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岡部六弥太忠澄の生涯

 

 

 

す  づ   し  ろ     の    さ  と        

清白の郷

岡部六弥太忠澄の生涯

 

六天 舜

 

 

 

 

 

 

 

 

初 め に

埼玉県深谷市に岡部という地区がある。この岡部に源平時代に生きた岡部六弥太忠澄という領民を労わり心優しき武将がいた。      

武蔵七党の猪俣党に属し、頼朝の挙兵以来、源氏の郎党として木曽義仲・一の谷・壇の浦と義経について戦い一の谷では、歌人でもあった平氏の大将・平忠度を討ち取り、後に供養塔を建立し情或る武将として、郷土岡部で語り継がれていた。著者としてもあの華やかな源平の時代に、斯くも、領民の事を思い自分に厳しく生きた岡部六弥太忠澄を掘り起こして、書かなくてはならないと言う使命感が湧いてきた。儒教すら学ばず自分の善性を信じて生きた忠澄に自然から学んだ悟りを感じた。

著者の持論である神や仏は何処にもいない。自分の心の中に鎮座しているそれは、野に咲く名もなき花の美しさに触れ感動する気持ちである。所謂、人間が本来持っている善性である。六弥太はそれを人に教えられずに自然から、会得した人物である。

書かなくてはならない。善性に目覚めた武将がどのように戦いに臨み日常生活をしたのかをである

六天 舜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清白の郷あらすじ

武士が未だ、荘園管理者の使用人であり、悪党と呼ばれていた時代に岡部六弥太忠澄は生まれた。子供の頃から正義感が強く小山川に生息する人食い大鯰を退治する。初陣は保元の乱である。戦場で狼狽える忠澄を鎮西八郞為朝が、肩を強弓で射ぬき落ち着かせ、今度は目の前で熊谷次郎直実が落馬したのを抱き起す。頼朝挙兵の時は武蔵七党を引き連れ頼朝が、鎌倉入りをする前に参陣する。人柄が良いので頼朝の警護を任され黄瀬川の戦の後は、頼朝と義経の対面に立ち会う事が出来る。その後、義経について木曽義仲の討伐・一の谷の戦いでは平氏の大将で歌人でもある平忠度を討ち取り、戦功あげる。

壇ノ浦の戦では、義経の傍にいて戦いを勝ち三種の神器探しに同船して八咫の鏡と八尺瓊勾玉を探し当てるが、天叢雲剣は杳としてわからなかった。

建久元年十月三日奥州征伐を果たした頼朝は、上洛した。

忠澄は畠山重忠と共に頼朝郎党として、先陣で源氏の白旗を掲げる重忠と共に京に入る。頼朝が天下人に成るのを見とどけ忠澄は岡部の館に帰る。ある日、岡部の郷にいて畠山重忠の妹で忠澄の妻でもある玉乃井と駒に乗り、領地を見回っていた。親が子を殺し子が親を殺すこの時代の無常さを玉乃井にきかせ駒を歩かせていた。畠には殺伐な武士の非情さを戒める様に、忠澄が領民の食べ物の糧となるように、郎党の小内面太郎広継に京都から運ばせて玉乃井に命じ領民に植えさせた清白(すずしろ)の白い花が小春日和の中、清々しく咲いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目    次

 

忠澄推参                    一

兵揃                      二

保元の乱                    三

重忠推参                    四

平治の乱                    五

澄綱初冠                    六

恋歌詠み                    七

人見五郞                    八

つわもの蠢動す                 九

頼朝と義経                                    十                     

朝日将軍                   十一.

