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武富士社長の過去

深谷市から熊谷市にある高校に通っているもので、熊谷商業高校の番長は井野喜三郎・熊谷農業高校は飯島銀次であった。それらに混ざって城西高校のチエンの熊というのがいて恐れられていた。確か、栗原という名字であったと思う。何しろ両手に自転車のチエンを握り、宮本武蔵ではないが、振り廻して喧嘩をする相手の顔を狙うのである。従って、チエンの熊は彼ら番長の中でも各上の存在であった。

少年たちでも深谷市という所は侠風が、赤城颪の様に厳しく強く吹いていたのである。新井次郎という高校へは通っていなかったが、知恵の回る悪もいた。次郎の喧嘩をしたのを私は見ていない。それでも綺羅星の如くいた不良たちに交じって、恐喝や番長たちを使嗾してやりたいことをしていた。私はこの者達とは喧嘩をしたことがなかったが、本庄高校一年生の時に、深谷駅から電車を降りて家の近くまで来ると井野喜三郎・飯島銀次・門倉貞夫の三人が、私の家の前の道端で待っていて喜三郎が、眉間に皺をよせ目の玉を吊り上げさせ上三白眼をしながら近寄ってきた。

「おめーが髙田か、如何だ。俺と勝負をしてみねーか」

 喜三郎は既に、ファイティング・ポーズを執り、身構えていた。私は喜三郎に勝てると思ったが、家が近くであるので、ここで喧嘩をすれば直ぐに、親に知れてしまうと思い喜三郎に言った。

「先輩、俺は、喧嘩しねーよ、別に俺が何をしたという訳ではねーでしょう」

「おめーは喧嘩が強えーと聞いている。だから一度勝負をしてみてーのさ」

私を囲んでいた銀次か門倉のどちらかが言った。

「髙田おめーも根性がねーな」

 根性がない。私が一番嫌いな言葉である。その言葉を耳にすると、喧嘩を遣らない訳には行かなかった。遣ってしまおうかどうか、たまゆら逡巡した。

(しょがねーや、遣ってしまおう…)

 と決意した時、家の前に母親が出てきた。母親は私が三人に囲まれているのを見て声を掛けてきた。

 

「宰夫さん。そこで何をしているの?」

 三人は、母親のその言葉を聞きこれ以上、何もできないと考え捨て台詞を残し、早々姿を晦ませた。喜三郎と銀次は、深谷市明戸出身で八木田一家児玉町の組長に成った韮塚英雄の舎弟になり、韮塚英雄は現八木田一家総長小谷野一郞氏と兄弟分であった。喜三郎はヤクザに成ってからは、世間の裏側を観すぎたようで、人間的に優しくなり、私が通学の為、駅などから下りて出会った時など、良く声を掛けてくれた。

「元気にやっているか。何かあったら何でも言ってくれよ」

 二・三年韮塚組に居ただろうか、やがて同郷の大先輩でもある街金の「武富士」の債権回収役として、その暴力性を如何なく発揮して、初期の「武富士」の成長に貢献した。銀次は韮塚組に残り、組長代行までしていた。然し、人間的に人の良いところがあり、足の脛に筋彫の悪戯があり、それが流れ星であったので「流れ星の銀次」と二つ名で呼ばれるようになった。その頃、韮塚組は何人も若い者がいなくて、現在の藤岡市の事務所を構えるまでは小さな組であった。徐々に組が大きく成ると組の存続に掛るから、銀次も口に出せない苦労が、有ったと思う。時には鬼と成り、時には佛になり、それでいて渡世の筋を守りながら組の資金まで管理するのである。銀次は精一杯努力をしたが、韮塚組が藤岡に事務所を構えて数年で、その二つ名の流れ星の様に藤岡から姿を消した。暫くして、深谷市内で銀次に行き会ったので私から声を掛けた。

「久しぶりだね、銀ちゃん。今何処で何をしているのだよ」

「今、キー坊なんかと一緒に武富士の切り取り(債権回収)をしているのだ。武井さんは面倒見が良いから居心地が良いよ」

「ありまり、無理をしない様にしてくれよ、銀ちゃん」

「ありがとうよ。東京に来たら板橋の高島平の武富士に来てくれれば、都内を案内するよ」

喜三郎も銀次も地元の先輩韮塚英雄氏の組へ行きやくざとして、大きく成ると思っていたが、共々、韮塚にも先輩にあたる武富士の所に行ったのである。彫福の言葉を借りると現在、喜三郎はバイトのような事をして食べているとの事で銀次は親の遺産が多くあるので、悠々自適な生活をしていると事である。武富士は、昭和二〇年代深谷市の唐沢堤の桜見物で賑わう中、同じ明戸出身の安野祐次と与太っていた。その頃、住吉会は住吉一家といって阿部重作という大親分がいた。若い衆に向後さん・青田さん・日本興業の高橋さん達の親分が綺羅星の如くいた。日本興業の高橋さんとは別な人で高橋浅太郎さんというギャング的な生き方をした伝説的な人物もいた。この人が高崎線沿線の一家を軒並み住吉一家に入れて回ったのである。しかも、いう事を聞かない親分には拳銃を突きつけて住吉一家に入れたのである。この人が深谷市の唐沢堤の桜で賑わう様子を見ていたのであろう。前から二人のやくざが来たと思い二人を睨んだと聞いている。良せばよいのに武井が、浅太郎さんに向ってひと事言ったのである。

