盆暗



































天 保 七 年 の 大 飢 饉

 

大坂奉行所与力で、陽明学者の大塩平八郎に、先立つ天保七年、国定の忠次郎は、奥羽から始まった飢饉で、上州の百姓たちが、食う物も無く飢えているのを見て救済に乗り出した。

国定一家の手持ちの金と上州の三大尽からの協力を得て三百両の金を集め、米を買い難民に施米をしようとしたのである。

しかし、冷害の為に、米の生産が出来ないことから飢饉が起こるのであり米の価格は十倍に跳ね上がり金一両で米八斗。麦も二石三斗に価格が高騰していた。

忠次郎は、国定村の名主の叉兵衛と田部井村の名主右衛門に頼んで伊勢崎の米問屋から米を買い付けて貰う事にした。しかし、伊勢崎藩から米を売ることに対しての統制令が出ていて、幾ら金が有っても自由に米を買うことができない状態であった。

忠次郎から来の買い付けを頼まれていた名主の叉兵衛と右衛門は困ってしまった。金を預かったまま、米を買わずに忠次郎の元には帰れない。

「大前田の貸元の所に行ってみよう。何か良い知恵を貸してくれるだろう」

右衛門が言うと叉兵衛が同意して頷いた。

「大前田の貸元なら御上にも顔が利くし、この人の難儀を、手を拱いて見ている人ではない」

二人は、前橋の大前田一家に足を運んだ。普段、各地の義理ごとに、自分自身で回っている栄五郎は、幸いにして家に居た。栄五郎の部屋に通された二人は、米が買えない事情を説明した。

栄五郎は、腕組みをしたまま何か考えていた様であるが、腕組みを解くと、微笑を浮かべながら言った。

「分かりました。なるべく安い値段で、多くの米を出してくれるよう知り合いにお願いしてみますよ。三日待ってください。四日目にはお二人が伊勢崎の米問屋に行けば、お望みの米を出してくれるように、段取りはします。但し、この事は、御両人の胸に仕舞って置いてくれ、決して、この栄五郎がやった事であると言わないで戴きたい」

「大前田の貸元、よく分かりました。この事は、国定の貸元にも、言わない事に致します」

「それが好いそれが好い」

大前田一家を出て、叉衛門が右衛門に言った。

「国定の貸元もでっかいが、大前田の貸元は、それ以上にでっかいな」

四日目に、馬と大八車を用意して、伊勢崎の米問屋『越後屋』に二人が行くと一両で米が八斗の処が、十六斗も越後屋が寄こしたので驚いて仕舞った。

米を忠次郎の所に運んで行くと忠次郎は喜んで言った。

「俺が、この米を配ったのでは様に成らねえから名主が配った方が好い。早いうちにこの辺りの百姓連中に配ってやってくれ」

栄五郎が漢なら、忠次郎も漢である。この徳行を誇らない姿勢は、流石、栄五郎の所で漢の修行をした甲斐が在ったと言うべきである。

この頃、大阪では、大塩平人郎が飢饉の救済を大坂奉行に頻りに訴えたが、相手にされず、天保四年(一八三三)から始まった飢饉は、瞬く間に、燎原の火のように全国に広がり、米価の謄貴、農村の荒廃が甚だしく各地で一揆や打ち壊しが続発した。

国定忠次郎が、身銭を切って施米をしたのが天保七年、大塩平八郎の乱が大保八年、大塩の乱は幕府や大名が動揺する原因にはなったが、忠次郎のように慈雨にはならなかった。

しかし、この騒動で動揺した幕府は、天保十年幕政を批判したとして、高野長英・渡辺華山等をきつい処分にしたりしたが、高野長英は小伝馬町の牢獄に火を放って逃亡生活を続けた。蛮社の獄である。

天保十二年、老中水野忠邦が中心となり幕府・諸藩の改革を行い江戸幕府の政治改革では、風俗粛正・奢移禁上・物価引き下げを図り、人返しの法・株仲間の解散・上知令などを発したが、諸大名や町民・農民の反対にあって水野は失脚した。