宇治川                    十二

花や今宵の                  十三 

屋島                     十四

壇の浦                    十五

奥州                     十六

清白の花                   十七

忠澄推参

 

上野国と武蔵国を母親が子供を抱きかかえるように、赤城山が北方に屹立し、西には厳しく叱る父親のような妙義山。南西には兄のような親しみを感じる秩父連山が微笑んでいる、ここ武蔵国那珂郡猪俣(埼玉県児玉郡美里町)には、猪俣四代の子孫猪俣小平六時範が館を構えていたが、庶子である為に猪俣から岡部(埼玉県深谷市普済寺を中心とし菅原神社・岡部神社を囲む四百×四百メートル範囲)に移り館を構えた。

岡部小平六範綱は、山桜が春の風に散り始めた妙義山麓にある南牧に、郎党を三人連れて駒を駆っていた。霞む様に山々を薄紅色に染めている山桜を見て範綱は郎党たちに大声で言い放った。

「桜は散る風情が堪らない。咲いて直ぐ散るのが分かっていて咲く桜、坂東武者の心意気のようなものじゃのう・・・」

 範綱は南牧に黑鹿毛の名馬がいて、それが、春駒を産んだと耳にして、その春駒を手に入れたくて郎党の兵を引き連れ、南牧に向っていたのである。

 兵は範綱が騎っている駒が、並足に成ったので今まで駆っていた駒の手綱を引き範綱の駒に合わせた。

「お館様。都周辺では飢饉が続き食べる物がなくなり、貧民が溢れているとの事。それに引き替え、この武蔵や上野国は、地が豊かで都では食べる物がないというのに、こうして、駒を手に入れるために桜を眺めながら、駒に騎って南牧に向う事が出来ます」

「別に食い物がないという事じゃない。白河法皇が、やりたい方代の事を始めてからそのもの、平家忠守なんぞが、海賊で稼いだ珍しいものを運んで法皇を酔わせているから、藤原の公家どもが、それに習い贅沢ばかり始め民百姓から、絞り取っているからであるのじゃ」

 額に皺をよせ範綱が、自分に言って聞かせるように呟いた。

「本郷三郞国繁。八幡太郎義家様の清原清衡との戦以来、吾ら坂東の武者は忙しく成りそうじゃのう」

「御意に御座りますれば・・・」

 南牧(群馬県下仁田町)は、武蔵七党の中で最大の勢力を持つ児玉党の四方田太郎比呂綱が、支配していて猪俣党とは血縁で結ばれていたので範綱が、四方田館に行き春駒の生れたのを譲ってもらいたいと申し出たら、直ぐに快諾し、適当な時期を見計らい子駒を岡部まで届けると言ってくれた。

 児玉党は秩父・大里・入間及び上野国南部に勢力を拡大して、元々の姓の有道氏から、児玉氏・庄氏・本庄氏・塩谷氏・小代氏・四方田氏を名乗り、武蔵七党の最大勢力集団を形成していた。

「比呂綱殿。都の動きに何か変化はありませんかな」

 僧侶のようにして、髪の毛を剃っている比呂綱は咳(しわぶき)を一つし、て声を潜めて応えた。

「吾ら武蔵七党はいずれも平氏の出であるが、源氏の御大将様である義家様のご恩は忘れない。清原清衡との戦のおり蝦夷を征伐して帰った義家様に白河天皇は、藤原の公家らに唆され『蝦夷との戦は義家個人の戦である』と申され、一切の御恩賞を出さなかったことは勿論、存じているはず」

「それよな。義家様は吾ら蝦夷征伐に行きし武者たちに、自分の持っていた全ての財産を投げ出して、吾ら郎党に恩賞を下さりし、徳と義を貫いた源氏の頭領。幾ら吾らの先祖が平氏であろうが、源氏には御恩があり絶対に逆らえないのう」

この戦は後年、御三年の役と呼ばれ、清原清衡・家衡を破り永保三年(一〇八三)に義家が、陸奥守と成ったので、清原家の内紛に勝手に介入した義家の私戦と見做し、恩賞どころか、寛治二年(一〇八八)陸奥守を罷免されてしまった件の事である。

