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お 静 の 意 地

 

嘉永三年十二月二十六日、国定忠次郎が大戸の関で磔刑となり未だ、忠次郎と高崎の草津街道宝積寺前で、末期の別れをした時の事が、眼と閉じると影絵のように、脳裏に浮かんできて寂しさに、眠れない夜が在った。

処刑された忠次郎を忘れるために、時々は一家の賭場に行き、貸元としての立場で、子分たちに渡世の事を、あれこれと教育をする。

栄五郎は、賭場の雰囲気が好きで、賭場に居る時だけは、寂しさや悲しさを忘れることができるのである。

賭場の澄んだ殺気が大好きで、心が洗われるような気がした。

嘉永四年二月、赤城颪が、頬を斬るように吹く夜、大前田一家の賭場が開かれた。

勇太郎も一端の貸元となり賭場を仕切れるようになった。大前田一家紅雲町下部屋の貸元である。名古屋から川越に連れてきた時は、未だ、二十一歳で初々しさが在った勇太郎は、苦み走った好い漢に成長していた。

栄五郎は、勇太郎の漢としての成長を喜び可愛くて仕方が無いようである。だから、自分が賭場に出て博奕を打って駒を上げ下げして、勇太郎の盆が上手くゆくように張り取しているのである。

「おい、この盆はおかしいではねーか?丁の連しか出ねぇ如何様が仕掛けてあるんじゃねぇだろうな」

咄嵯に反応した勇太郎が、いきなりその男に飛びつくと男は抵抗して、盆茣蓙をひん捲った。

盆茣蓙の上に張られていた他の賭客の駒札が音を立てて飛び散った。賭客は総立ちに成った。暫く勇太郎と取っ組み合っていた男は、勇太郎の若い者が五人ほど飛びかかり腕を後ろに捻じ曲げられて取り押さえられてしまった。

「一寸待て、その野郎を俺の前に、連れて来てみてくれ」

「分かりましたが親分。この野郎は、大前田一家の盆に、如何様だとけちをつけた野郎ですから簀巻きにして、利根川に放り込むしかないでしょう」

「分かっているが、見たことのない顔だ。意見をして返すことも漢としての度量だ」

男が、逆腕のまま栄五郎の前に来たので、若い者に手を放すように言った。

「手を放してやれ」

栄五郎の前に座った男を見た時に、栄五郎は他人では無いような気がした。顔も栄五郎の若い時にそっくりなのである。

(眼といい鼻といい口といい、儂の若い頃にそっくりじゃあねぇか)

栄五郎は男を諭すように言った。

「渡世人は、賭場を開くことにより食っている。その賭場を、如何様呼ばわりをされたのじゃあ食っていけない。だから、軽率にこの盆は、如何様だと言ってはならない。普通なら簀に巻いて利根川に放り込むのが渡世人の決まり事であるが、まるきりの渡世人でも無いようだから、今日の処は勘弁してやらぁー」

男は栄五郎に面と向かってはっきりした口調で言った。

「俺が悪いのなら情けはいらねーとっとと殺ってくれ」

(随分、腹を括っている野郎だなあ・・・儂の若い頃にそっくりだ)

「おい、何時でも殺してくれって言っても賭場荒らしは、簀巻きにして川に放り込むのが相場だ。第一お前―の様な野郎は殺そうとするとじたばたするのが関の山だ」

 栄五郎は、この男の腹がどこまで座っているかが知りたくなり言った。

「ふん、俺を舐めちゃあいけねぇぜ。お袋が死んで十三年、今は宮大工をしているが、毎日毎日死ぬのを覚悟して生きてきたんだ。貸元、能書きはいらねぇ、俺があんたの所の盆にけちをつけて、それくれえで生かすの、殺すのと言ってるんなら今、この場所でけじめを付けて死んでやらぁ」

 男は懐深くから拵えの付いたままの立派な短刀を取り出した。

 栄五郎はその短刀に見覚えがあった。忘れもしない尾張藩主徳川宗睦公から、名古屋の大火からお城を守った時に拝領したもので、名古屋から川越に戻る時に立ち寄った、桐生の佐羽清右衛門のところで奉公していた愛戸の又三郎の娘、お静と再会して子供の頃にあどけない顔で、大人になったら栄五郎の嫁になると言った事に頷いた事があり、一夜、褥を共にした時にお静に渡した『志津三郎兼氏』である。

(この野郎は儂とお静の子供か・・・)

 栄五郎は驚いた。この世の中に自分の分身がいることにである。とすると、この子の歳は二十六であると思い言った

「お前は幾つに成る?好い年をして何時までも粋がってるんじゃねぇぞ」

「俺は武州男衾の生まれで二十六歳だ、十三の歳にお袋が死んで、お袋の妹の嫁ぎ先の美濃の国、松枝村の宮大工、諸星仙太郎の所に行って養子となり諸星貞次郎と名乗っているんだ。貞次郎という名前は、死んだ俺のお父つぁんに、貞節を捧げるという意味でお袋が付けた名前なんだ」