諸藩においても藩債整理などによる財政改革や専売制などが行われた。

何しろ世の中が荒廃していた。職を無くしたものが多くは博奕に嵌り、末は博徒の仲間に成って行ったのである。

天保十六年(一八四四)上州各地で破落戸や渡世人崩れが糾合して従党を組み『世直し』や『打ち壊し』と呼ばれる暴動を起こした。特に上州は酷く、天下に人無しといったような傍若無人ぶりの暴行があって、各地で質屋・名主・大地主・商店が切り込み強盗や略奪、放火、家屋破壊により大きな被害を受けていた。中でも凄しいのが、『鬼辰』の異名で恐れられている一党の残虐さである。

鬼辰一党は、女子供であっても容赦なく切り捨て、

家の中に在る金目のものは根こそぎ持って行ってしまうのである。

鬼辰の事を耳にした栄五郎は、「馬鹿な奴め」と一言いって栄次と勇太郎を呼び鬼辰退治を命じたのである。

栄治や勇太郎も鬼辰の事は聞いていて胸を痛めていたので、喜び勇んで鬼辰退治の作戦を考えた。

鬼辰は榛名の山の中に隠れ家を持っていて、手下は二十人から居るとの事である。

早速、隠れ家の在り場所を何人かの若い者を使って探らせたところ、水沢観音裏の洞窟に居ることが分かった。

孫子ではないが 侵略すること火の如し、大前田一家の精鋭二十人を連れて、鬼辰の隠れ家である水沢観音裏の洞窟ヘ、素早く行った栄次や勇太郎であったが、既に鬼辰が、大前田一家が来ることを知っていて、隠れ家を赤城山に移していたのを気付かないでいた。

栄次や勇太郎は悔しがったが、鬼辰にとって、赤城山に隠れ家を移したことが既に、地獄行きの通行手形を貰ったようなものであった。

赤城山には、怒ったら鬼より怖い国定忠次郎がいるのである。

鬼辰たちが、赤城山の紫藤洞に隠れ家を移してかどわかしてきた娘と酒を飲み。わが世の春を謳っている時に、国定一家の貸元自ら、田中の定吉・日光の円蔵・板割の浅太郎・境川の安五郎や三ツ木の文蔵といった国定一家の暴れん坊ばかりが、鬼辰の居る紫藤洞に急襲して、鬼辰始め手下の者を容赦なく全員斬り殺してしまった。

「これで村の人が安心して眠れる。全員叩斬ってしまったから山賊はもう出ねぇぜ」

忠次郎が笑いながら言った。

 

国 定 忠 次 郎 捕 縛 さ れ る

 

嘉永三年(一八五〇)七月二十一日国定の忠次郎は禅昌寺裏の岩屋を出て田部井村のお町の家に行った。

お町は、兄の嘉藤太の家に行っていたので、嘉藤太の家に行き嘉藤太と酒を酌み交わしていた。戊ノ刻(午後八時)頃、お町と別室に行き寝ようとした忠次郎だが、突然、体が痺れ眼が据わり口から涎を垂らして倒れてしまった。

「親分。親分」

驚いたお町が狼狽して、大声を出して忠次郎の名前を呼んだ。お町の声が耳に入ったとみえて、忠次郎は、上半身を動かした。それを見たお町は、忠次郎の口の中に指を差し入れて、麻痺していた舌を引っ張った。それで忠次郎の涎は止まった。

お町の兄の嘉藤太は、跡目に成ったばかりの、境川の安五郎に知らせた。

安五郎は慌てて駆けつけてきた。忠次郎の状態を見た安五郎は、今は隠居をしている重兵衛と清五郎に、急遽、相談をして、忠次郎の体は田部井村の名主である右衛門の家に匿ってもらうことにした。

軽い麻痺を右半身に覚えた忠次郎は、倒れてから五日目には、右衛門の家の庭に出て、木刀の素振りを始めた。

十日、二十日と素振りを続けて居る内に、右半身の痺れは取れ、元の体に戻った。

日課に成った素振りを終えて縁側に座り汗を拭いている忠次郎に、大前田栄五郎から一通の文が届いた。封を切ってみるとそこには、こう書かれていた。

 