 私財を投げ打ってその戦に従った郎党達に義家自身が、恩賞を投げ打ったのである。

 武蔵七党は、この様にして常に、横の連絡を取り都の様子から、時代の流れを窺っていたのである。

 その晩は、四方田太郎比呂綱の南牧の館で範綱は、お互いの郎党と共に酒を飲み交わし語りあった。

 翌朝。妙義山に朝日が上がりかけた時、範綱は、比呂綱に暇を告げ、郎党と共に駒に鞭をくれ清冽な気が蟠(わだか)る南牧を後にした。

 

 

 帰りに猪俣党の館に寄り、榛澤まで来ると筆頭郎党の塩谷七衛門常行が、何か火急の事でもある様な面持ちをして待っていた。

「お館様。若誕生ですぞ。これで御家も安泰で御座います」

 範綱の室である八枝は、範綱の子を身籠り十月が過ぎても子を産むことが無かった。本人も不思議に思い範綱を始め一族郎党が首を捻っていたのである。

 常行など信仰深いから、十月経っても赤子を産まない八枝に対して、こう思っていた。

(これは、御前が信仰深く常日頃から、慈母観音様を信仰しているので、今度生れてくる子には、何か特別な仏の役割を申し渡されてくるので、今生に生れ出てくるのが、遅れているのだ・・・)

 範綱は嫡子が生れたことに対して喜びはしたが、心配そうに常行に聞きただした。

「そうか、生まれたか。して子は別状ないのか」

「何しろ、十六ヵ月も八枝様のお腹に落ち着いておりましたお子です。近くで若の産声を聞いた猫が、飛びあがりました程、元気なお子で御座いますれば、先ずは安心なされて戴きたいものです」

「ふーん、産声を聞いて猫が飛び上がったとな。いや元気なお子でなによりじゃ」

 急いで、館に帰り生まれた子を範綱が見ると、子は目鼻が地のはっきりした大きめの口を一文字に結んでいた。

「蘿蔔良いお子を産んでくれた。吾は満足じゃ」

 隣に生まれたばかりの赤子を横に置いたまま八枝が起き上がろうとして、腕で体を支えようとした時に範綱は、背中から抱きかかえ蘿蔔に向って、髭だらけの顔をほころばした。

 保廷五年(一一三九)後の岡部六弥太忠澄が、乱れたに乱れた今生に推参した時のことで、範綱も八枝もこのお子の誕生に期待をかけていた。

上野国と武蔵国を抱きかかえるように、なだらかな裾を引いている赤城山に見守られながら六弥太は、元気いっぱいに育っていった。

 そのような六弥太を見て父親の範綱は、満足をして見守り三歳で、駒に騎乗する事を許した。何故なら駒を自在に操れることが、坂東武者の第一条件である事と実戦で戦い勝つ為には、良い駒とその操り方が、生死に直接繋がるからである。

 六弥太は、四歳になると駒を駆って、近くの小山川を越えて利根川の水辺まで一人で行くようになった。

 時には郎党と駒比べをして、小川を跨ぎ、川や堤を飛び岡部はおろか、利根川を越えて上野国迄、行くようになった。

 学問は全く好きでなかったが、人の話は良く聞き一度聞いたことは、絶対に忘れたことが無い。

 

 七歳になった時、岡部館の周囲で奇異な噂が立った。それは、小山川で釣りをしている者や水辺で草を食む牛や山羊を化け物のような魚が来て食ってしまうという事である。特に、夜釣りに行った者は全員帰って来ない。

 蘿蔔の侍女である桔梗が、六弥太が愛駒「黒龍」の体を藁を束ねたもので拭いている傍に来た。

「若殿様。最近この近所の百姓たちが、怖がって行かなくなった場所があります」

「桔梗。そこは何処でどのような訳があるのか」

「なんでも、小山側の矢島に大鯰が棲んでいて、牛や山羊・百姓までおも飲込んでしまうという事なのです。だから、矢島に菜花や野蒜を摘みに行きたくても行けないので、今誰も近寄れず、皆困っているという事です」

