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禍 福 (かふく)

 

誰を対象にして、何処を回るか、生命保険や他の保険をどのようにして、契約して貰うか、静代は計画を練った。先ず頭に浮かぶのは、熊谷市で小中学校から熊谷女子高校時代の友人が第一に浮かんだ。次には、剛史が総合商社である『鷹エンタープライズ』に勤務していた時の友人・知人・取引先を、対象にしたらよいのではと考えていた。

 今日も午前九時に出社してから、車に乗って、熊女時代の同級生で、保険に入ってくれそうな友人を思い浮かべていた。国道一七号バイパスは、月曜日であるので、車は込んでいた。一七号バイパスを深谷方面に向かって走っていると左側に、小島クリニックという病院の案内が書いてある看板が眼に入った。

(そうだ。小島クリニックの塩野先生の所に行こう奥さんは、高校時代から仲良しの玲でもあるし、ゴルフも随分一緒にランドしたわ・・・)

 三四・五年前。熊女時代の玲の細身で、優しそうな微笑が眼蓋に浮かんだ。確か、結婚式も出席していると思い出しながら、車を左折して、深谷市の上柴町にある小島クリニックの前に着いた。

 塩野医師とも剛史が社会にいた時に共に、ゴルフを何度もラウンドした親しい間柄である。先ず、玲の夫である塩野医師に会って見ることにした。受付に行き塩野医師に面会を申し込んだ。十分も待たない内、診察室に通してくれた。塩野医師は、にこにこ笑って迎えてくれた。

「お忙しい所を先生すいません」

「心配していました。大沼さんが、あのような事になり僕は、現在の司法に疑問を呈します。人が殺されるのを見捨てれば法に触れず、人が殺されるのを助けたら法に触れる。惻隠の情という事が、裁判官にはないのだろうか。もっとも、僕は、親が法科に、入学しなさいと言うのを、人を裁くのではなく助ける方に、成りたいと思い医者になったのですから」

「大沼の事をそのように、言ってもらうと気持ちが和みます。何としても、わたしは、殺人者の妻というレッテルを張られた身ですから」

「静代さん。卑屈になっては駄目ですよ。貴女の事ですから劣等意識は、無いとお思いますが、人の命を助ける為に、結果的に殺人を犯したのです。その事が、悪であると思うと辛くなるばかり僕は、精神医療を専門に、やっている訳ではないですが、本当の悪いとか悪とは、己の心を顧みて悪と思えば悪。思わなくては、悪とは言えません。大沼さんは、決して悪い事をしたのではない。良い事をしたと思いなさい。それでなければやりきれないよ・・・」

 正義感が強く是非が、はっきりしている塩野医師は、憤懣(ふんまん)やる方ないと言う顔をして静代を慰めてくれた。

「ところで、今日は何か・・・」

「実は、今度、保険の外交員を始めました。田安保険です。今日が入社第一日です。先生と奥様に、お願をしようと思いましてお願いに参りました」

「解りました。静代さんの顔の立つようにします。僕たち医師だって保険会社とは切っても切れない縁もある訳だから、子供たちを生命保険に入れよう。この足で直ぐに自宅に行き玲と契約をしてください。僕から電話をしておきますから」

塩野医師の自宅に行くと塩野玲が、玄関の前で待っていた。静代が車から降りると昔と変わらない笑顔をして出迎えてくれた。

「お久しぶりー静代さんお元気」

「玲さん。わたしは元気よ」

「剛史さんの事を、先生と何時も心配していたの、漸く会えたのね」

「色々ありまして・・・」

「知っているわよ。今更、何を言っているの、さあ、早く家に入ってよ」

 家の中に入ると応接間に通された。応接間はドアの正面に、暖炉がありオニキスが張ってある壁の中央に、ケヤキで出来ている板に「眼横鼻直」(がんのうびちょく)と彫刻をして群青で文字を埋めてある偏額が掛っていた。

「玲さん先生は、坐禅をやるの」

「そうなのよ。休診日にゴルフに行かないときは、下仁田の奥にある南牧の黒瀧山不動寺に行って坐っているのよ」

塩野医師は、医学界でも肝臓、特に、肝炎の研究者で権威でもあるインテリだが、お高く澄しているところは、全くなく是非がはっきりしていて、ズバズバものを言う。そしてゴルフを同伴している時でも熱いところが有る。ゴルフのボールは、時々、曲がる事があるが、塩野医師の精神はまっしぐらである。

「確か、『驀直前進』(まきじきぜんしん)と言う禅の言葉が有ったわね。先生と話していると、この言葉を地で行っているように思えるわ」

「その事は確かね。散々ゴルフを一緒に、ラウンドしているから解るでしょう」

「去年。美里町のオリンピック円良田コースでは、オービーを三連発出しても未だ、懲りずに、ショートカットをしたのを見て、先生の凄さと言いますか、情熱といいますか、主人の大沼と二人で家に返り感心をしていましたの」