兄弟、体を悪くしたと聞いている。中風は不治の病で治りづらい。

漢が如何に中風であるとしても、いざと言う時、無様な身を晒せないだろう。

その時は、儂の舎弟として漢として潔く死んでくれ。

嘉永二年 八月 十五日

          田 島 栄 五 郎

田 島 栄 五 郎

御苗  長岡忠次郎殷

現在の忠次郎には、酷である様であるが、漢と漢同士の死に様を心得た者同士のみ許される愛情ある言葉である。

栄五郎からの文を読み終えた忠次郎は、心の中で、そこまで言い切ってくれる栄五郎の渡世人としての姿勢に納得をしたのである。

(薄情も情の内だ、その人の為を思って言いづらい事をはっきり言えるのも漢と言える)

しかし、忠次郎は体が恢復(かいふく)していた。安五郎に命じて、日頃から誼を通じていた世良田の幸助に関東取締出役の動向を熟知している木崎宿道案内人、左三郎と馬太郎、太田宿道案内人、苫吉への繋ぎを依頼した。幸助に世話料として一両・左三郎・馬太郎・苫吉にそれぞれ三両を幸助を通して渡した。

幸助は、左三郎・馬太郎には、三両ずつ渡したが、苫吉には一両しか渡さなかった。忠次郎からの賄賂が幸助に、猫糞(ねこばば)されたのを知り、苫吉が逆恨みをして、事の次第を廻村中の関東取締出役、中山誠一郎に申し出て、忠次郎が田部井村の名主右衛門の家に潜伏して居る事が分かってしまった。

忠次郎が発病して、三十二日後の八月二十四日、田部井村名主右衛門の家を、中山誠一郎とその手下の捕り方が急襲した。忠次郎は抵抗することなく捕縛された。

その場に居合わせたお町・お徳・清五郎と右衛門も捕えられた。忠次郎の弟友蔵と安五郎は捕り方の手を逃れて行方を晦ませた。

忠次郎の身柄は、中山誠一郎により、伊勢崎藩中島牢に預けられた。次に、身柄を玉村宿の三河屋に預け、八月二四日から江戸小伝馬町に移送するまでの間、中山誠一郎は忠次郎達の罪状を訊問して口書をまとめた。

十月十九日、厳重な警備に守られた忠次郎たち一行の目籠八挺は、中仙道板橋宿から江戸に入り、本郷通り昌平橋を渡り、神田橋御門外の勘定奉行、池田頼方お役屋敷に送り込まれた。

小伝馬町の牢に入って約二ヶ月、十二月十六日、既に、判決を受けている忠次郎は、破った関所で磔にされる為に江戸を発った。

右衛門は斬罪、清五郎は離島、お町、お徳は犯人隠匿罪だけであるから釈放されていた。

大戸に移送される時に、忠次郎は、勘定本行池田播磨守頼方に言った。

「磔を前にして一言お奉行に申しあげます。凡(およ)そ重罪を犯した者は、甘んじて極刑を受けるべきで、絶対に牢死をしてはなりません。私は牢死した数人の者と生活を共にしましたが、刑を恐れてか、近付く者に当たり散らして荒れ放題でした。それもこれも牢名主制度などという悪弊が在り、囚人は気持ちの休まる暇のないのが現状で、この世の地獄と言えましょう。どうかお奉行、牢内の悪弊を一新して、罪人がその罪を正当に贖えるようお取り計らい願います」

