつが重要な意味を持っている。

稲川会直参の盃となれば尚更のこと、当人の固い意志と親分に対して忠誠心と団結精神そして、ヤクザとしての矜持を持たなければこの盃を正式に親分から貰ったと言えない。 私と同時に稲川裕絋親分から盃を貰ったのは、稲川会でも経営者として辣腕家と言われていた。木更津市に本拠を持つ中村富夫氏と後に山梨一家二代目総長と成る近藤登氏である。盃式に置いて媒酌人である森泉人が、威厳の籠った言葉で向上を述べた時には全身の血流が逆巻くような興奮と感動を覚えた。

(漸く、ここまで来ることができたか。何があっても吾道は一を貫くという心構えで来たかいがあった…)

盃儀式が終了した後、祝宴があり、親分の部屋に挨拶に言ったら親分はニコニコ笑った。

「高田、俺の若い衆に成った以上、誰にも物事を言わせない。安心をして渡世を取る事だ。頑張れよ」

この様な親分を見て私は孟子の『心広く体躯豊かなり』という言葉が浮かんできた。私が思った通りその後の親分と共に、全国を回って他の組織と食事会をしたり、ゴルフをして親分の一挙手一投足を見ていると大親分とは斯くあるべきであるという実感したものである。

東京は『生き馬の目を抜く』所であるという言葉があるが、稲川会の直参の一部の者は、私の様に田舎から出てきた者に対して、生き馬の目を抜く対応をしてくれた。多くは書きたくないのだが、一つだけ披露をしよう。

「高田さん。無尽を始めるので一本入ってくれませんか」

無尽も付き合いの一つであるから、何のためらいもなく引き受けた。

「頭・百万で跡は月々三十万の約束で御茶代として、毎月一人五万ずつもらう事にしています。まあ、私も余り楽でなく苦しいのです。助けると思って入ってください。人数は十人と思いますが、毎月一人五万ずつ御茶代として貰うので満額は三百五十万円に成ります」

「好いでしょう。苦しいのはお互い様ですから」

「髙田さん。ありがとう。何か起きた時は遠慮しないで言ってくだい」

「中谷さんも会長秘書として、親分の傍に何時もいれば金を作る時間がないので大変でしょうからこの無尽は引き受けました」

「髙田さん悪いですね」

この無尽が始まって私は最後の十人目になるまで満額に成るのを待っていた。そして無尽の最後が来た時に渡されたのは三百五十万円の三ヵ月後の手形である。

(何ていう無尽だ。ふざけるにしても程がある。中谷と言う男はこんな狡い事をする男だったのか…)

「おいっ、中ちゃん手形で無尽の決済をするいう事聞いたことがない。俺は現金じゃなければ受け取らない」

「俺の方も色々事情があり、この様な形に成ってしまってのだよ。何とか手形で我慢をしてくれないか」

「いやだよ。アンタもヤクザならヤクザらしく、ケジメはきちんとつけた方が好い。こんな話、誰に聞かせても通る話じゃない」

見た者を震わせるような悪い目つきで私を睨みながら、中谷は言い返してきた。

「俺が頼んでいるのだから、言うことを聞いてくれよ」

「やなこった」

「なに、俺を虚仮にするのか」

「虚仮なんかにはしてない。寧ろあんたの方が俺を虚仮にして、舐めているのじゃないか」

それだけ言うと私は、こんな男を相手にしても笑われると思ったので三百五十万円を溝に捨てたと考えて手形を受け取らずにその場を後にした。

前橋の大前田一家の総長小田建夫を筆頭に、金に汚い親分は結構いた。小田建夫には約二億位の金を遣わされた、典型的な詐欺師であるから、最後はメッキがはがれ稲川会を絶縁された。

この様な輩がいる中で男は多くいた。それは三代目会長の薫陶を受けてヤクザとして育った岸本卓也親分や九州の親分であり詩人でもあった小川義春氏・杉浦昌弘氏・金沢広幸氏、そして現稲川会五代目会長・清田次郎親分たちであった。当時、現・稲川会五代目親分はゴルフをしたり、『勘一ホテル』の風呂の中で八木田一家の本部がある深谷市に落下傘候補として糸山英太郎が選挙事務所を創り衆議院議員に立候補した際に、現・五代目会長が、糸山を連れて大澤三金吾の家に来て選挙の応援を頼んで行ったのである事などを話してくれた記憶がある。常に微笑を忘れず他人には春の和のように爽やかに接してくれた現、会長であった。スケールが大きくて、人としての優しさがあり、心が広い人であるという印象を受けた。

それは、『大子ゴルフクラブ』で握りゴルフをして、私が負けて幾ばくかの金を部屋に届けに行った時に言った言葉が十数年もたった今でも忘れない。何十万円かの金を部屋に届けに行った。

