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保元の乱

 

保元元年七月五日、京中の武士の動きを停止する後白河天皇の勅命が発せられたのにも拘わらず、これだけの武将にそれぞれの郎党が従っているのだから平安京は蜂の巣をつつくような騒ぎである。

武蔵国からは岡部六弥太忠澄と父猪俣小平太範綱の他に、豊島四郞・安達四郞遠光・中条の新五、新六・成田太郎・箱田次郎・川上太郎・別府の次郎・奈良の三郞・玉井の四郞・永井の斉藤別当実盛・熊谷二郎直実・榛澤六朗成清・猪俣党からは岡部六郞・河匂の三郞・手墓の七郞・同じく児玉党からは庄の太郎、次郎・村山党からは金子十郞家忠・仙波の七郞・山口の六郞・錚々たる武将が源義朝の旗下に集まってきている。

出陣は保元元年七月十一日、黎明、寅ノ刻。義朝に付いて兵(つわもの)達は、義朝の父親である源為義の軍勢と対抗すべく大炊御門大路を東に進んで行った。

範綱は背筋を伸ばし、駒の手綱を軽く握りゆっくり軍の進行に合わせていた。轡を並べているのは倅の六弥太忠澄である。初陣であるので心持頬を赤く染めている。松明の明かりに照らされている事も原因ではあろうが、

「六弥太、源氏が源氏と平氏が平氏と親と子が敵見方になり、戦わなければならない複雑な世の中である。情は禁物存分に戦って見ろ」

「仰せの通り、吾には、ややこしきことは分からないが、分からない者程、物事を簡単に考えます。如何にして、源氏の御大将である義朝公が、父である為義公や叔父である鎮西八郎為朝公と闘う必要があるのでしょうか父上」

「貴族たちの宮中での権力争いの結果だ。この様に武士の力を利用して、自分たちの野望を遂げようとすれば何れ、貴族社会は終わる。武士の時代が必ず来る六弥太いざ心して掛れよ」

義朝の軍が動き出しても平清盛の軍勢は動きだしてはいなかった。新院の御所にも表れていない。二条大路を東に進んでいた清盛の軍勢は、道を南に取り、三条大路を東に向ってゆっくり進んでいた。三条の大路を東に行き加茂の流れを渡り、東岸を北に進み清盛の軍勢三百余騎は闇の中、加茂の東岸をゆっくり行軍していた。

 

一方崇徳方である源為義とその倅達は、稀代の強弓(つよゆみ)鎮西八郞為朝と兄弟で誰が先陣を取るかでもめていた。崇徳院は白河北院におわして為義は、頼長に白河院を守ることを進言していた。頼長は左大臣で藤原の氏の長者である。政治的な駆け引きは卓越しているが、戦となるとどのように戦ってよいか分からない。それでも戦に対しての意気込みは、優っていて到頭、緋縅鎧を身につけ崇徳院に物具を身につける事を進め奉った。

「何を思召され院が、物具をお付けに成るとは前代未聞あって、しかるべかざることと申し上げる」

 左京大夫の激烈な抗議の声が上がった。白の狩衣を着て緋縅鎧を着した頼長は次に、教長に物具を付ける事を進めた。

「左京大夫も亦、物具をお召参られ」

「何ゆえに武門でない吾らが、物具を着けなければならない」

大声を出して言う教長の声を押えるように頼長は一喝した。

「今宵一夜、崇徳院をお守りするのが吾らのお役目、そなたこそ何をほざいているのじゃ」

 この様子を冷えた眼で為義は見ていた。

(如何に足掻いてもこの戦は負ける。吾らは義朝が残れば源氏は安泰じゃ・・・)

清和源氏の頭領は摂関家に仕える源氏の不文律である。

源氏と源氏が、平氏が平氏と、親が子と、戦わなくてはならない状態で戦は始まった。

 

「そこから寄せる者、何れの手の者か、こう申すは六条判官為義四男、四郞左衛門尉源頼賢なり!」

西の河原から頼賢の先陣名乗りに応えた者がいた。

「こなたは、下野守の郎党。相模の国住人、山内須藤形部丞俊通が嫡子、須藤滝口俊綱なり!」

「いかにも郎党。これ成る我が矢は、汝辺りを射る矢ではない。大将軍を射る矢成り、いざ」

 頼賢はその儘、馬に尻に弓を当て流れの中に踏み込んで行った。郎党たちも頼賢に続いた。薄暗い明け方の陰に浮かぶ敵兵の姿。頼賢は素早く矢を番えると一矢を放った。続けざまに二の矢を放つと相手の駒が高い声で嘶いて、後ろ足で立ちあがった。

