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文 政 七 年 の 大 花 会

 

天台宗星野山・喜多院は、八三〇年円仁が創建した関東における天台宗の中心であったが、荒廃してしまった。それを、天海が徳川家康に保護を受け復興し今は川越大師と呼ばれて、参拝者がひがさ絶えない。

その喜多院の紅葉や楓が深紅に染まっている秋、川越における大前田一家の花会は催された。

既に、文殊院の燿山との盃を交わして、燿山の一家名乗りが済んでいた。

栄五郎自身が花会の回状(ちらし)を持って挨拶に回ったので、大前田一家の川越に来て初めての盆開きと知り関八州はおろか東海道筋の貸元が大前田一家に陸続(りくぞく)と集まり始めた。この花会は、渡世人史上最大の大花会である。

因みに、大前田一家の花会に集まった貸元衆を紹介する。

 

 

江 戸

新門一家   町田辰五郎  浅草

落合一家   落合円次郎  広尾

幸平一家   藤沢幸平   牛込

屋根弥一家  安藤弥五郎  浅草茶屋町

上万一家   藤井亀吉   本所松代町

住吉鼻祖   伊藤与兵衛  麹町

出羽屋一家  山本作造   浅草田中町

平塚一家   木村市太郎  小石川

江 戸 府 外

土支田一家  榎本新左衛門 北豊玉郡成増

碑文谷一家  伊藤安太郎  荏原碑衾町

三本杉一家  和田政吉   瀬田村三本杉

 

上 州

香具屋一家  栗原弥七   館林

須永一家   藤掛釜次郎  桐生

太田一家   松本林平   毛里郡太田

福島一家   乗附の粂七  高崎堤が岡福島

川日一家   七朗左衛門  川田村利根川右岸

五町田一家  村上嘉四朗  伊香保

名 古 屋 東 海 道 筋

本願寺一家  源左衛門   名古屋

信濃一家   喜兵衛    名古屋

国領屋一家  中村周蔵

丹波屋一家  善兵衛    伊勢古市

大場一家   森 久八   伊豆

 

甲 州

三井一家   三井卯吉   甲府柳町

武居一家   武居安五郎  八代郡

信 州

合の川一家  高瀬政五郎  善光寺権堂

下 総

生井一家   幸野弥兵衛  下総古河

武 州

八本田一家  大槻捨五郎  深谷宿

寺谷一家   寺谷善太夫  忍藩行田宿

文殊院一家  松本燿山   野原、樋春・須賀広

(古い事なので、名前年に誤字がありましたら、御寛容の程を御願い申します)

 

大前田一家の花会は、酉の刻(午後六時)始まった。

この晴れがましい花会の中盆を務めるのは、月田の栄次で、介方は和太郎と勇太郎の二人である。

先ず、貸元でありこの花会の責任者でもある栄五郎が、中盆の相向かいの中央の貸元席に座り落ち着いた声で川越における大前田一家の盆開き即ち、花会の挨拶をした。

「本日は大前田一家の初盆花会に、お忙しい中、遠路よりお集まり下さり尚且つ、過分なるご祝儀を頂戴いたしまして、誠に在り難く厚く御礼申し上げます。お陰様にて斯様なる立派な花会が催され栄五郎生涯の誉れと思いおり皆様方に、心より感謝申し上げる次第で御座います。この度は、皆様のこの御厚情に報いるべく当家一丸となり渡世に驀直(まくじき)前進致します故、皆様方に於かれましては、今後共、御指導・ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。最後に、本日お集まり戴きました御一家御一門の益々の御繁栄とご発展を祈願申し上げまして、大前田一家初盆花会の御挨拶に代えさせて頂きます。本日は、誠に有難うございました。」

挨拶を終えて、貸元席を栄五郎が立つと頃合いを観て、中盆の栄次が一声を張りだした

「さあ、張った、張った、丁も半もどんどん張れる。さあ張った。さあ張った」

七間(十二・六メートル)の盆の立て盆には、住吉一家初代伊藤松五郎の親分の五十嵐徳次郎その親分の伊藤与兵衛がどっかり座り相向かいの立て盆には、信州善光寺の権堂の貸元である合の川の政五郎が、辺りを睥睨するように座っていた。

漢を売るのが渡世の最終目的である。その条件は多くあるが、賭場で張りっぷりの好いのも条件の内の一つである。

この盆に出た貸元達は、それぞれに、腕と度胸と気っ風で一家の主になった漢たちである。博打の事も良く解る。盆の上にはさくさくと駒札が張られていく片盆平均三百両の駒札が張られている。兎に角、是ほどの博奕は、二度とやることは出来ないであろう。