 話をしているうちに、貞次郎もこの貸元の顔を見ていて、鋭い眼の中に宿る慈悲深い眸に親しみを感じ俺の親父もこんな人であったらいいなと思った。

栄五郎は、直ぐにでも傍に行き抱きしめたかったが、それはできなかった。この者は儂とお静の子に間違いないと確信したが、さて、如何する。

たまゆら思って栄五郎は結論を出した。

「勇太郎、この野郎を勘弁してやりな。それから、お前も熱田神宮の森で泣いていたのを儂が連れて来て育てた。この野郎には大分訳がありそうだから、今夜は儂の所に連れて来て寝かせるようにしてくれ」

 自分が熱田神宮の森で親に捨てられて泣いていた所を栄五郎が拾ってここまで育ててくれた事を勇太郎は絶対に忘れられない。

 勇太郎は、何だか訳がありそうな貞次郎に同情的になっていた。

「親分、この貞次郎とか言う野郎を親分の家に連れて行き部屋を用意すればいいのですね」

 栄五郎を見て、すっかり父性を感じてしまった貞次郎は、臨済宗円覚寺派・善昌寺の本堂の改築に来ている事を忘れて、この貸元とゆっくり話をしたいと思った。

 

栄五郎と一期一会の別れをしたお静は、三ヵ月後に桐生の佐羽清右衛門の御店を去って行った。

栄五郎との子供が、お腹に居る事が解ったからである。

(このお腹に居る子を、何があっても産んで育てよう。農家の畑の手伝いをしても、荒川の沢庵石を拾っても、やる気に成れば食べて行ける)

十月十日に成ると、お静は元気な男の子を生んだ。心なしか栄五郎に、眦が上がったところが似ている。

お静は嬉しかった。名前は、栄五郎以外の男は、絶対に近づけないとの覚悟を表す貞叔という言葉から貞を選び栄五郎に次ぐと言う意味で次郎を貞の後に付けて『貞次郎』と命名した。

貞次郎は、すくすく成長した。農家の手伝いの暇をみては、まだ三歳である貞次郎にいろはの文字を教えた。

貞次郎は利発で、覚えが良く五・六歳に成ると近所の年上の子供と喧嘩をして、相手に怪我をさせて相手の親から苦情が来ることが頻繁にあった。

(この子は、栄五郎さんに似ているのかしら、噂で聞いた事がある。栄五郎さんは子供の時に、火の玉小僧と言われていたという事を・・・でも、私は、貞次郎を渡世人にはしない。栄五郎さんのような心が優しくて、綺麗な人でも、渡世の為とやらを第一として、女の気持ちを知らぬ振りをする。貞次郎には、腕に職を持たせて、一人でも食べて行ける男にしよう)

お静程の器量の女を放っておく男は居ない。お静には、子持ちでも好いから嫁に来てくれという話が次から次へと舞い込んできた。

栄五郎との約束を十数年も胸に抱きしめて生きてきた女である。頑なである。如何に好い条件の話があってもお静は、頑として断り貧しくても、栄五郎の面影を胸に抱き貞次郎が居れば、これ程の幸福は無いと考えていた。

貞次郎は、十歳の頃に成ると、お静が手伝いに行っている農家の畑に来ては、お静の手伝いをして鍬を振るようになった。

お静も、少ない稼ぎの中から家に有る壷に小銭を貯めて、畑の一枚も買えれば、貞次郎と一緒にこの山川があって、平和な里で貞次郎が何かを遣りたいと言うまで、一緒に暮らすことができるという希望を持っていた。

そんな細やかな希望を持って生きているお静に、天は残酷である。褒美どころか、労咳という不治の病を与えた。

明るい性格で気丈なお静は、例え労咳に成っても、沈む事は無かった。貞次郎も近くの山に入り木天蓼(またたび)・くこ・山人参を採ってきて、煎じてお静に飲ませた。そのような状態になってもお静は仕事を休みはしなかった。

お静自身が死を覚悟した時、一人に成ってしまう貞次郎の身の振り方が心配なので、美濃の国松枝村に居る父親愛戸の又三郎の二番目の妹であるお夏の所に、文を書いて貞次郎のお静亡き後の身の振り方を託した。

天というものは残酷である。悪い事ばかりして、人を泣かせていても長生きをしている者もいる。小さな幸福を願って、慎ましく清く正しく生活をしている者にでも情け容赦ない。貞次郎が十三歳の年、白い木槿(むくげ)が農家の庭に、夏の暑さを忘れさせるように咲いている頃、栄五郎が愛したたった一人の女、お静は、静かに息を引き取った。