忠次郎の死を覚悟した言葉に、勘定奉行池田播磨守頼方は、大きく頷くと言った。

「そなたの言う事。この播磨相分かった」

渡世人を全うするために、木綿しか着たことが無い忠次郎に、死に装束を揃えたのはお徳である。

浅黄無垢、裏表とも無地の薄藍色二枚と白無垢一枚を重ね着をし、白の襦袢、白無垢の手甲脚絆を着け、中に綿の長い芯を入れて丸く作った丸絎帯を締めている。

駕籠の中で座る座布団が凝っている。唐更紗二枚に紅色をした一枚の座布団を重ねて、その上に首に大数殊を掛けた忠次郎が鎮座した。

特製の唐丸籠は、竹の面を取って目を荒くして、青綱を掛けてある。

忠次郎の冥土行のお供は、穢多頭矢野弾左衛門と非人頭の車善七の配下二百人である。それに関東取締出役や道案内人が加わると三百人近い行列になる。

一代の侠客・国定忠次郎の冥土行の陣容である。

中山道最初の宿場板橋で、お町とお徳の暇乞いを受けた。唐丸籠の前に躊躇いもなく近寄ってきたお徳は、お町を連れて最後の言葉を発した。

「忠次郎様。御暇ごいに参りました。必ず尋常に御上の御用に立って下さい」

姉御肌のお徳は上州女の典型ではあるが、それ以上の言葉を口に出すことができなかった。言葉を出すことにより、涙の堰が切れるのを恐れているのである。

既にお町は泣いている。お徳が芝居じみた言葉を言ったので、忠次郎は照れて仕舞った様である。

「あたりめぇだ。分かってらぁな。もう用はねえ、さっさと帰れ」

照れ隠しにか忠次郎は、ぞんざいに言い放った。

それにしても、お徳の口上は、忠次郎を一目見ようとして集った衆目を一点に集中させた名演技である。

忠次郎が、お町、お徳から目を移して前方を見ると、貫禄のある二人の渡世人が忠次郎を凝視していた。土支田の新左衛門と江古田の幸平、それに上万の亀吉である。

唐丸籠が三人の貸元の前を通り過ぎる時、目と目が合い、貸元達は一礼した。

忠次郎も応じて一礼した。言葉を交さなくても、漢と漢の思いは通じている。交した礼に万感の思いが込められている。

(土支田の、江古田の、上万の、ありがとうよ・・・)

三人の貸元は、忠次郎の乗った店丸籠が見えなくなるまでその場に立って見送っていた。

この日の泊りは、熊谷宿である.厳重な警戒の中『和田屋』の一室に身柄を移された忠次郎は、二人の異形の男に訪(おとな)われた。肌の色が黒くて顔が長く、鼻が天狗のように高いのが、穢多頭の矢野弾左衛門と名乗り、やはり顔が大きくて、月のように丸く、目鼻立ちがこぢんまりと付いているのが、非人頭の車善七と名乗った。

刑場の造設、刑の執行、罪人の押送は勘定奉行所の管轄ではない。穢多頭の矢野弾左衛門と非人頭の車善七の支配に属する。何人たりとも、これに容(ようかい)することは許されない。 従って、判決を受けた忠次郎に対して、誰憚(はばか)ることなく面会できるのである。

二人が部屋に入って来たので忠次郎は怪訝な面持ちをした。

「手前は、穢多頭の矢野弾左衛門と申します。これなるは、非人頭の車善七にございます。身分を弁(わきま)えず参上致しましたこと、お許し蒙ります」

「弾左衛門さんと善七さんですか、好く来て下さった。して、この忠次郎に何かご用でも?」

弾左衛門が意を得たという面持ちをして、口を開いた。

「先ずは、手前共の者で日光の円蔵が、貸元に一方ならぬ世話になり、大事にされましたこと、円蔵に成り代わりお礼申し上げます」

弾左衛門は、忠次郎に向って深々と頭を下げた。

「手前共の寅造も大事にして載きました。感謝しております」

善七も弾左衛門に倣って、深々と頭を下げた。

「何を言うんだ。俺はご両人に頭を下げて貰いたくてやっているんじゃねえ、一視同仁だぜ。大体同じ人間で、上下の身分があるのが気に食わねえ。こんなご時勢は長続きはしねえ。何時か、いや、近(ちけ)えうちに必ず終るぜ」

忠次郎の言葉を聞いて、弾左衛門と善七は、大粒の涙を零した。

(円蔵の謂うように、国定の貸元は情のあるでっかい漢だ)

弾左衛門と善七は、忽ち、忠次郎という漢に得心してしまった。

「貸元。実は円蔵は生きています。牢内や刑場のことは、手前共の支配下にあります。円蔵は牢内で病死したことになっていますが、それは身代りの者で、円蔵は今、長崎におり歯医術を習っています」

「おお、それは良かった。良かった。ありがとうよ。お頭」

嬉しくて満面に笑みを湛えて忠次郎は二人に言った。

弾左衛門と善七は、忠次郎の喜ぶ姿を目の当たりにして、己れの胸裡に清風が通り抜けたような爽やかさを感じた。

(こんな漢のためなら、命は要らないと子分は思うだろう・・・)