「頼賢。敵を討ち取ったり!」

義朝はこの声を聞き黒い駒の上に坐し、緋縅の鎧を着て頼賢の勝ち誇りの声を聞いていた。

「汝(うぬ)」

低い声で呟くと義朝は駒を進めた。

「お待ちあれ!」

 鎌田次郎正清が叫んだ。

「大将軍は動いてはなりません。千騎が百騎、百騎が十騎となり、十騎が五騎・三騎に成り始めて、御大将は自ら戦い給う、兵より先に敵陣に駒を進める大将軍などおりません」

 義朝の乳母子でもある正清のいう事は解っているが、義朝は駒を進めた。

 

清和源氏の兄弟が戦い始めた頃。平清盛は三百余騎を引き連れて、崇徳院が、おわします白河北院に向い加茂の東岸をゆるゆる北上していた。

清盛の軍勢が大炊御門大路の末にある北殿南面河原に近い西門に就いた時に、平家でもその名が高い伊藤武者景綱は駒を止めて叫んだ。

「大炊御門を塞がれているのは何人であろうか。源氏か平氏か。或いはいかなる土地の一党か、名乗りたまえ承らん。かくは申すは、今日の大将軍安芸守殿の軍勢、伊勢の住人古市の伊藤武者景綱五郞、六郞共々一番乗りなりー」

 闇の中から大音声が聞こえた。

「敵と思えば、敵にも能わぬ敵でござんなれ、この門は為朝が固めるなり、平氏の郎党ならば引いて退け!汝が主、清盛でさえ敵に不足、吾こそは、清和天皇九代の描裔。六孫王経基より七代、多田の満仲よりは六代の後胤。源頼信が嫡男頼義四代の孫。八幡太郎義家が四男、六条判官為義が八男なりー平氏の郎党辺りに引く弓はなし、放つ矢もなし、景綱とやら早々に退きおれ!」

 満面に怒りを湛えて景綱は番えた矢を放った。闇の中に飛んだ景綱の矢を練鍔の太刀の覆輪に当て為朝は軽々と打ち落とした。

「軽き矢風の心地よさよ!」

 

坂東武者の心意気は並外れていた。門の中に走り込んだのは、武蔵国住人中条の新五と新六、成田の太郎、箱田の次郎の面々と猪俣小平太範綱その子岡部六弥太忠澄である。初陣である忠澄は功を汗っていた。功を上げるために誰かいないかと、周囲を見回していた。その時、為朝の放った矢が忠澄の黒糸縅鎧の肩に刺さった。並みの矢力ではない。馬上で後部に反り返っただけで体制を整えた忠澄は、矢羽まで刺さっていた矢を自分の腕を後ろに回すと歯を食いしばり引き抜いた。

矢が飛んできた方向を見ると、馬上豊かに大弓を手にした源為朝が、忠澄を見て微笑んでいた。

「鎮西八郎為朝殿の弓矢もこれしきのものか、しゃらくさいわ。もう一矢ござんなれ!」

「そこなる若武者初陣であろう。初陣は誰でも強張るもの吾の一矢で正気に戻ったならば、他の敵を見つけ功を上げよ。わはっ、はっはっ」

 声のする方をきっと睨み、忠澄は黒龍に鞭をくれて走り出した。

 崇徳院が、おわします北白河院内を忠澄は、愛駒黒龍を駆って吾相手と相応しい敵将を探していた。すると前方に紺糸縅鎧を着けた味方の武将が、大鍬形の兜の上部を流れ矢に射抜かれて馬上から転げ落ちた。同時に面皰が外れて凛々しい紅顔が見えた。

(あれに見えるは鳩に寓生の鎧止めか。それでは熊谷次郎直実ではないか。吾より若くしての初陣、ここで死なせては坂東武者の名に拘わる・・・)

 忠澄はひらりと愛駒から飛び降りると直実の傍により、体を支えて抱き起した。直実は恥じる面持ち表して上目使いで忠澄を見た。

「吾を助立つはいかなる御仁であろうか。名乗りを聞きたい」

 大きく頷くと忠澄は、にっこりと微笑、直実の背中をぽんと叩き愛駒にひらりと跨り一鞭入れるとその場を離れた。

(○に十の字撥ね紋が裾金物にあるは岡部忠澄殿であったか・・・)

 この時、忠澄十七歳、直実十一歳の共に初陣であった。後年、共に源義経旗下にあって、一の谷で戦功をあげ名を高めた二人の初めての出会いでもあった。

 後白河方は清盛率いる三百四騎が二条大路を義朝が率いる二百余騎が大炊御門を義康率いる百余騎が近衛大路に向い寅ノ刻(午前四時)に始まった戦闘も崇徳方にいる。源為朝の獅子奮迅の働きにより清盛軍は有力郎党の藤原忠直・山田是行が犠牲と成り、義朝軍も五十名以上の死傷者を出した。