 

三 好 屋 の 若 旦 那 を 諭 す

 

前橋本町に『三好屋』という大店の若旦那で、博打が飯より好きな善太郎という、貞次郎と同い年の二十七歳の男がいた。大前田一家の若い者と仲が良く世間には、大前田の若い者と名乗っていた。

性格は目から鼻に抜けるほどの知恵が在り渡世人が持つ独特の暗さは、全くなかった。

栄五郎は、堅気の大店の若旦那が博奕ばかりしていたのでは、いけないと思い、何処かで会った時にでも、博奕を止めて家業に精を出すよう、諭してやろうと思っていた。

忠次郎が処刑されて、その寂寥感が晴れぬままに、今度は貞次郎と会ってお静の死んだことを聞き、募る寂寥感に、栄五郎は苛まされる訳では無いが、心晴れぬ日が続いていた。

 

嘉永四年、赤城颪が寒い夜の雨戸を叩く夜、現在、大前田一家の本部屋の賭場を仕切っている貸元駒形の米八から、使いの者が来た。賭場で三好屋の善太郎が如何様を遣り簀巻きにされるところであり、やったのが三好屋の若旦那である為、如何様(いかよう)に処分したらよいかと、栄五郎に指示を仰ぎたいとの事であった。

栄五郎は使いの若い者に怖い顔をして言った。

「家(うち)の賭場で如何様を遣るとは許しがたいものだ、儂が、好く言ってやるから家に連れて来い」

栄五郎の様子に驚いた若い者は慌てて返事をした。

「はいっ、分かりました。すぐ戻って米八親分に伝えます」

踵を返すと、急いで取って返した。栄五郎は、この際、三好屋の若旦那を脅して、この博奕の世界に近付か無いように、恫喝しておいてやろうと考えた。

暫くして、駒形の米八が、三好屋の若旦那である善太郎を連れて栄五郎の家に来た。

善太郎は、如何様がばれたので、どんな仕打ちをされるのかと、びくびくしていた。それを見た栄五郎は、善太郎を堅気の世界に戻す良い機会である。心を鬼にして諭してやろうと思った。

「善太郎。手前(てめえ)ぇは何て事をしたんだ。賭場の仕来りでは、如何様をした者は、簀巻きにして利根川に放り込むことに成っている。分かっているんだろうな?」

善太郎は、俯いて、小刻みに震えていながら蚊の泣くような声を出して言った。

「親分、勘弁してください。もう二度と如何様はしません」

「勘弁は出来ない。三好屋というものが在りながら渡世人の真似をして如何様をするという事が、どういう意味を持っているか分かるか」

善太郎は、普段慈悲深く物分りも好い栄五郎が、これほどきつい言葉を出して言うのには何か訳があるのではないかと思った。下を向いて畳の目を見ていた善太郎は、はっ、と思い栄五郎の顔を見ると、栄五郎は吊り上った眦を下げ、にっこりと笑った。

その顔を見て善太郎は全てを悟った。

「今後、決して賭場には足を入れません。家業に精を出し堅気として真面目にやって行きます。親分、御勘弁願います」

「善太郎、気が付いたか?堅気は堅気の仕事に精を出して一生懸命にやることが一番だ」

それを聞いて善太郎は考えた。親分は、私を堅気にしたくてきつい事を言っている。今まで渡世人に成ったつもりで、大手を振って賭場に出入りしていたが、あれは、間違いであった。

知恵の回る善太郎は、栄五郎がきつく言った事の意味を直ぐに理解した。

(よし、これは、俺に渡世に関係するなという事か。これを潮時にして真人間に成ろう。もう絶対賭場には、足を踏み入れないぞ…)

 

堅く心に誓った善太郎は、女房を連れて八王子に行き、裸一貫からの出直しを覚悟して、糸くずの仲買をしていたが、安政六年、横浜開港の話を聞くと博奕打ち根性というか、一獲千金の夢を見て、何でもいいから外人に売ってやろうと考え前橋に帰り生糸を集めて横浜に出て行きしな人の通訳を雇い外国人と取引をして、これが法外の値段で売れた。

この取引を通じて善太郎は、巨万の富を築き明治になり前橋に帰ってきた。実に善太郎が外国人と絹を取引したのが、日本生糸貿易の最初であったと言われている。

善太郎は、絹取引で稼いだ金を前橋市に寄付をして、県庁の誘致、学校の建設、橋梁道路の建設、善太郎が前橋市に出した金は莫大であり市制が敷かれるや初代市長となり『前橋の父』と呼ばれるようになった。市長となり一年と僅かである明治二十六年六月四日、