桔梗の言うことを耳にした六弥太は父の愛刀伯耆康綱の太刀を腰に下げ、備前友成の鍛えた槍を手にして,愛駒「黒龍」に跨り小山川の水辺に向い黒龍に鞭を入れた。

 今では考えられないが当時は、自然環境が良く水も綺麗であったから、魚も大きく育つ、六弥太が耳にした物の正体は、百年程生きた「大鯰」(おおなまず)である。百年も生きた鯰は元来、口が大きいのに年月を経て人間を一飲みにしてしまう位、大きい口をして今までに何十人、何十匹もの百姓や牛・山羊が飲み込まれていたのである。

 小山川の水辺に佇み六弥太は水の流れを凝見していた。自然の流れとは違った動きがあれば何者かがいる筈であると思いながら・・・

 卯の刻から巳の刻の間、瞬きもしないで水面を凝見していたが、何の気配も感じる事は無かった。水面から眼を上げ赤城山の方を見ると今将に、夕日が山裾に入り込んだ時であった。

「ぱしゃん」

 と普通の魚が跳ねたのとは違う大きな音がしたので、直ぐに眼を水面にやると面の幅三尺もある大鯰が、浅瀬に顎を乗せ小さな眼を赤く染めて六弥太の方を見ているではないか。

 六弥太は急いで肩まで水の中に入り大鯰がいる浅瀬を目指した。大鯰は六弥太が近づいても眼を向けているだけである。

(この化け物めが、吾を軽んじているな。許すことはならぬ・・・)

 大鯰に一間まで近づくと大きい口を開いた。六弥太は備前友成の鍛えた槍をしごくと一歩・二歩近づくと同時に大鯰の眉間を狙って槍の柄頭から一尺も差し込んだ。槍が大鯰の眉間を突き抜けて川の砂利に当った。

「じゃりっ」

 と音が聞こえた時には大鯰は一間半もある巨体をくねらせて、尾で水面をばたばた叩いた。槍を左手に持ち帰ると六弥太は、腰に下げていた康綱の太刀を抜き、身をくねらせ尾をばたばたさせている大鯰の身に切りつけた尾の付け根から鰓迄、袈裟懸けである。大鯰は大人しくなったが、未だ、眼を六弥太に向けて睨み口をゆっくり動かしていた。

 大鯰を退治したと思うと今度は、小山川のせせらぎに大鯰の血が染まり、夕日がその紅を増幅させて流れる様子を見ていたら、何とも言えない情感が湧いてくるのが分かった。

(大鯰も人を食って悪い事をしていたのだが、生きているのだ・・・)

 そう思った瞬間、六弥太は太刀を翳して大鯰の眉間にもう一太刀きりこんだ。

 大鯰の血飛沫を浴びて真っ赤になった自分の面と衣装を洗う様に荒っぽく泳ぎながら岸辺に付くと待っていた黒龍に跨り一鞭くれた。

 この大鯰退治は、たちまち近在の者達の評判になり、母親の腹の中に十六ヵ月も入っていたことも含めて、小平太様の所の若は、鬼神の生まれ変わりだと噂をされるようになった。

当時は十歳ころから、十五歳ころまでには元服をした(現在の成人式)六弥太の父範綱は、六弥太が、他人の子供より発育が速いのを見守り、十歳で元服させる事にした。武家社会では元服をする時に烏帽子親を決めなければならない。特に武家は烏帽子親が誰であるかで重んじられる。

(誰を六弥太の烏帽子親にしたら良いのだろうか・・・)

 先ずは都の動性、次には武蔵国の動性、猪俣党や武蔵七党との兼ね合い。範綱が出した結論は平氏であるが共に、源義朝に使えている畠山重能が、烏帽子親に成ることで、六弥太の為にも猪俣党の為にも成ると考えた。

