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老人施設花みづき・理事長

埼玉県深谷市に三代続いた『佐々木病院』がある。現在の病院は医業では無く事業を目的とし多角経営化を目指して、何処の病院でも様々な分野に出進している『佐々木病院』も殊のほかに漏れず介護施設を幾つか経営している。その一施設に『花みづき』という薬物で精神が可笑しくなったものや高齢者介護を主目的とした介護施設があり、厚生省や埼玉県から潤沢な資金を援助されている。薬物からの立ち直りや老人介護といった耳障りの良い言葉は役人たちの好きな言葉である。従ってその為の施設を建設するのに、例えば、一億円設備資金が必要であるとすれば、七千万円は、補助金として降りるのだから、この様な施設を運営している理事長ともなれば、最高級の車に乗り、一人や二人の彼女を隠し持ち、毎晩派手に高級クラブや料亭で豪遊できるのである。庶民の税金から出ている補助金や援助金で豪遊して、自分では偉い者であると錯覚して居るこれらの人種は、国にへばり付き甘い汁を吸う悪しき者であり国家の『獅子身中の虫』である事は間違いがない 扨て、そのような悪質な埼玉県深谷市佐々木病院が経営する介護施設『花みづき』の理事長である松沢努の不良時代の事を紹介する。松沢は深谷市桜ケ丘で生まれ私より、五歳年下であったと思う。少年時代は元気が良く怖いもの知らずで、誰にでも喧嘩を吹っかけ、負けて来ては私の兄弟分である岡野秀雄の家に来て助けを求めたものである。

「深谷商業に、松村という喧嘩が強い野郎がいます。生意気な野郎ですから、兄貴一緒に行き、ブチノメシテやりましょう」

 喧嘩が強いという言葉は当時の私や岡野にとり、一番刺激的な事で、その言葉を聞いた以上、松村に会いに行かなくてはならない。

「松、これから深商に行くから、おめーが、松村という野郎を呼び出して来い」

 岡野の言葉に松沢は、意気込んでいる様な顔をした。

「兄貴、頼みますよ」

 この様なことに繰り返しでの昭和三十年後半の時期であった。恐喝もよくした。喧嘩が強いと言われた者を相手にして必ず勝った。松沢は私達が喧嘩で勝つと事後処理をするように負けた者にいうのである。

「おうっ、喧嘩で負けたんじゃ、今月の二十八日までに五万円持って来い」

 期日が来ると松沢は自慢そうな顔をして五万円を私と岡野の前に差し出すのである。

「松、ご苦労だな。中々、おめーも遣るじゃーねーか」

「兄貴たちの為なら何でもやりますよ。誰が来ても眼じゃねーですから」

 松沢は本当に喧嘩が弱かった。口先だけは上手だった。従って、女性に手を出すのが早く、今日はこっちの女性明日はあっちの女性と目まぐるしく当時、深谷にあった連れ込み旅館『唐沢』『夕月』に女性を連れ込んでいた。その内の多くは現在『正智深谷高校』と呼ばれている高校で当時の『桜ケ丘女子高校』の生徒である。今は如何だか解らないが、当時はジャニーズ系の顔をしてスタイルも良かった。その上、口が上手いので女子高校生などは直ぐに騙される。私が記憶しているだけでも松沢が手をつけた女子高校生は両手・足の指の数では数えられない位である。在る時に松沢が言った。

「林の信ちゃんが、エフェドリンという注射をすれば気持ちが良くなる『大慶堂薬局』に行けば直ぐ、売ってくれると言ってました」

 岡野はサンプラの歯を見せながら、松沢に命令をした。

「松、ひと箱いくらするんだ。金を遣るから直ぐに買ってこい」

 後年やくざと成り『シャブの帝王』とまで言われた岡野が、興味深々という顔をしていた。今、鑑みるに岡野はこの当時から薬物に異常な関心を持っていた様である。浦和少年鑑別所で知り合い知己と成った高橋組の豊田組長と共に、日本で最初に中国製トカレフを何千挺も密輸をしたり、覚醒剤を何百キロ単位で台湾やマニラから、漁船を使い国内に運び込んでいたのである。因みに現在、豊田組長は十数年前に渇隠した高知沖で漁船に百五十キロ程の覚醒剤を密輸したとされ懲役二十年で岐阜刑務所を服役している。