六七歳で急逝してしまった。それにしても、若し、栄五郎の戒めがなかったら、下村善太郎は一介の博奕打ちで終わっていたことであろう。

逸話をもう一つ紹介しよう。

栄五郎は、非常に質素で、綿服の他は着たことが無く履物は竹の皮の草履しか履かなかった。

諸事、世間に遠慮をしていた処が在り縄張りの中では決して、駕籠に乗らなかった。ある時、一寸した旅に出ようとした時に、子分が駕籠を薦めた。

「親分駕籠が用意してあります」

「馬鹿野郎、この儂が縄張り内を通る時、何時駕籠に乗った。お前は、何年儂の所に居るんだ。お前や儂が今日、何方様のお蔭で食って生けるんだ。皆堅気の旦那衆のお蔭だ。その旦那の通る道をこの儂に、駕籠で行けと言うのか?」

渡世人の立場を弁えて、堅気を大切にしている栄五郎である。

村の高札場がある裏を通り若い者が訊くと栄五郎は言う。

「儂は、人を何人も殺した重罪人である。それが堂々と高札場の前を通る訳には、いかねえよ」

この頃の栄五郎は、世の中の辛酸を舐めつくして、渡世人としての考えがまとまり、常住坐臥自然に振る舞っていても、人としても完成に近かったと言えたのである。流人生活、島抜け、兇状旅をしている内に、小林一茶・良寛様・合の川政五郎・天野海蔵・魯仙・徳川宗睦公・卍老人こと葛飾北斎・お静・松平直恒の他にも多くの人達との邂逅により渡世人として人間として、厚みや深みを増して行ったのである。

自分を識るという事は、大事であるが、その自分を日常の生活の中で、生かして行くことは、渡世人として人として生きて行くうえで最も大事である。

 

天 保 水 滸 伝

 

嘉永六年(一八五三)米国の東インド艦隊司令官ペルーが黒船を数隻率いて、浦賀に入港し米国大統領の親書を幕府に堤出して開国を要求した。

この頃、栄五郎は、下総の国に居た笹川の繁蔵と勢力富五郎の菩提を弔う為、飯岡の定慶寺に居た。

天保十五年は弘化元年で、『大利根川原の喧嘩』は、飯岡の助五郎と笹川の繁蔵が、清滝村岩井のお不動様の縁日の祭礼賭博のもつれが原因で始まった事である。

清滝不動の賭場の上がりは祭礼の正月・五月・九月で寺銭の上がりだけで千両も在ったのである。

もともと、この清滝不動尊の縄張は、清滝の佐吉のもので、二足の草鞋を履いた飯岡の助五郎がそれに眼に着けて、佐吉を捕縛させてしまおうか、殺してしまおうかと考えていた。

それを察知した佐吉は、当時、勢いのあった笹川の繁蔵の子分となり繁蔵の後ろ盾を最大限に利用して、佐吉の子分の小南の庄助・夏目の新助・万才の佐助と自分の縄張を守った。

しかし、この事によりもめごとが絶えず、笹川方は、助五郎を狙うようになった。

ある夜、助五郎が子分の一人に、寺銭を入れた銭箱を担がせて帰るのを見つけた清滝の佐吉は子分に言った。

「飯岡田圃の近くで待ち伏せをして、助五郎の野郎を叩斬れ」

「何人で行ったら良いですかい?」

夏目の新助が言った。清吉は暫く考えていたが、五・六人で行けば十分だろうと考え、新助に言った。

「腕の立つ奴を、五・六人連れて行け」

「承知しました。助五郎は、必ず殺ってきます、親分任せておいてください」

「油断をするんじゃあねぇ

ー生かしておくと助五郎は、二足だから面倒なことに成る。止めは必ず刺してくるんだぞ」

飯岡田圃の畦道に潜んでいると、子分に寺銭の入っている銭箱を持たせた助五郎が酒でも飲んでいるのか、鼻歌を歌いながらやってきた。

「この野郎、てめえみてぇーな者は、くたばっちまえ」

何人もいたんじゃあ敵わないと見て、銭箱を持っていた若い者は、一目散に逃げてしまった。闇夜だから、助五郎の顔が確認できなかったが、残った一人が助五郎に違いが無いと見て笹川の若い者は、肩から背中にかけて斬りつけた。助五郎は、斬られた拍子に、足を滑らせて田んぼの中に廻つくばる格好になり死んだ振りをした。