 畠山氏は坂東八平氏の一家で秩父氏の一族である。武蔵国男衾郡畠山を領し、同族には江戸氏・川越氏・豊島氏がある。東国武士同様、畠山氏も源氏の家人と成っていたが、源義朝が敗死すると平家に従い二十年に渡り信頼され仕えるのである。源氏に還るのは頼朝の挙兵からである。

 清盛の父親である平忠盛が、瀬戸内海の海賊を追討し終わり更に、諸国の海賊退治をやっている頃である。

 畠山忠能に烏帽子親に成って貰ったのは赤城山が深緑に蔽われて、深緑を潜り抜けてくる青嵐が木々の若葉が発する匂いを運び、鼻に清々とした気を感じせせる頃であった。

 子供から成人の着物に着かえて床几に座り、正面の一点を瞬きもしないで見つめている六弥太に忠能が厳かな声を出した。

「六弥太、本日から忠澄と名乗れ。岡部六弥太忠澄いい名じゃ、吾の名から忠に一字を与えたからには武門として恥ずかしことは絶対にするではない。分かったか」

六弥太が、無言で頷いた。

忠能は六弥太に烏帽子を被せながら、六弥太の顔をまじまじ見て感心するように何度も小さく頷いた。

「忠澄。これからは吾が仮親に成るぞ。何事があっても遠慮をしないで相談にこい」

「しっかと、心得ましてござります」

初冠(ういこうぶり)の儀式を済ませて烏帽子親である忠能が帰るというので、範綱と共に愛駒に乗り、並足で駒を並べていると六弥太が、初めて着ることに成った狩衣の袖が青嵐に吹かれて音を立て靡いていた。

兵揃

 

平城京では既に、近衛天皇が重病にかかっていた。後継者としては崇徳天皇の第一皇子、重仁親王が有力であったが、藤原忠通は美福門院の養子、守仁への譲位を鳥羽法皇に奉上して一旦拒絶されるが、崇徳院の院政を阻止するために忠通と美福門院は、守仁擁立の実現に向けて動き出していた。

鳥羽法皇が崩御すると摂関家の既得権争いと天皇の譲位問題が絡んで崇徳上皇と後白河天皇派に公家と侍が、それぞれの思惑と過去の義理から分かれて戦を始めた。

後白河天皇方、

 貴族

藤原の忠通・・・関白

信西

徳大寺実能・・・内大臣。頼長の室・幸子の父。守仁親王の東宮傳

武士(北面・検非違使・京武者)

平清盛・・・安芸守。伊勢平氏正衡流

源義朝・・・下野守。河内源氏

源義康・・・右衛門尉。足利氏の祖

源頼政・・・兵庫守。摂津源氏

平盛兼・・・和泉守。伊勢平氏氏貞季流その子平信兼

源光保・・・出雲守。鳥羽法皇の寵妃・土佐局の父。美濃源氏

源重成・・・式部大夫。清和源氏の満政流氏の弟源重貞

源季実・・・左衛門尉。文徳源氏(坂戸源氏)