弾左衛門と善七は思った。

「貸元。冥土の旅の街道の入口まで、手前と善七、それに配下の者がお供させて戴きます。手前と善七は、一世一代の漢の花道と考えて、後世に残る行列を采配します故、何卒、万端お任せ下さい」

弾左衛門の申し出に、忠次郎は頷いた。

 

翌朝、唐丸籠が、中山道端の高城神社の参道前を通った時、いきなり二人の漢が近付いて来た。八木田の捨五郎と寺谷の善太夫である。

駕籠かき人足が魂消て、足を止めたのも意に介さず、二人の貸元は、唐丸籠の目と鼻の先に躰を寄せた。

「国定の、先に冥土で待っていてくれ、直に俺も寺谷も行くから・・・」

捨五郎は、言葉に詰って忠次郎の顔を凝視した。忠次郎が肯くと、捨五郎は口を真一文字に堅く結んで肯いた。次に善太夫が、唐丸籠の中に手を入れてきた。忠次郎は、その手を両の掌で掴んだ。善太夫の手は、その性格のように温かい手である。忠次郎が肯くと、善太夫も肯いた。二人が踵を返して、見物の群衆の方に戻ると、前方に饅頭笠を冠った憎が、唐丸籠に近付いて来た。

(あれは文殊院の頭取の、燿山さんじゃあねぇか・・・)

見覚えある燿山の容姿を見届けて、忠次郎は呟いた。

唐九籠に近付いて、忠次郎の顔をたまゆら眺めていた燿山は、徐(おもむろ)に口を開いた。

「幾回(いくたび)か生じ、幾回か死す。生死悠悠として定止(じょうし)無し」

永嘉大師『証道歌』の一節である。幾回か生じ幾回か死すと言うのは、必ずしも輸廻転生を謂うのではない。業力に拠り、嫌々ながら生死に堕ち込んだのと、願力に拠り、自ら生死に飛び込んだのとは違うことを謂っているのである。生死は菩薩の園(おん)(りん)なり、生死は菩薩の遊戯(ゆげ)場である。生死悠悠として定止無しは、別に嫌うものもなく、追いかけて望むものもなく、あらねばならぬように、行かねばならぬように、せねばならぬように、逃げ隠れも何もない流れに随(したが)って行くと謂う、生死に無理なく流れて行くことである。

「燿山さん、善く理解っていますよ」

忠次郎の言葉を聞いて燿山は、合掌して一礼した。

八木田の…寺谷の・・・忠次郎は、漢の世界に生きてきて本望だぜ・・・燿山さん、あんたとの邂逅は、忠次郎生涯の宝だぜ・・・」

 

十二月十八日、忠次郎を乗せた唐丸籠が上州高崎に入り、中山道を豊岡で左折して、草津街道を宝積寺の前に来た時、大前田の栄五郎が沿道の群衆の先に、大久保の栄作を連れて立っていた。黒い被布を着て、総髪が空っ風に吹かれて乱れているのを気にも止めず、悲しそうな眼差しをして、忠次郎を見ている。

悲しみに堪えているのか、口は一文字に堅く閉じている。唐九籠が栄五郎の前を通り過ぎる時、栄五郎の眸と忠次郎の眸が合った。栄五郎の眼は、今にも涙が零れそうである。

栄五郎は、もの心ついてこの方、泣いた覚えも、涙を零した覚えもない。その栄五郎が涙ぐんでいるのである。忠次郎は魂消ると同時に、忠次郎に対する栄五郎の思い入れの強さを感じて、心がうち震えた。

(兄貴…俺はあんたみてぇに生きたいと願って生きてきた。だが、どうしても、兄貴のようには生きることができなかったぜ。だけど、その場、その時、真剣に生きてきたことは確かだ。だから悔いはねぇよ)

生と死の狭間で生きている漢と漢には、以心伝心で伝わるものがある。

(兄弟、それで好いんだ。国定の忠次郎と言う漢の生()き態(ざま)を、篤(とく)と拝ませて貰ったぜ。好い生き態だった)