笹川の若い者は、清滝の佐吉に止めを刺せと言われていたが、助五郎は既に死んでいると判断をして急いでその場を離れた。

「親分、殺ってきました。今頃、助五郎は田んぼの中でくたばっていますぜ」

「好くやった。二足の草鞋を履きやがって、でかい面のしすぎだ。だがお陀仏に成っては、飯岡の助五郎もこれでお仕舞だ」

清滝の佐吉は、助五郎を殺らせる前に、止めを刺せと言っておきながら助五郎を殺ったと言う若い者の報告に、有頂天となり上めを刺したかと確認することをしなかった。

この事が、笹川の繁蔵と飯岡の助五郎・平手深喜(造酒)との血で血を洗う抗争が始まる事につながることに成るとは、清滝の佐吉も気が付かなかった。

処が、飯岡の助五郎は二足を履いて、御上の威光を嵩に着て渡世を執る位の狡さを持っている悪運の強い男である。清滝の佐吉の子分に、やられても生きていた。

助五郎が生きている事が、笹川の繁蔵の耳に入り繁蔵は、此の儘にしたら助五郎は、銚子陣屋の御用を務めているから、必ず何かの手を打ってくると考え先手を打って、助五郎を殺ってしまおうと思い飯岡に、身内の者を、侵入させ助五郎の行動を見張らせた。

天保十五年(一八四四)七月、助五郎が本宅に泊まったという情報が繁蔵の所に入った。

本宅に出入りをするのは、船頭と商人だけである。妾宅には、子分や用心棒まがいの者が寝泊まりしているので、助五郎を狙うのには都合が悪いのである。繁蔵は、勢力富五郎や用心棒の平手深酒等六人を連れて助五郎の本宅を急襲したが、助五郎は確かに本宅に来ていたがその夜は、泊まらずに帰って行った。目指す助五郎が居ないので、繁蔵たちは、腹いせに家を荒らして帰って行った。

この知らせを受けた助五郎は激怒した。すぐさま、銚子陣屋に行き、事のあらましを関東取締出役の桑山圭助に説明をして、笹川繁蔵の捕縛状を貰い、八月二日未明、笹川に乗り込む準備をした。

笹川繁蔵は、助五郎の来襲に備え数日前から根方西光寺に集まって、警戒に当っていた。

笹川繁蔵・勢力富五郎・平手深酒・夏目の新助・清滝の佐吉達二十人ばかりである。

一日・二日と待っても助五郎たちは現れないので少々気が抜けた感じで、勢力富五郎などは三日の未明などは、延命寺で相撲を取ったりして力試しをしていた。

飯岡の助五郎は、銚子陣屋の捕縛状を手にして、大義名分を持っての笹川繁蔵捕縛作戦である。利根川を舟で遡り、河原に上陸した。

これにより、渡世人同士の抗争が始まった。

勢力富五郎は、相撲上がりである。刺しては投げ刺しては投げ大活躍をした。

平手深酒は、労咳に蝕まれた体を、酒を飲んで誤魔化して斬って斬って、斬りまくった。

飯岡側に、死人は出るし負傷者も出たので助五郎は、撤退を子分に命じ、傷ついた者を置き去りにして、引き揚げてしまった。

繁蔵と富五郎達は旅に出た。旅中は、上州に来て大前田一家に草鞋を脱いで暫くいたのである。

だから、栄五郎は、下総の国の定慶寺に供養に来ているのである。

繁蔵は、弘化四年には、笹川に舞い戻ってきていたが、助五郎は見て見ぬ振りをしていて、繁蔵がお豊という妾の家に泊まりに行くのをじっと待ち、弘化四年七月四日の夜に、お豊の家に泊まりに行く繁蔵の後を追った成田の甚蔵・三浦屋孫次郎達が、媚薬橋の所で追いついて殺した上に首を斬り胴体は利根川に投げ込んでしまった。

助五郎は、成田の甚蔵たちの報告を聞き惜しい男を亡くしたと言って涙を流し首は丁重に供養して埋めたのである。

だが、笹川の繁蔵を闇討ちにしたと言う事実だけが残り飯岡の助五郎は、評判をすっかり落とすのである。

(繁蔵・富五郎迷わず冥土に行ってくれ。冥土から、これからの渡世を見ていてくれよ)

 

笹川の繁蔵は、文化七年(一八一〇)下総国須賀山村大木戸(千葉県香取郡東庄町)に生まれた。

生家は代々醤油と酢を業とした旧家であった。父は、嘉二郎といい、細面の才氏であったと言うから、繁蔵も父親似の才氏であった。嘉二郎は笹川が東庄三十三ヵ郷は勿論、干潟八万石と言われた香取の穀蔵を控えて、年貢米を運ぶ御用船や商船の船着き場として発展するという先を見越して、笹川に出倉を作り、安住するようにした。

岩瀬繁蔵が後に、笹川の繁蔵と呼ばれるのはこの為である。

繁蔵は、六尺近い大男で、力もあり草相撲を取っていたが、巡業に出ていた江戸相撲も千賀ノ浦に見込まれて、弟子入りして、四股名を岩瀬川と名乗っていた。

一年余りで相撲を止め、博徒となり香取郡小見川の仁蔵の子分となりその跡目を継いだのである。

 