「二・六の丁、勝負ありました。合の川の貸元。百両うけました。どうぞ」

「はい 深谷の貸元が五〇両、文殊院の貸元が五〇両。竹居の貸元が三〇両です。寺銭は、天か切きりますから御承知ねがいます」

「丁と出ました。三百両落合の貸元の総取です。」

落合円次郎は、気分が良いので、寺銭の他に三〇両の駒札を介方に投げてやった。

一家をなす貸元達である。壺が伏せられてから時間をかけて逡巡する者はいない。賽の目には流れがあるのを知っているので、張った方に出なかったら仕方が無いと思いきるのである。

「勝負。さあどっちも、はいどっちも、張った。張った」

中盆の栄次と介方の和太郎・勇太郎の呼び込む声が賭場に響いた。

江戸の渡世人は、碑文谷・幸平・落合の各一家の貸元を始め、どの貸元も大きく張ってくる。大場の久八と竹居の安五郎は、兄貴分の盆を賑わせてやろうとして、出る出ないを度外視して万々(ばんばん)張ってくる。文寺院の燿山は、盆の初めから終わるまで眉一つ動かさずに坦々と張り取をしていた。八木田の捨五郎は、博奕を知っていて駒の上げ下げを上手にして遊んでいた。

二刻(四時間)を経過した頃、賭場は最高潮に達していた。

「盆中手止まり。半から三百五十両無いか。半から三百五十両で、丁度千両だ」

中盆の声が興奮気味に聞こえた。栄次でも片盆千両となれば、力が入らざるを得ない。

この様な勝負を手掛けたという事は、中盆を遣る身にとっては、誇りとなるのである。

「よし、三百両だな」

新門辰五郎が半から三百両を張った。

「勝負・・・半と出ました。新門の貸元おめでとうござんす」

このような調子で、約一刻半で大前田一家の前代未聞の大きい花会は幕を閉じた。

二十六家の貸元が勢ぞろいをした大花会になった。斯様な花会は、栄五郎が明治になり大往生を遂げるまでなかった。未曽有の大花会である。祝儀として百両・五十両の金が集まったのだから大変なものである。三千両の祝儀が上がり花会が終わった時に、栄次・和太郎・勇太郎若い者達で、花会で上がった金を数えて余り多くあるので驚いて仕舞った。

この当時の栄五郎は、如何に付き合いが広くあって徳を積んでいたので渡世人の間でも人気が在ったのが解る。

百両・五十両と言っても大金である。しかし、この当時の渡世人は、例え一家に金が無くても何とか都合をつけて、祝儀だけは届け義理を果たしたのである。

渡世の言葉に『立て引き』という言葉があるが、人を立てれば立てられる。という意味であり日常の生活でも金銭的な事でも立ててやってこそ人は立ててくれる。

また、立ててやったからとその気になって、優位に立った気持ちになってしまう者がいるが、この様な男は、『渡世の立て引きを知らない』とされて付き合う者は、居なくなってしまうのである。

三千両からの潤沢な資金を得て、大前田一家の勢力は朝日が登る勢いで勢力を拡大していった。

栄五郎を慕って子分になる者が多く来て関八州では押しも押されぬ一家に成った。

 

燿 山 忠 次 郎 を 連 れ て く る

 

川越に一家を構えても栄五郎は旅を続けた。伴は、勇太郎か一人旅が多かった。

旅をしながら渡世と言う道の神髄を求めていた。求道である。自隠禅師は言っている。

―動中の工夫は、静中に優ること百千億倍。

座禅で一日座っていても絶対に無の境地にはなれない。人間は体を静止していると心が動き体を動かせていると心は、止まっているのである。

好い例が、剣道・柔道は、体を動かさなくては出来ないし雑念があっては上達はしない。自分のやっていることに精神を集中して初めて上達もするのである。

そのように体を動かして、動かして、動かしぬいた状態を無の状態というのでは無いだろうか?