松沢は競輪の選手が、ぺタルを漕ぐように前のめりになり、腰を屈めて仲町にある『大慶堂薬局』エフェドリンを買う為に急いで行った。十五分もかからない内に、エフェドリンをひと箱買ってきて岡野に渡した。

 岡野が箱を開けると小さなアンプルが十二本入っていた。私も岡野も学校でやるツベリクリン反応の注射しか、したことがない。健康そのものであったから、風邪の薬の注射さえやった事はなくエフェドリンのアンプルを見ても如何して良いのか解からなかった。

「兄貴、この薬は注射器で吸いこむものです、女にやると気持ちが良いと言って離れなくなりますよ」

「そうか松、注射器を持ってこい」

 待ってました、という顔をして、松沢がズボンのボケットから、注射器を取りだした。箱の中のアンプルも取り出して、ハート形の小さなヤスリを当てるとアンプルの首のところを回し、指先を軽く当て曲げるとポッキという音と当時にアンプルの口が開いた。松沢は注射器の先をアンプルに差し込むと器用な手つきで液体を吸い込んだ。

「兄貴、如何しますか」

 岡野は何食わぬ顔をして言った。

「松、おめーが、最初にやってみろ、いい気持ちになるといったのは、おめーだからな」

 色白で目玉の大きい岡野にギョロと睨まれた松沢は、仕方なしに白いシャツの袖をたくし上げ、岡野の前に軟弱な腕を差し出した。

 岡野はいきなり松沢の腕にブスリと針を刺すと注射液を一気に入れて、松沢の顔をじっと観察していた。松沢が眼を白黒させて、ホーット息を吐くと突然、岡野は、笑い出した。

「わはっ、はっ、はっ、はっ、はっー」

 悪ふざけの岡野の高笑いは、階下の御爺さんが、何事が起か思って二階に上がって来るほどの声であった。毎日、そのような事をしていれば行き突く所は決まっている。深谷署の少年課に補導されたのは、私達三人の他に彫福こと福田勉もいた。松沢は印旛少年院・福田は茨城農芸学院・岡野は久里浜特別少年院・私は松本少年刑務所で皆の三倍の刑期を言い渡された。

松本は冬の寒さが厳しい所で、窓ガラスは無く透明のビニールが窓に張られていた。寒さの為にガラスでは氷って欠けてしまうからで、冬そのビニールシートに部屋の内側から張り付く雪印のマークにそっくりな霜の花と春夏秋冬にかけての周囲の山々の変化が、今でも深く印象に残っている。

松沢は少年院でキリスト教の洗礼を受け、出院してから都内で長く牧師をしていたと聞いたが、最近は姉の松沢久美子が、深谷市の佐々木病院の権威ある地位に居るのでその縁故で『花みづき』の理事長というポストで我々の税金を国や県から市から補助金・援助金等の名目でブッタクリ、やくざが乗る様な高級車に乗り深谷の街中を忙しく動き回っているのである。一応見事に更正した見本と言えないでもないが、松沢の仮面の下にある顔と巧みな処世術の本性は、私には解る。然し、松に言ってやりたい。

「松よくやったな、と…」

 蛇足ではあるが、現在松沢は姓を変えて別人に成り澄ましている。松沢の姉は彫福こと福田勉の初恋の人でも有る。この原稿を書いている時に見せたら、額に青筋を立てて私に言った。

「止めて下さい。昔の事を書くのは、第一松沢は背中に入れ墨を入れている事なんか誰も知らないのですから」

 そこで私は松沢が群馬の新町にいた彫一に、金陣潮五郞を背中に入れてもらった時の事を思い出した。

「松! 墨を痛がる様じゃ男に慣れないぜ、痛みを顔に出すのじゃない。幾ら痛くても澄ました顔をしていろよ」

 

 

 

次郎という男

私達愚連隊の二歳先輩である新井次郎という喜三郎や銀次の仲間がいた。そのリーダー的存在で端正な顔立をしながら悪知恵の発達した男がいた。喜三郎や銀次は次郎さん・次郎さんといって顔を立てていたが、この次郎が如何してか喧嘩を一度もしたことがないのに、リーダー的存在なのか不思議に思っていた。