飯岡の助五郎は、寛政五年(一七九二)生まれというから大前田栄五郎より一歳年上である。

相模三浦郡公卿村百姓次郎の長男として生まれた。

助五郎も大男で腕力が在ったので、相撲を志し、年寄友綱に弟子入りをした。助八という弟がいてこれも強く友綱が助五郎の噂を聞いてわざわざ公卿村にやってきて、一目で惚れこんで懇望したのである。

繁蔵も千賀ノ浦に懇望されて、力士に成ったのとだと、同じような事を言っているが、助五郎は友綱親方に弟子入りはしたが、一年後、友綱親方が風邪を拗らせて急死したのをきっかけに力士を廃業、海上郡飯岡町に流れて漁師に成った。宮本辰右衛門という網元の所に居たが年季明けの二十二・三まで住み込んでよく働く男であった。その後、銚子に行きある賭場で賭ける金が無くなり、自分の足を張ったがこれが裏目に出て、足を斬られようとした時、銚子の五郎蔵が助五郎の度胸に感心して子分にしたのである。

 

勢力富五郎は、香取郡万才村百姓半蔵の長男で文政四年(一八二一)の生れで、繁蔵より十一歳下である。大利根川原の抗争の時は、助五郎五十二歳、繁蔵三十五歳、平手深酒三十一歳、勢力富五郎は僅か二十三歳であった。万才村は、飯岡と笹川の中間に在り笹川延命寺境内にある富五郎の碑文によると『佐助と云い、膂力人に勝り角力を好み、勢力富五郎と称す』とあり十五の歳から相撲を取っていた。

富五郎は、大利根川の抗争後、暫く姿を消していたが、万才村に戻り繁蔵の死後、その縄張りを継いで支配した。

富五郎は、繁蔵の仇を打とうとして、報復の為、何度も飯岡に乱入するが、ことごとく失敗をして、ついに関東取締出役の追撃を受け、嘉永二年、金毘羅山で鉄砲にて自分の喉を打ち抜き自殺をした。

 

平手深酒は、大利根川原の抗争の時は三十一歳、刀を取っては並ぶ者が無い手練れの者であったが、多数を相手に刀が折れてしまい不覚を取ってしまった。神田お玉が池の俊才であったが、労咳に侵され酒でかろうじて、生命を保つ状態であった。

切り結ぶうち喀血して倒れ飯岡側が引き上げた時は、全身二十一カ所を斬られていた平手が竹藪の中に倒れていた。重症であるが一命をとりとめて暫く生きていたが、労咳を患った上に二十一ヵ所の傷では体が持つはずはなく死んでしまった。

 

引退する時は自分から退く

 

人の上に立つ人の出処進退(行蔵)に付いて言っている。

―進むときは人に推されて進み、引くときは自から以て引く―

国定忠次郎の七回忌も養寿寺の貞然と二人で懇(ねんごろ)にやり笹川の繁蔵・勢力富五郎にも上総まで行って線香をあげ栄五郎は、ほっとした。

実の子供である諸星貞次郎は、親としてその事実を教えずに養子にして田島家の跡取りにした。

田島貞次郎である。的屋には、親分の子供が一家の跡目を取るという不文律があるようだが、博徒である渡世人は、一家の実子は、後を取れないという不文律がある。

栄五郎は、若い者が皆一端になり、名のある貸元に成ったので、自分が居なくても十分やって行けると判断をして、引退をすることにした。

時代も明治元年と変わったところで、新しい時代に適応できる人材は腐るほどいる。

第一子分は全部貸元なのであるから、それぞれ一家を持っている。

大場一家・江戸屋一家・大久保一家・須永一家、大前田一家の各地に在る一家の貸元が全国に五百人もいたのである。大前田一家の縄張は広範囲にわたり、特に名古屋を中心に伊豆から東海地方武州・上州にかけてである。

栄五郎が縄張内を一回りしてくると、寺銭が千両と言われている。下野の縄張が五百両・桐生の権現山が三百両・瀬田辺りが三百両というのだから、大したものである。

兎に角、栄五郎の一家の収入は多く家には何時も子分が六・七十人は居た。この者達に食べさせるだけでも大変である。旅人もよく来た。その時は、草鞋銭十両と手拭一本を持たせてやったと言うから、その費用だけでも莫大である。

引退後は大胡の向こう屋敷という所の橋のたもとに、こじんまりとした家を構えて、妹なをの娘高橋なかという女性に面倒を見て貰い、枯れつくした梅の古木のように落ち着いた静かな余生を送った。