「髙田、仲間同士でこんなに高いゴルフの賭けは止めよう。皆大変なのだから」

そうして、私の差出した現金を受け取らなかった。人の心を慮る事が出来る人で今から二十年前のことだから、現在では稲川会会員の一人一人の事を慮る事が出来る人であろう。当時は、未だ戦国の様相をヤクザの各組織がしていて、毎週他団体との『食事会』『ゴルフコンペ』『接待』熱海に招待したり、地方に招待されたり多忙な日々を送っていた。

遊びも好くやった。私は根が博徒であるから当時、東京中に乱立をしていたカジノに行きバカラばかりしていた。

私が出入りしていたカジノは六本木を中心に、赤坂付近ばかりであった。博徒である私から見れば、堅気の者が経営しているカジノ等、ほんのお遊び程度のものであり、如何様をしていたとしてもすぐに見破り、それに乗って行くという方法で負ける事は殆どなかった。

日本式賭場では如何様を仕組んだのを見抜き如何様に乗って行くことは『横揚げ』をすると言って博徒同士では遠慮をするのであるが、カジノを経営している者は堅気であり、堅気の癖にディーラーに如何様を仕組ませてやっていたのだから、この者達ほど悪い者はいないと博徒的考えの元に『横揚げ』をしていたのである。それ以前の問題として、堅気の者がカジノ店をオープンするのには、風俗営業法の五であると思うが警察の許可が必要である。東京の場合カジノの店をオープンする際に、本庁である警視庁へカジノ担当の課長に先ず、一千万円を賄賂として送り、カジノ店が営業をする所轄署の係りに、毎月百万円渡す事が不文律化していた。この様な状態でヤクザの私がカジノを真剣にやるわけがない。カジノの経営者と警察をあざ笑うかのように私はカジノ通いをしていた。だからカジノ店に無理難題も吹っかけてやった。その結果、裏でカジノの面倒を見ている都内のヤクザ組織と何度もいがみ合いが有った。拳銃の発砲事件にも発展した事もあり、私の組の者が警察が面倒を見ている店に拳銃を撃ちこんで店を潰してしまった事は何度もあり、私が若い者にやらせたと解かっていながら、警視庁のカジノ係りは私に手を出す事が出来なかった。私を逮捕すれば、自分たちの収賄が暴露されると懸念を抱いていたのであろう。

 

総会屋小川薫

私が最後の総会屋等と呼ばれその気になっている小川薫とあったのは、稲川会の直参に成る前であったが、本格的に付き合いをするようになったのは、当時、世田谷の池尻のマンションに住んでいた私の彼女である香代子を連れて赤坂の『ざくろ』へシャブシャブを食べに行った時である。当時の『ざくろ』は夕方に成り予約をしないで行くと直ぐに入いれない程混んでいて、店の前に有る畳敷きの縁台の様な腰掛で待っているのである。TBS会館の地下一階にあり、降りたところに同店が経営している『グラナダ』があり、その奥が『ざくろ』であった。

 縁台の様な待合椅子に、頭が剥げた丸い顔をしている男が、もう一人の男とべらべら喋っていた。

「あれっ、小川さんじゃないか」

私の言葉に小川薫は振り向いた。少し首を傾げながら声をかけた私を誰であっただろうかと考えていた様である。兄弟分の岡野秀雄に銀座で紹介されてから、五年くらい経過をしていたのだから無理もないと思ったがそれでも気が付いたのか。

「高田さんじゃないですか。いや歳を取ると物忘れが激しくてしょうがない」

「今日は何か用事でもあり、人と会っているのですか」

「うん。紹介しよう。ここに居るのは週刊現代の田島孝二編集長です」

傍で小川氏とべらべらしゃべっている五十年配の男は、立ち上がると名刺入れから名刺を出して、週刊現代の編集長という肩書が付いた名刺を出した。私は香代子に持たせた荷物の中から稲川会の代紋が入っている名刺を出して交換をした。その後、『ざくろ』やイタリアンの『ドマーネ』等で何度も食事をするようになった。その度に小川薫は全日空の搭乗員をしているという美しい女性を同伴して来たので小川氏との食事の時は香代子を同伴させた。

香代子は『ホテルオークラ』の岩崎社長の秘書をしていたくらいだから、英語が堪能であり、六本木辺りは外人が多く私は外人と時々冗談を言い合っていたのを通訳してくれた。

ある時、小川氏を『ドマーネ』に誘った時に私が、ムール貝のオリーブ焼きを食べていた時、小川氏が唐突に口を開いた。

「その貝は何て言うのですかな」

面白いから冗談を言ってやった。

「この貝はムール貝と言って、これを食べた後は、あそこがギンギンに成りどうしょうもなくなりますよ」

「本当ですか。儂も頼んでみようかな」

ムール貝のオリーブ焼きが来ると小川氏はむしゃぶりついた。

(剥げている者は精力が強いと聞いているが、本当の様だな…)