大前田の栄五郎と国定の忠次郎の、永遠の別れである。

神妙な面持ちで、栄五郎の傍に控えている栄作は、忠次郎が赤城山の紫藤洞に籠った時、握り飯を二百個届けてくれた漢である。人情の機微を解する漢である。

栄五郎と忠次郎の言葉を交わさない永遠の別れに、涙を零さずにはいられなかった。

空っ風が砂埃を運んできて、栄作の眼に入った。栄作は懐から手拭を取り出して目蓋(まぶた)を拭った。

 

二十日に三ノ倉を出発した、忠次郎押送の行列は、申の刻(年後三時)に処刑の地である吾妻郡大戸村に到着した。明日の処刑を控えた忠次郎の奪還を懸念して、厳重な警備の中、忠次郎は『新井屋』の一室に押し込められた。

就寝前に忠次郎は、矢野弾左衛門を部屋に呼んだ。何事かと思って部屋に来た弾左衛門に、忠次郎は言った。

「大戸の加部安の酒は、天下の銘酒だ。加部安の酒を一杯所望したい」

「承知致しました」

弾左衛門が配下の者に持って来させた茶碗酒を、忠次郎は息も吐()かずに一気に飲み干した。

「旨ぇーなー」

好い気持になった忠次郎は、微(ほろ)()い気分で布団に入ると、忽ち雷のような鼾をかいて、寝てしまった。明日、処刑される身と知りながら、その大胆さに、弾左衛門は肝を潰してしまった。

 

大戸村広瀬にしつらえた刑場には、忠次郎が磔にされるのを見ようとして、千五百余人の見物人が集っていた。

新井屋から刑場に引き出される前に、弾左衛門と善七が酒の入った徳利を抱えて忠次郎の所に来た。加部安の銘酒『大戸の露』である。勧められた酒を一気に呑み干して、忠次郎は口を拭った。

「上州の洒を飲んで上州の土となる・・・ああー好い気持だ」

善七が徳利を持って忠治郎に差し向けた、忠次郎は笑いながら左右に手を振って遠慮した。

「死に臨んで深酔いすることはできねぇ、忠次郎は死ぬ事を怖れて酒に紛らわしたと言われたくねえ死を前にして酒を飲んで酔うのは、死を怖れる者のすることだ」

と言って、善七の厚意に礼を述べ、茶碗には手を着けなかった。

善七の配下に引かれて、刑場に着いた忠次郎は、磔刑の為の柱に括り付けられた。

処刑人が目隠しをしようとすると忠次郎は、顔を左右に振り拒否をした。処割人が肯いて、磔刑台が冬の澄んだ上州の空に、高々と掲げられた。期から吹き荒れていた空っ風も止んだようである。

処刑場には、幕府から派遣された検死役人一名、関東取締出役三名が立会い、刀持ちを従えた弾左衛門、善七とその手代がいる。手代の下知に拠り、処刑人が槍を扱()いた。

「まあ待ちねぇー御役人方にお礼申し上げなくてはならねぇ」

微笑を浮べながら、忠次郎は処刑人を制止した。

「手前儀、悪業を重ねまして、国の見せしめとなってのご成敗と決まり有り難うござんす。お陰で小伝馬町牢内でも身持ち大切にできやして、斯様、天下のご法に叶うことに相成り天にも昇るような喜びにござんす」

と言い終ると目を閉じて、槍を持っている処刑人に向って〝さぁ突け〟と促した。

処刑人が一槍突くと、忠次郎は、かっと目を見開いて千五百余人の見物客を見回した。二槍目も同様、目を見開いて群衆を見回した。

三槍目からは群衆から槍の数を数える声が上った。その声は、忠次郎の不滅を願う願いの響きがあった。

「三つ!」「四つ!」「五つ!」「六つ!」「七つ!」

十二度目の槍まで目を見開いて群衆を見回していた忠次郎も、十三度目の槍で息絶えて瞑目した。

その時、刑場に一陣の風が吹いて、忠次郎の足元に落ちていた真っ赤な楓の葉を空中に舞い上げた。楓の葉は、冬の上州の蒼穹(そうきゅう)に、どこまでも高くどこまでも遠く舞い飛んで行った。