大胡の二本辻に出たが旅人の為にと、日光を教える石の道しるべを、自分で刻んで立てた。

自筆で非常に太い字で書かれている物が残っている。

明治七年正月風邪を引き、それが元で二月二六日八十二歳で、大往生を遂げるのである。

明治七年(一八七四)冬、長年に渡り躰を酷使してきたことが祟って、久八は病の床に臥していた。

二月上旬、上州から一通の便りがきて、大前田栄五郎が危篤であるのを知った。

(何があっても、上州に行かなければならねえ・・・)と考え、久八は子分が止めるのも聞かず、旅支度をした。

五人の子分を連れて、先ず東京に出た久八は、板橋から中山道を西上して深谷宿から中山道を逸れて中瀬村に入った。利根川を渡れば、上州佐位郡境村である。

駕籠に乗っている久八は、病人とは思えぬ張りのある声を上げた。

栄五郎は、己れの縄張り内を移動する際、絶対に駕籠に乗らないのを久八は知っている。

それ以前のこととして、尊敬する親分の住む上州に、たとえ病気であっても、駕籠を乗り付けることは、札を失すると考えている。

「止めろ!親分のいる上州に、駕籠を乗り付ける訳にはいかねえ。俺は此処から歩いて行くぜ」

そう言って、駕籠から下りた久八は、利根川の後方に、裾を引いて偉える赤城山に向って、両掌を合わせて伏し拝んだ。

(国定の・・・成佛してくんな・・・)

久八と忠次郎は大久保一家の花会と、大前田一家の葬儀の際に会っただけである。久八は忠次郎に、漢として渡世人として、同質のものを感じていた。

久八の己れの生き態に対しての厳しさと武闘派としての渡世は、栄五郎の胎蔵界曼茶羅より忠次郎の金剛界曼茶羅に属していると言える。

中瀬の渡しから舟に乗り平塚河岸で下舟すると、久八と子分達は赤城颪の吹き荒ぶ中、栄五郎の住む大胡に向った。

大胡の向屋敷と謂う所に橋がありそのすぐ近くに、こぢんまりとした家を構えて、実妹なをの娘なかに、面倒を見て貰いながら、栄五郎は余生を静かに送っていたのである。

正月に風邪を拗らせたまま、起き上ることができないでいた栄五郎は、久八が部屋に入ると起き上がって蒲団の上に胡坐を組み(どてら)を肩に掛けた。

「親分、久八が参りました。具合は如何がでしょうか?」

相撲取りのような大きな躰で、眇の久八は、神妙な面持ちをして栄五郎に訊いた。

「久八、好く来てくれたなー聞く処によれば、お前(めえ)ぇも具合が悪いとのことじゃあねえか。無理はしねぇでくれ」

「何を仰るのですか、親分。この久八の命は、四十数年前に親分から盃を戴いた時に、既に親分に預けた命です」

栄五郎は、すっかり鋭さが消えて柔和になった目元を綻ばせて、さも満足そうな面持ちをして喜んだ。

「お前は偉(えれ)ー漢だぜ、久八。儂はお前に盃を呉れてやり本望だ」

伊豆、東海道、伊勢路を勢力範囲として、並ぶ者のいない貸元に成長し関八州に侠名を轟かせた久八は、奢ることなく謙虚である。栄五郎八十二歳、久八六十二歳。それでも栄五郎は、久八が可愛いのである。

栄五郎は、久八を帰したくなかったが、長居をして栄五郎の躰に障ることを虞(おそ)れた久八は、四半刻(三十分)して辞去した。

久八は翌日も、四半刻ばかり栄五郎の家に行って、わざとたわいの無い話をして、栄五郎の気持を和らげた。

五日目の朝、栄五郎の家に着くと、栄五郎は昏睡状態に陥っていた。

枕元には、栄五郎の実兄で盲の渡世人要吉と大久保一家の栄作、それに江戸屋の虎五郎が、心配そうな面持ちをして座っていた。

暫くすると栄五郎が、切れ長の目を見開き目を動かして枕元に、久八と要吉、それに栄作、虎五郎がいるのを確認して自分の躰を起すようにと久八を促した。

久八と要吉が栄五郎の背中に手を差し入れて、栄五郎の躰を起すと栄五郎は正座をして、先ず、木綿の単(ひとえ)の寝巻の襟を整え次に、両手を横に広げて指で袖口を摘むと、ぴんと伸して居住いを正した。