栄五郎は 神足と言われる位、足は速いのである。その足で一心不乱に歩くことにより自分の心の中の雑念は消えて行くのでは無かったのだろうか、早く歩くことにより心の中に在った諸々の雑念を打払うことができて、旅の宿に入った時は、精神溌剌(はつらつ)としたすっきりとした状態で居られたのであろう。

座禅をして無になったり空を感じたりして悟りを開いたという人たちがいるが、この様な人たちは、無・空・悟りを意識しているのだから悟っていないのである。悟ったという事は 第三者が観て使う言葉である。座禅で自分の成長の段階を示すなら気持ちの整理がついたとか、心の位置が少し上がったと自覚できるのが、本当の修行が出来ている人と言えるのではないか。

一年の内に最低でも六・七ヵ月は旅を重ねる。関八州はおろか、付き合いのある一家の義理には、自分自身で出向いて行くのが、栄五郎の渡世に対する姿勢である。

渡世を全うするために、歩いて、歩いて人生観を高く持って行くのは、栄五郎の修行でもある。

栄五郎の留守は、月田の栄次が代貸しとして、確りと一家を死守りしていた。

川越に来てからの若い者もだいぶ増えた。上州からも栄五郎を頼って、若い者が陸続と集まってきた。

部屋住みの若い者が三十五人居て、代貸しの栄次と和太郎・勇太郎が渡世人の心構えから、仕来りや挙措・不文律といった事を毎日の生活の中で仕込んで行くのである。

大前田一家の若い者はきびきびしていて、周りから見ていて気持ちが良いのはそういった教育が行き届いていた為である。

旅人が多く来て、一宿一飯の仁義を切り厄介にもなって行くのである。

仁義という言葉の語源は、仁義ではなく辞宜(じぎ)の転嫁である。相互に面識の無い者同士が、

最初の接触に際して、自己の所属集団等を紹介する仲間相互の対外儀礼をいう。

いずれにしても、未知者との遭遇と面接で人間関係の始まりを意味するのであるから、その内容は中世の軍陣における武名名乗りに良く似ているところがある。

栄五郎が川越に来てから三年の月日がたった春、川越街道の松の緑が目に染みるほど若緑色をした頃、大前田一家の入り口で、着物の裾を払い襟元を、正し裾を下ろして姿を整えた文殊院の燿山と眼光鋭く何者もよせつけない。といった面もちの青年が栄五郎を訪ねてきた。

国定村で二足の草鞋を履いて悪の限りをしていた山桜の鎌吉を一刀のもとに斬り捨ててきた国定村の忠次郎である。

国定忠次郎、本名長岡忠次郎は、上州佐位郡国定村に父親長岡与五左衛門、母親嘉津との間に生れた。母親の胎内に十三月期は入っていて生まれた時は、その鳴き声で家の障子紙が震えたというのだから生まれた時から元気が良かったのである。

忠次郎が、初めて人を斬ったのは、国定村でとぐろを巻いていた山桜の鎌吉という二足の草鞋を履いた御上の威光を嵩に着て婦女子はかどわかすは、村人の弱い処を探り恐喝はするは、気に入らない事があれば、暴行は加えるはで、悪の限りを尽くしていた悪党である。

本来、国定村の縄張は、百々の紋次のものであるが、渡世の筋も通さずに無断で賭場を開いていた。

鎌吉は忠次郎を敬遠していたのであるが、村人をあまり虐めるので忠次郎の堪忍袋の緒が切れてしまったのである。

 

拙書『命終わる時』で忠次郎が山桜の鎌吉を斬る場面があるので再現するとする。

 

三日目に、寅造は忠次郎の家に顔を出し、嘉津にお礼を言いそのまま畑仕事に精を出した。陽が西に傾いた頃、忠次郎の家の納屋で農具の手入れをしていた。すると腰に大脇差を差した忠次郎がゆっくり歩いて行くのが見えた。

おやっと思って注意してみると忠次郎は、何かに心を捕われているのか、全く気が付かない。

尋常ではないと咄嵯に判断した寅造は心配になり、忠次郎の後を付け始めた。

忠次郎は、腕組みをしたままゆっくりとあずま道を養寿寺の方に向って歩いている。養寿寺の和尚の所に行くのなら心配はあるまいと思いながら、後を付けて行くと、養寿寺を通り越し、六道の辻に出て左折して鹿島神社の方へ歩いて行く。

鹿島神社の手前には鎌吉の店である『山桜』がある。

寅造は自分で、危惧して居た通りになるのではと考え恐れを感じた。

(若旦那は、鎌吉を斬ろうとしている・・・)

そのまま後を付けて行くと山桜の前まで来た。しかし、忠次郎は足を止めず、ゆっくりと通りすぎた。寅造が、訝りながら後を付けて行くと鹿島神社の森に続いている橡(くぬぎ)林の前に出た。と、忠次郎は、さりげなく、左右に眼を遣ると林の中に入って行った。