 攻めあぐねた後白河方は新手の頼政・重成・信兼を投入した。

「これでは負け戦に成る。何とか打つ手はないものじゃろうか義朝殿」

 丸い面立ちの清盛が、義朝を試すが如く問いかけた。

「この白河院北隣りにある藤原家成の館に火をはなてば、それに気を捉えられて崇徳方は軍が、乱れるのは必定」

「面白いではないか。直に家成の館に火を放て!」

 清盛の一声で松明を手にした郎党が、十数人走り動いた。

 直ぐに火の手が上がった。秋の平安京の都に吹く風は、比叡颪などと言われて風力が強い忽ち、火の手は広がり、崇徳方は混乱に陥った。辰ノ刻(午前八時)火が白河北院に燃え移り崇徳方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を抜け出して行方を晦ませた。

 後白河方は残敵掃討の為に、法勝寺を捜索すると同時に為義の住居であった円覚寺も約払った。

 後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時)頃までに義朝・清盛も帰参した。こうして後年、保元の乱と言われたこの戦いは終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都に逃亡した。

源義朝から、恩賞を賜った武蔵の兵(つわもの)達は京に数日いて各々自分が信仰をしている寺の本山に行き武運長久を願った後、崇徳上皇方を破り、後白河天皇の御代になったのを言祝いでいた。

関白藤原忠通や信西は、わが世の春が来たと考えたが、実際には藤原一族の時代は終わりを告げていた。

 

 

 

重忠推参

 

保元の乱が終結し四年が経過した秩父の山々が深紅に染まり、荒川の水面を染め水澄む頃。忠澄は親の範綱と筆頭郎党の塩谷七衛門常行と駒の轡を並べ、荒川の左岸の黒田から、畠山に向い荒川の浅瀬を探りながら渡っていた。秋の空は高く青が澄み切っているので忠澄は、駒上で空の彼方を眺めていた。

(良い気分じゃ。武士はこの秋の空のようにすっきり心が晴れていなければならない・・・)

忠澄が空を眺めている眼の前に鴨が、五・六羽飛んできた。自然に馬手(めて)が背中の胡簶(やなぐい)行き矢羽を摘まむと弓手(ゆんで)に置き弓弦を引き絞った。澄んだ秋空の中に吸い込まれるように、忠澄の放った矢は飛んで行き秋の空を飛んでいる二羽の鴨に刺さった。

「忠澄。見事である。先の戦以来、腕を上げたな」

 範綱の褒め言葉に酔う事は無く、忠澄は坦々としていた。

「先の戦では、鎮西八郎為朝公の強弓をこの眼で見ました。為朝公こそ、あらまほしき武士と言えるのではないでしょうか父上」

 先の戦場で狼狽えていたのを為朝が見つけ、正気に返らせてくれたことを忠澄は決して忘れなかったし、嬉しかったのである。

 川の中に落ちた鴨を常行が、拾ってくると一本の矢に二羽の鴨が、刺さっていた。

「丁度良い。重能殿への土産に成る」

ひとこと言うと範綱の駒は陸に上がった。続いて忠澄、常行の駒が、鼻を振るわせて小さく嘶くと畠山館は目の前にあった。

「重能殿。男(おのこ)が生れたと聞くが、これでお主も安心しただろう」

「然様でござる。坂東八平氏である吾秩父一族が吾の代で終わりに成ってはならない。だからこの子の生れたことは実に嬉しい。目出度い事じゃよ、範綱殿」

「お気持ちお察し申し上げる。ここにおる倅が生まれた時も重能殿と同じ思いを致したわい」

「処で範綱殿。忠澄殿は御歳何歳になったのじゃ」

「先の保元の戦が初陣で十七歳であったから、あれから四年じゃから当年とって二十一歳で御座る」

 肉付きの良いふっくらした顔の二重顎を引き締めて、重能が真剣な面持ちをした。

「吾が妾の楓が、今孕んでおってな。若しも女子(おなご)であったら、忠澄殿の嫁に如何じゃと考えているのじゃが、如何なものかな。忠澄殿」

 保元の乱で鎮西八郎為朝の強弓に射られてからというものは『武士というものは、弓が手練れであることは必須である』という事を実感させられたので、忠澄は岡部に帰ってきてからは脇見もしないで、弓の稽古をしているのである。従って女子のこと等、考えても見なかった。