「生に労(つか)れ死に息(いこ)えば、悲しみにおいて何かあらん・・・・・・あらうれし行先とほき死出の旅・・・」

親分に親分たる器の親分である大侠客大前田の栄五郎は、久八、要吉、栄作、虎五郎に見守られながら、明治七年二月二十六日辰の刻、その波乱万丈の生涯の幕を開じた。

戒名「勧広院徳寿栄翁居士」、行年八十二歳。

―あらうれし行先とほき死出の旅―は辞世である。

―生に労れ死に息えば、悲しみにおいて何かあらん―は、生きることに疲労しはてたなら、死の世界でゆっくり休めばなにもことさらに悲しみに沈む必要はない、と言う。栄五郎独特な渡世に対する強がりではなく気構えを感じる。

栄五郎の葬儀は、栄五郎の生家田島家と親戚である大前田村の萩原家を借りて執り行われた。

渡世人は疎か、堅気衆にまで慕われた栄五郎の棺に、焼香した者が三千人近くもいて、葬儀は三日間に渡って執り行われた。

栄五郎の危篤を知り、病身を押して上州に来て、栄五郎の死に水を取ることはできたものの、葬儀が終った時、久八の躰は限界を超えた疲労を感じていた。

大久保の栄作は、久八の様子を見て、その外の状態が尋常でないことを察した。

「兄第、折角、上州に来たのだから、伊豆に帰る前に暫く、俺の所に寄って行ってくれ。伊香保の湯は滅多矢鱈に躰にいいぜ」

栄作は昔、赤城の紫藤洞に籠る忠次郎に、子分の嬶(かかあ)に炊き出しをさせて作らせた握り飯二百個を、差し入れしたことがあるように、人の気持を慮(おもんばか)ることのできる、慈悲心の旺盛な心ある漢である。

久八の躰の状態を目の当たりにして、暫く伊香保温泉で静養して貰うつもりでいる。

「ありがとうよ兄弟。俺は早く伊豆に帰りてぇのだよ。伊香保には改めて来させて貰うぜ」

久八は、栄作の気持が良く判っている。判っているだけに、迷惑は掛けられないと考えていた。

(俺の命は、後僅かでしかねぇ。兄弟の所に厄介になっている内に、目を閉じることになったら迷惑を掛けてしまう。それはできねー)

栄作の勧めるのを振り切って、子分に支えられながら久八は、大前田を後にした。

久八は、己れで予期していた通り伊豆の間宮に帰り着く前に客死した。

行年六十一歳である。

兄弟分の伊勢古市の丹波屋伝兵衛に頼まれ、武州石原の幸次郎と血で血を洗う抗争をして、兄弟分甲州竹居村安五郎が島抜けをしてくれば、これを匿い恩人天野海蔵に頼まれて御台場工事に協力、参加し、そのお礼として海蔵の差し出した千両箱を受け取らず我が身の病を押して親分の死に水を取り葬儀に参列して栄五郎を黄泉に送り出し、伊豆に帰る途中、客死した久八の生涯は、己れというものが全く無いのである。

義に生きて、義に死んで行った久八は、漢の中の漢と謂えよう。

久八の生き態を煎じ詰めて渡世とは何であるかと語るなら、

『他人のために、如何にしてやれるか』である。

 

お わ り に

 

平成二十三年六月二十六日に、大前田栄五郎の生涯を書きはじめて二ヵ月漸く、八月二十六日に完結することができた。

この物語は、子供の頃。火の玉小僧と言われて、人を躊躇いもなく叩斬ってしまう栄五郎が、小林一茶、良寛さん、合の川政五郎、天野海蔵、魯仙、葛飾北斎、徳川宗睦、松平直恒たちとの邂逅で人間として成長してゆく姿を書きたかった。何所まで書けたかは、読者の感じるところである。

特筆すべきは、お静との出会いとその子供、貞次郎との巡りあわせ、渡世人という漢(おとこ)の世界に咲いた一輪の花である。

やくざは反社会的勢力と言われて久しいが、やくざも人で在る。人で在る限り悩みもするし恋もする。現在、やくざにも反省する部分は多くあると感じているが、この本のような心を、少しでも持って生きている者も居る事を忘れてはならない。

人間として生きる方法は、様々であり楽をして生きる事は自己を堕落させる。生きていて、楽な道と苦労が在りそうな道との岐路に立った時、苦労が在るように、思える厳しい道を選択できることが、人を人間として成長させるのである。

この本に書いた栄五郎という人物の生き方は、この厳しい社会情勢の時代に生きている人たちに、生きて行く上での道標。又は、一服の清涼剤に成ってくれれば、著者としても幸甚の至りである。

八 月 暑 雲 飛 不 散

木 犀 樹 下 立 秋 風

折しも中秋八月、署雲は去らず、むしむしと暑い最中であるが、木犀の樹下には秋風が起って、どうやら身にしむような気配がし、自然のめぐりが、全て取り上げた公案の意味を文明にしてくれたようだ。

二〇一二年八月二六日     夏山蒼翠にして滴る如き頃。    六 天  舜