 質屋を商っていた私の家の隣組で家が離れていなかったからか、私が先輩たちの愚連隊と喧嘩をしても次郎からは、何の因縁も付く事は無かった。井野喜三郎・飯島銀次は韮塚英雄の若い者になり、清水邦彦は現八木田一家総長小谷野一郞氏の子分に成った。深谷駅前で、岡野と二人でぶらぶらしていた時のことであった。 本庄高校の番長である門倉貞夫が手下を三人連れて我がもの顔で歩いて来た。私が高校を止めて直ぐに、岡野と深谷駅前で待っていて門倉には本庄高校時代世話になった(苛められた)お礼をして、深谷辺りでデカイ面をするんじゃねーといっておいたはずである。

 門倉が与太りながら手下を三人連れて歩いてくるのを岡野が目ざとく見つけた。

「門倉の野郎。一度謝った訳なのに、あのデカイ態度はなんなんだ」

「みっちり締めてやるか兄弟」

 岡野は気に入らない顔をした。

「好いじゃねーかよ。あの野郎一人の時と手下がいるときでは態度が全く違うじゃねーか」

 私と岡野は、手下を連れて与太ってくる門倉に近づいて行った。

「おうっ、門倉の先輩よー、随分、好い線行っているじゃねーか。ちょっと面を貸してくれねーか」

 門倉と配下の者達は既に、委縮して震えていた。いきなり私は、門倉の襟首を掴み右ストレートを顔に叩き込んだ。門倉はヨタヨタしながら鼻血を吹き出させてその場に倒れた。門倉の配下は全員顔を下に向けて戦意は喪失している。私達は逆らいませんという様な顔をしていた。倒れた門倉に岡野はゲソパンを続けざまにけり込んだ。

「勘弁してください…」

 門倉は蚊の鳴くような声を出して、岡野に懇願していた。

「おうっ、こんな者大した事はねーじゃねーか、これが本校の番長様だとよ、笑わせるんじゃねーよ。兄弟行こう」

「ちょっと待ってくれよ。門倉に言って聞かせる事があるから」

 岡野は倒れている門倉の胸倉を掴んで、引き寄せると耳元で何かを言っていた。

「こんな者の傍に何時までもいたんじゃ警察にチンコロされるまである。早く行こうぜ」

 門倉の胸倉を放した岡野に聞いた。

「何を言って聞かせていたんだい」

「その気になっているから、落とし前として十万付けたのさ、本校の番長様だから、金ぐらい直ぐに集まるさ、金が入ったら兄弟、銀座でも言ってあか抜けた靴でも買おうよ」

 岡野はこの様な恐喝は得意であった。呂律が回らないような喋り方が、如何も薄気味が悪くなるようである。

「あんまり無理をしねー方が好いぜ、今度パクられたら、少年院間違いがない。ブルっている訳じゃねーが、俺はあまり少年院には行くたくねーからよ」

「兄弟、俺は少年院に行き番を張りたいだけだ。どうせ久里浜辺りの特別少年院だろうから、出てきたら箔がつくんじゃねーかよ」

 岡野もそうであったが、私も愚連隊として箔がつくとか貫録が出てくるという事を目指して、喧嘩三昧の日々を過ごしていたのである。愚連隊としての上昇思考とでも言っておこうか。

一週間くらいしてから、岡野と二人で深谷の駅前通りをゆったり与太りながら歩いていた時である。

反対側から愚連隊らしきものが五・六人来るのが分かった。だんだん近寄ってくると新井次郎率いる喜三郎・銀次・清水邦彦・その他、人相の悪いのが二人与太りながら私と岡野の方を土佐犬が喧嘩をする前の様に、睨みながら闘志満々という顔をして近寄ってきた。

「兄弟、次郎やんとキー坊・銀ちゃん・邦さんまで居るぜ、俺たちを何とかしようと思っているに違いねーよ、如何したら好いのだよ」

「如何ってことはねーよ、何人居ても上等じゃねーか、やれるだけやれば良いんだ。ここで尻尾を巻いては愚連隊として食ってはいけねーよ。俺はやるぜ」

 岡野という男は、子供の頃から柔道をやり喧嘩は強いが、この様な状況では、如何したら、得であるか先に考えてしまう達である。

「おうっ、次郎が手招きをして呼んでいる。俺が行くからな。若し喧嘩が始まったら直ぐに、助っ人してくれよ」

 私は、次郎の傍に近寄って行った。この頃の喜三郎は高校ボクシングの選手でもあり、ボクサー独特な目つきで私を上目ずかいに睨んだ。銀次は、丸いちいさな眼を思い切り大きくして私を睨み、清水邦彦は眉が濃く髭面の眉間に皺を寄せて睨んでいた。