辺り一面真っ暗闇である。それでも、手に取れる位の高さに星々が煌めいているので、眼を凝らすと人の顔は十分判別は出来る。何所かで夜烏が牛蛙のように重苦しい声で啼いている。暫く啼いていた夜烏の声が突然止まった。

ふと見ると男が一人田部井村の方から歩いてくる。どうやら、鎌吉の様である。田部井村に囲ってある妾の家からの帰りの様である。妾と楽しんで来たのかご機嫌が良いのであろう。足取りが軽い。軽い足取りで忠次郎が入って行った橡林の前あたりに来た時、星に反射してか、きらりと光った大脇差の切っ先が、鎌吉の顔の前に水平に突き出された。

鎌吉が魂消て声を上げようとした刹那、水平に突きだされた大脇差は引き戻されて、星の光に一閃すると釜吉のぼんの窪辺りに打ち下ろされた。鎌吉の首は、二尺ほど刎ね上がると、どんと音を立てて地面に転がった。

首のない体は、一歩・二歩・三歩目を歩こうとして、前のめりに倒れた。

忠次郎は、倒れた鎌吉の屍骸に近付くと屍骸の着物の裾で大脇差の血を拭って、星空に射すと小さく領いて大脇差を鞘に納めた。踵を返すと何もなかったかのように、腕を組んでゆったりとした足取りで元来た道を歩いて行った。

寅造は身震いがした。恐ろしいからではない。寅造のために鎌吉を斬ってくれた事と、その剣の冴えにである。

(若旦那は、尋常なお方じゃねえ。お不動様の生まれ変わりだ、この旦那の為なら命はいらねー)

 

国定忠次郎一七歳の時で、栄五郎は四十四歳である。文殊院の燿山と栄五郎の部屋に入った忠次郎に栄五郎は言った。

―子()の才(さい)を以(もっ)て、安(いず)くんぞ人に従うを用(もち)いん

お前の才能を以てすれば、人の子分になるべき人間ではない。という意味である。

忠次郎は、この時から数年して百々の紋次の跡をついで、国定一家を名乗るまで、川越の栄五郎の下で渡世人としての英才教育を受けるのである。

 

相変わらず栄五郎は旅を続けた。伊豆の舎弟分である大場の久八の所に行った時である。

久八は熱海の近くの間宮の生まれで間宮を拠点にして渡世をしていた。栄五郎が久八の家の栄五郎の居る場所と決めてある部屋に居ると隣の久八の部屋から話し声が聞こえた。

「それじゃ、獅子が嶽よう。お前(めえ)ーが投げ殺した野郎が津向の文吉の子分だったという事かい?だけどよう相撲でやっちまったんだからしょうがねーじゃねぇかよ、文吉もそれを何でお前を敵と狙うのだい?」

「少し前に、文吉から子分になれと言われたのを断っただけさ俺は、お前みてーに、大前田栄五郎さんの子分になりてぇんだ、この際、栄五郎親分に口を利いてくれよ」

大場の久八は、この三河生まれの獅子が嶽と仲が良くて、よく酒を飲む。獅子が嶽は荒っぽいが、好い相撲を取るので、贔屓にしており獅子が嶽も久八に懐いている。この際、栄五郎に口を利いてやっても良いと考えた。

「獅子が嶽よぉー口は利いてやるが俺に恥をかかせねぇでくれよ」

獅子が嶽は、久八の言葉に嬉しくなり大きな手で久八の手を握った。

隣の部屋で嫌でも聞こえるこの話を聞いた栄五郎は、二人が自分の部屋に来るのが解った。

久八は、獅子が嶽を連れてくると栄五郎に言った。

「実は親分、この相撲取りは獅子が嶽という心根の優しい男です。親分の盃を貰いたいと言っていますが、訳がありまして・・・」

「久八、悪いが話は聞かせてもらった。この獅子が嶽は、俺が預かろう、上州にでも暫くいれば、ほとぼりも冷める。その後だ、俺の盃を遣るのは、相撲で間違って人を殺したのとただ単に人を殺したのとは違う。だがよう津向の文吉どんの面子も、あるから東海道筋には、居ねえほうがいいだろう」

栄五郎と文吉では、貫録が親分子分の差が有るが栄五郎は、決して、無理強いはしないのである。

例え、貫録が下でも先ずは、立ててやることから始めるのである。渡世の立て引きということは、相手が目の前に居なくてもするものである。後の、江戸屋虎五郎は、こうして、栄五郎が引き取り後に、盃をやり大親分となるのである。