平維繁・・・右衛門尉。越後平氏隠岐守。平繁賢の子

平実俊・・・前蔵人。多田源氏

清盛軍の武士

平重盛・・・中務少輔。清盛の長男

 平基盛・・・左衛門尉。清盛次男

 平頼盛・・・常陸介。清盛の弟

 平敦盛・・・淡路守。清盛の弟

 平経盛・・・清盛の弟

 平家貞・・・清盛の郎党

 平貞能・・・家貞の子

 平盛国・・・清盛の郎党

 平盛俊・・・盛国の子

 藤原景綱・・・清盛の郎党

 藤原忠清・・・景綱の子。伊藤五

 藤原忠直・・・景綱の子。伊藤六

山田是行・・・清盛の郎党

難波経房・・・清盛の郎党。備前の武士

妹尾兼康・・・清盛の郎党。備中の武士

義朝軍の武士

 鎌田政清・・・義朝の乳兄弟。郎党第一人者

 河内経国・・・義朝の叔父。後見人

 佐々木秀義・・・義朝の郎党。近江源氏佐々木氏

 山内首藤俊通・・・義朝の郎党。相模の武士

 山内首藤俊綱・・・俊通の子

 波多野義通・・・義朝の妻(朝長の母)の兄。相模の武士横山党

 海老名季貞・・・相模の武士。横山党

 大庭景義・・・相模の武士。鎌倉党

 大庭景親・・・景義の弟

 斎藤実盛・・・武蔵の武士

 平山季重・・・武蔵の武士。西党

 熊谷直実・・・武蔵の武士

*猪俣範綱・・・猪俣党

*岡部忠澄・・・猪俣党

 金子家忠・・・武蔵の武士。村山党

 河越重頼・・・秩父党

 師岡重経・・・重頼の弟

 千葉常胤・・・下総の武士

 上総広常・・・上総の武士。父常澄は義朝を養君として擁立

 八田知家・・・下野の武士。姉の寒河尼は頼朝の乳母

片切景重・・・義朝の郎党。信濃の武士

 海野幸親・・・信濃の武士

 根井行親・・・信濃の武士

 工藤茂光・・・伊豆の武士

 

崇徳上皇方

 貴族

 藤原頼長・・・左大臣。氏の長者

 藤原教長・・・左京大夫。崇徳上皇の側近

 藤原実清・・・左馬権頭。崇徳上皇の側近

 源成雅・・・左近衛権中将。頼長の室(師長の母)の兄弟

 藤原成隆・・・皇后宮権亮。摂関家の家司。頼長の父方・母方を通じての従兄弟

 源俊通・・・備前権守。摂関家の家司

 藤原盛憲・・・式部大輔。頼長の母方の従兄弟。観修寺流。上杉氏の祖

 藤原憲親・・・皇后宮権大進。盛憲の弟

 藤原経憲・・・蔵人大夫。盛憲の弟

 藤原家長・・・能登守。善勝寺流

 藤原保成・・・善勝寺流。崇徳上皇側近

 難波頼輔・・・山城守。教長の弟

 藤原資憲・・・皇后宮大進。

 源師光・・・皇后宮大夫。頼長の養子

 菅原登宣・・・給料文章生

 藤原重綱・・・前山城守

藤原俊成・・・図書允。頼長の側近

 武士

 源為義・・・前大夫尉。義朝の父

 源頼賢・・・前左衛門尉。為朝の四男

 源頼仲・・・為義の五男

 源為宗・・・為義の六男

 源為成・・・為義の七男

 源為朝・・・鎮西八郎。為義の八男

 源為仲・・・為義の九男

平忠正・・・前右馬助。清盛の叔父

 平長盛・・・崇徳院蔵人。忠正の長男

 平忠綱・・・左大臣家匂当。忠正の次男

 平正綱・・・左大臣家匂当。忠正の三男

 平通正・・・忠正の四男

平家弘・・・右衛門大夫。崇徳院の従者。伊勢平氏正済流

 平正弘・・・下野判官。家弘の父

 平康弘・・・大炊助。家弘の弟

 平盛弘・・・右衛門尉。家弘の弟

 平時弘・・・兵衛尉。家弘の弟

 平光弘・・・家弘の子

 平安弘・・・家弘の子

源頼憲・・・右衛門大夫。崇徳院の従者

 源盛綱・・・頼憲の子

 源為国・・・崇徳院判官代。河内源氏頼清流。信西の女婿。信州村上氏祖

 源信国・・・為国の子

源基国・・・為国の子

片切為重・・・信濃源氏片切氏

源親治・・・頼長の家人。大和源氏

多近久・・・崇徳院の武者所

秦助安・・・前滝口武者。頼長の家人

須藤家季・・・為朝配下。九郞

僧侶

信実・・・興福寺上座

尋範・・・法印。権大僧都。頼長の大叔父

千覚・・・権律師。頼長の母方の叔父