「おめーは、何処の者だ。この辺でデカイ面をして、うろつくのじゃねー」

 武井の言葉を聞くと浅太郎さんは、ベルトから二挺の拳銃を引き抜き武井目がけて引き金を引いた。弾は武井の肩に当たった。

「痛てぇー」

 武井は唐沢土手から転げ落ちた。一緒に居た安野祐次は、浅太郎さんをぐっと睨みながら、土手下に降りて転がり落ちた武井を背追うとその儘、騒ぎに気ついた人込みを分けて駅前の佐々木病院に武井を運んだ。その為に武井は一命を取り止めたのであるが、後年、安野祐次が死去した際に武井は通夜や葬式にも顔を出す事は無かった。日本一の貸金業者として株を上場する前の事である。深谷市を縄張りにしている大澤三金吾に話も通さず盗っ人寺(縄張りを持つ親分に話を通さず博奕を開帳する事)を取りその事が発覚した。盗っ人寺を取るという事は、縄張りを持つ親分を舐めている事に繋がる。武井が賭場を開帳し盗っ人寺を取った事は、町の人に人気がある大澤三金吾総長の耳に直ぐに入った。大澤三金吾は、安野達若い者を武井の家に行かせ攫わせた。殊勝な態度で座って目を伏せている武井に、大澤三金吾は渡世の筋道を語った。

「話を通せば博奕位、直ぐにやらせてやる。でも俺に内緒で賭場を開くという事は、八木田一家を舐めている事に繋がる」

「俺は、賭場なんか開いちゃ居ねーよ。渡世の筋位、俺だってしっている」

「この野郎。しらばっくれている。何時まで、しらばっくれる事が出来るか。根性を試してやれ」

 武井は直ぐに縛られ部屋の天井から、逆さ釣りにされて真っ裸の儘、陰部をライターで炙られ焼きを入れられた何分もしない内、武井は泣きを入れてしまった。

「助けて下さい。賭場で儲けた金は直ぐに持ってきます。勘弁してください」

「よし解かった。カスリを寄こすというのなら、勘弁してやれ」

*カスリとは本来、他人の縄張で賭場を開帳する時に、縄張りを持っている親分に何時何処どこで賭場を開きます宜しくお願い致します。と話をして賭場の上がりの三分位、納める事を言うのである。

鴨居から下ろされて武井は米つきバッタの様に、平身低頭をして、盗っ人寺を取ったことを認めカスリを持ってくることを約束した 処が、武井は街金の王にまで成り上がる男である。一筋縄では絶対に行かない狐のような狡猾さを持っている。

 八木田一家の事務所を出てから、その足で深谷警察署に飛び込んでしまったのである。この事件で八木田一家総長である大澤三金吾は、五年の刑を受け札幌から、青森と刑務所を務める羽目に成ってしまったのである。裁判中に保釈で出た大澤三金吾は、若い者に言い付けて武井を深谷町処払いにしたのである。

 その為に、武井は深谷町に帰る事が出来なくて、板橋に出て小銭を持っている女性と結婚をし、その小銭を元に十日で一割の俗に言うトウイチの金貸しになったのである。喜三郎や銀次は、武井の所に居て金が返せない人からテレビや布団までも持ってくる情け容赦のない役を遣っていたのである。

又、武井は金が返せない人妻には売春を強要し貸金の返済に充てさせていたのである。この様に悪辣な男が『武富士』の社長や会長をして君臨したのだから、佛教で言う因果律は信用できなくなる。但し、武井の莫大な財産は現在、雲散霧消してしまっている。唯、生前故郷の深谷市に途轍もない墓地を作り、自分の偉業を誇るように赤城颪が吹き荒ぶ中、世間の風当たりを一身に受ける様に屹立している。昭和五十年頃、喜三郎と銀次は武井と袂を分かち深谷に帰ってきた。武井の会社が大きく成ってくると過去を知る者が煙たくなったのである。

『狡兎死して走狗煮られる』と言えようか。

喜三郎は、焼き鳥屋を、銀次は共に『武富士』にいた斎藤実と深谷で貸金業をしていたが、斎藤が酒の飲みすぎで肝硬変で死去しこの貸金業は解散した。

彫福が、岡部の場外舟券売り場に行くと井野喜三郎は舟券片手に、テレビに映る舟を食い入るように見つめて勝負に熱中して熱くなっているという。

お互いに人生の甘いも辛いも味わってきたのだから、高校生の時のような純粋な気持ちで再会したいものである。