「何か俺に用事でもあるのかい」

「うん。門倉の事でおめーに、話があるんだ。この間、門倉を締めたのか、門倉は俺たちの仲間だという事を知っているな」

「知っていますよ。それが如何したというのですか」

「それを知っていて門倉を締めたのじゃー黙っている訳には行かねーよ」

「それじゃ勝負をするという事かい」

 私は腹を括って次郎の意図するところはなんであるかと考えながら臨戦態勢に入った。 次郎も私の顔を凝視して腹を読むような顔をした。

「門倉はよー、気を使って俺の所へ時々銭を届けてくれるんだ。その門倉から銭を取ろうなんて筋にねーよ」

 岡野が前に出てきて、ゆったりとした口調で言った。

「喧嘩で負けたのでは落とし前をつけるのが、筋ではねーのかよ」

次郎は切れ長の細い眼を岡野に向けると言った。

「岡野、おめーに言っているのじゃねーから黙っていろ」

 私はあんまり如何の乞うのという事が、大嫌いなので面倒くさくなり次郎に言った。

「対一で遣るのでしょう。相手はキー坊かい」

井野喜三郎はファイティング・ポーズをとり、私を上目使いで睨みつけた。

「上等だ、俺はまけねーぜ」

 その状況を少し離れた場所で深谷の愚連隊の神様と伝説に成っている円岡富蔵さんが、自転車に跨り私達の遣り取りを見ていたのである。

「止めろ! スズ坊に手を出したらおめー達、深谷の町に置いておかねーからな、それで上等というなら俺の見ている前でスズ坊と誰でもいいから対一で遣って見ろ」

円岡富蔵さんは喧嘩で負けたことがない人である。近在のやくざでも一目置かれている人物である。そして筋を通すから誰にでも慕われる。その富蔵さんのひと言である。次郎たちは躊躇した。

実は、わたしの喧嘩の師匠は富蔵さんである。進駐軍の払い下げであるボクシングのグローブを小学一年の頃から手に嵌めさせられ年が、五つも六つも上の者とボクシングをさせられたのである。私は負けん気が強く鼻血を吹き出しながら年上の者に掛って行ったのである。とにかく、富蔵さんは、筋を通す喧嘩の強い人であった。その後も、富蔵さんは私がヤクザになっいてからも全面的に応援をしてくれた。

富蔵さんのひと言で、次郎達はブルってしまい戦意を喪失してしまった。次郎達全員が下を向いているので富蔵さんは言った。

「もう、何にもなかったことにしろよ、詰まらねーことで、ごちゃごちゃ言っているのは男じゃねーからな、スズ坊・ガンジー俺の後に付いて来い」

(私は名前が宰夫(すずお)だから、スズ坊・岡野は子供の頃からガンジーという大層なあだ名がついていた)

次郎たちは全員で声を揃えて富蔵さんに言った。

「お手数掛けてすいませんでした」

「如何ってことはねーよ、それじゃ二人は連れて行くぜ」

こうして、次郎一派との喧嘩は回避された。この事だけではなくやくざに成った時も富蔵さんには、返しきれない恩がある。新井次郎はその後、福田という女性と結婚して『クインビー』というクラブを経営して羽振りが良くなり、愚連隊の時のことを忘れたかのように、ロータリークラブに入ったり、名門ゴルフクラブのメンバーになったりしていたが、丸くなった月が必ず欠ける様に女房と倅に死なれて生活が荒み最後は、詐欺師のような事までやり、周囲中に借金をしたまま癌で瞑目した。

私が忘れられないのは、十三年前暑い最中群馬県にある赤城ゴルフコースでプレイをした後、支払いをしようと思い受付カンターに行くと受付嬢が笑顔で言った。

「食事代金は新井さんが、支払って行きました」

この様な気づかいをして貰うのは嬉しいものである。新井次郎も妻子の死という重いものを経験して人情の機微を解する人間になったなと思った。