実際。小川氏は女性が好きであった。女性が好きであるという事実は書かないが、何年後であるか、サラリーマンローンの『武富士』が、自社株を一部上場する事を総会屋の情報源(野村証券)から聞きつけて、小川氏は私にこんなことを話し出した。

「『武富士』の野郎あくどい事ばかりやりやって、今度は上場だってよ。俺様に挨拶がない限り上場はさせないつもりだ。髙田さん力を貸してくださいよ」

「私に出来る事でしたら、何でも言ってください」

「上場をする会社が一番困るのは、スキャンダルが起こる事です。ですから、高田さんの若い者に出馬包丁か何かで死なない程度に、武富士に傷を負わせてください。必ず『武富士』はその事を秘匿するでしょう。又その事が新聞に乗ったりしたら、株取付け会社が時期早尚として、上場を見合わす事は常識であり、そこで『武富士』は目論見が外れる訳です。上場出来たのと出来ないのは資産的にも社会的信用度に大変な違いがあります。取り付け会社は野村ですから私の方に人脈がありますので何とでも話は着きます。そこで、私が武井と会ってスキャンダルがなかったことにしてやると言って、三憶円ばかり貰い野村に話を付けてやるという筋書きです」

「面白い。武井は俺と同じ埼玉の深谷市出身で、昔は俄かヤクザを遣っていた野郎で命を助けて貰った恩人の葬儀にも参列をしないし、後日、線香の一本も上げたと聞いていない。恩人に代わり成敗するのも気持ちが良いだろう。この件は小川さん俺は乗りましたよ」

「但し、髙田さん拳銃などは絶対に使わない事、使うと必ず新聞沙汰になり、握りつぶす事ができなくなるから、絶対に使わないでください」

「解かっていますよ。その前に私も言いたいことが武井にはありますから、質問状を送り付けます」

「そうですね。余り荒っぽい事でなく質問状で相手が乗ってくるならそれでも好いでしょう。但し武井はしたたかな野郎ですから十分注意をして下さい」

こうして、最後の総会屋と呼ばれた小川薫と私の悪だくみは相談されたのである。

私は香代子に口述でワープロを打たせた。内容はこの様な物であったと記憶している。

 

前略 この度、株式上場のことと知り心からお祝い申し上げる。きっとあなたの胸の中を去就する物が多くあると御察し致します。中でも、彼方の故郷である埼玉県深谷市であなたの友人である安野祐次氏のことは拭い去る事が出来ない事実として、あなたの脳裏の奥底に刻まれている事と推察いたします。

安野さんが逝去されて、十七年ほど経過しました。あなたはその間、一度でもお線香を上げに行った事がありますか。昭和三十年代後半、彼方が深谷市の唐沢堀でチンピラの様に与太立って歩いている時に、先方から来た住吉一家の阿部重作親分の若い者で高橋浅太郎さんに、拳銃で二発撃たれ、唐沢堀の土手から転げ落ち瀕死の重傷を負った時に、あなたを背負い深谷駅前に有る佐々木病院に運んだのは安野祐次さんではありませんか。忘れたといは言わせません。この様な恩義を忘れ現在、サラリーマン・ローンの雄などと言われその気になり、株式の一部上場とは私に言わせれば烏滸がましいとしか言いようはないのである。『中国人はその水を飲むときにその井戸を掘った人の事を忘れない』と鄧小平が言いましたが、あなたも今日があるのは、安野祐次さんに命を救われたからであると言っても過言ではありません。自社株を上場する良い機会ですから、ここで安野祐次さんの永代供養料を安野祐次の後輩として、彼方に出していただきたくこの書を書いた次第です。

本書をみまして少しでも感じるところがありましたら、お会いして具体的な話を致したいと考えている次第です。草々                              

 

平成十年三月九日                       

髙田宰生

武富士社長 武井保夫 殿

 

 この私から出した手紙は無視された。私も腹が立ったので運転手の持田覚に言い付けて新宿にある本社に行かせこう言わせた。

「俺が会いたい。会いたくないのなら後の責任は持てないとも言ってこい」

持田覚は、私からの命令であるので、意気込んでしまい余計なことまで言ってしまった。

「稲川会々長秘書である家の親分が、用事があるから、会ってくれと言っている。会えないならどうなっても知らねーからな」

武井保夫は驚いてしまった。そして如何したら良いかを考えた結果が、この問題は私にとって最悪な結果に発展してしまった。武井は、稲川会の会長秘書が動き出したのは稲川会会長の意志が働いていると考え、自分の知人を通して会長の所に私が武井を攻めない様にお願いに行ってしまった。後日、熱海の会長の家に行き挨拶をしたら笑いながら親分は諫める様に私に言った。

「髙田、武富士なんかと喧嘩をしても敵わないぞ。喧嘩は勝てる相手とやる事だ。今後、武富士を攻める事はあい成らん。扨て、お前が来たのならゴルフでもしようか」