父親の範綱の面を見た。範綱は頷きながら重能に応えた。

「好い話じゃのう。畠山氏と岡部氏が同族に成るとい事は、武蔵の平安の為にも、都に対しても立場が出来上がる。重能殿。未だ生れぬ先から約束をするのもなんじゃが、楓が産んだ子が女子であったならば、是非忠澄の嫁にして貰いたい」

「目出度い事ばかり続くものじゃ。吾畠山氏と岡部氏に弥栄がやってくるようだ」

「そうありたいものじゃな。重能殿」

「いかにも」

 三人共、都では、源氏と平氏の雌雄を決する戦いが始まろうとしている事を知らなかった。

 一刻(四時間)ばかり畠山に居て範綱と忠澄は郎党の常行を連れて夕日が将に落ちんとする荒川を渡った。左に見える猪俣党の本家がある陣見山が、深紅に染まり眩しく照り返していた。

(昇った朝日は夕方には落ちる・・・人間世界(武家社会)も上れば落ちる。落ちれば上るものなのか・・・)

 二十一歳の岡部六弥太忠澄の胸の中を誰が忖度で来たであろう。佛教が都を中心に徐々に広まり始めた頃。だれに教えて貰うでもなく忠澄は、先の戦から人の世の無常を肌で感じていた。

 荒川を渡り暫く行くと櫛引台地が広がっていた。

「この辺りは、栗林ばかりである。今年の収穫は如何なるものであるか」

 常行が範綱に応えた。

「お里良ければ山悪いと申します故、今年はお里が悪いようですから、山の物である栗は出来が良い様で御座います」

「なるほど、あっちが立てばこっちが立たず、天というものは、この地に均等を保ち偏らない様に仕組んでいるのじゃな」

「御意に御座ります」

薄暗くなった栗林の中を三人で通りながら、この様な話をしていると、前方に人影があり、一人の子を六・七人の大人が囲んでいた。

「何をしているのじゃ、常行見て参れ」

「承知して仕ります」

 常行が駒に一鞭入れて走り出した。人影が動いている方に行くと十歳位の子が、荒縄でぐるぐる巻きにされていた。

「如何したのじゃ、この子を荒縄でこの様に巻きおって、何かこれ成る子供が、悪さでもしたのか」

 子供を取り巻いている者達の主と思われる者が、常行を上目で見た。

「この餓鬼が毎日、ここへ来て袋一杯栗を無断で、持って行くのでございます。これでは岡部のお館様に庸(よう)を差し出す事が出来なくなります」

「そうか岡部のお館様に庸が差し出せぬか」

この時代は律令で決めた決まりが生きていて、租(そ)は稲・庸(よう)は特産物・調(ちょう)は布・雑徭(ざつよう)は雑用とされていた。

「お里良ければ山悪いと申しまして、今年はお里が悪いので租が十分収められないから、庸である栗で何とかお館に、ご承知をして頂こうと考えていた処で御座います」

「相分かった。その子供も戒めを解いてやれ!」

 いつの間に来たのか忠澄が大きな声を出した。慌てて常行は村落の達に申した。

「このお方は、岡部のお館さまで六弥太忠澄さまである。申し上げることを聞き戒を解いてやれ」

 村落の達は常行が言った事に驚き、全員が膝を折り土下座をした。

「この子は吾が預かって行く早く戒を解いてやれ」

 慌てた村人達が、子の縄を解いてやるときらきら光る眼をして、忠澄を見た。

(人品賤しからず相をしている。下賤の者の出ではないな・・・)

「そこなる子よ、名はなんと申すのじゃ」

「分からぬ」

「そうか分からぬか。己の名が名乗れないとは因果じゃのう。面白い。ついて参れ」

 その言葉を聞きつけた村落の者達が、腑に落ちない面持ちをしたのを常行が見咎めた。

「何事か不服があるのか!租や庸の事なら、後日、岡部のお館に来てお願い申し上げれば良いではないか。徳と義を重んじるお館様である。いらぬ心使いを致すではない」

 村落の者の主は、安心した面持ちをして地べたに這い蹲った。

「有り難きことで御座います。聞きしに勝るお館様。儂たちは、安心して御座ります」

 忠澄は子のきらきらと光る眼を見たまま駒を進めた。

「ついて参れ」

 子が付いてくるか来ないかを、後ろを向かず岡部の館まで来ると、子は付いて来ていた。

「おう。付いてきたのか。腹でも空いておろう。何か食べさせてやれ、常行」

 途端に子がにっこり笑った。

 この子が後の一の谷の戦で忠澄が平忠度に組み伏せられた時に、忠度の腕を斬りおとした郎党と言われることは、本人も忠澄も知る由が無かった。