「凄い人ですわ。妻のわたしが、言うのですから本物ですわ」

 玲は何を思い出したのか、にっこりと微笑んだ。

「玲さん今日は、保険の事でお願いに参りましたの、主人が刑務所に入っていますので働かない訳には行きません。だから、熊谷駅前の田安生命に就職をしたの」

「先生から電話で指示を受けているし静代さんが、保険の外交員をしているのでは、保険に入らないわけには参りませんわ。ただし、私たちは、既に、千代川生命の保険に入っているから、三人いる子供たち全員に保険に入れるわ。契約書は持参しているのでしょう。サインでも何でも直ぐに、致しますからここへ出してよ」

 静代の出した契約書に、契約内容が微細に、書いてあるのを一切読まずに玲は、直ぐにサインをすると実印を押した。

「子供たちの保険は、一口三千万円位で結講ですから静代さんやりよいようにしてね」

「玲さん助かるわ。ありがとう感謝を致します」

「何を水臭い事を言っているの、わたし達は、熊女時代から仲良しの同級生ではありませんか」

子供たち三人を一律、三千万円の生命保険に入って貰い。後は、気心が知れた同級生であるので、同級生の話題を中心にした世間話に終始した。

 保険会社に勤務して初日に、併せて九千万円の生命保険を契約したことが、同じ外交員の妬みになる事は、静代は全く解らなかった。

 玲との話題は弾み、塩野医師の自宅を暇(いとま)する時は、晩夏の眩しい日が、寄居方面の山々に向かって落ち始めた頃であった。余りにも眩しいので一瞬、眼を細めて夕日を眺めると剛史の事が思い出された。

(あの人は今頃。如何して居るのかしら・・・わたしは、あなたには言えないですけど、保険の外交員として、頑張って生きています。わたしの事は心配しないでね・・・・)

 

会社に戻り、その日の契約内容を、営業本部長である覚田真理子に報告をした。同じ熊女の同級生でもある真理子は、懐かしがり玲の事を聞きたがった。

「玲さんは、元気だったの、私は、余り親しい交際が無かったけど何時も気にはしていたの」

「お元気でしたわ。相変わらず優しそうに微笑んでいましたわ」

「ありがたい事ね。同級生というものは、契約のことはとにかく、同級生と話していると子供の頃に、返れるし自分にもこのような純真な心が、あったのかと自覚できて嬉しくなるのね」

 人間は誰でも持って生まれた純粋性を秘めている。しかし、現実社会で生きて行くことは、その純粋性を傷つける。だから、洋服を着る様に、心の衣を身につけて自分を偽って生きている。

「それにしても、凄いわね。勤務初日で九千万円契約をしたことは、熊谷支社始まって以来の契約額だわ。わたしは、営業本部長として貴女を推薦したことに対して誇りに思うわ」

「そこまで、言われては、わたし何と言って好いのやら・・・」

「静代さん。ここは女ばかりの所よ。成績が上がると妬みが出てきて、貴女に対しての誹謗中傷が出てくることは覚悟していてね」

 外交員の契約高をグラフに書いて、張り出している事は、外交員の士気の高揚を図る為である事は間違いがない。実力によりその差は歴然とする。グラフが上がらない者は、僻みが出る事は当然である。

 現に、真理子と静代の遣り取りを女子プロレスラーのような巨体を持て余している先口美千代が、猪八戒のような耳を動かして聞いていた。

 美千代の営業成績は、外交員中、上位から十位前後に落ち着いているが、その巨体にものを言わせて、外交員仲間を仕切っているボスである。

 話をしていても教養の欠片も無いのか、話しの脈絡がなく何を言っているのか解らない。唯、自分の気に入らない者が、契約に成功すると糸のように細い眼でじっと睨むのである。そして、あることない事。社内に触れて回るのである。例えば、誰々さんは、体を提供して契約を取るとか、誰々さんの旦那は、元やくざであったとか、社内の誰と誰が出来ていて肉体関係にあると言ったようなレベルのものである。

田安生命の外交員の中で、契約率が良い順番に並べてみると教養があり美人で成績が抜群である中村絹江がいる。

次に、人の世話をするのが好きで静代にも講習で受けてはいない実践的なテクニックを教えてくれる。金井美子がいる。定年を控えているが、その容姿は衰えず社内外にフアンが多く居る。お酒が好きで佐野史江や小谷野歩を連れて退社後、深谷市内のスナック『虹』に飲みに行きカラオケで懐メロや秋元順子の歌を歌っている。

 佐野史江は、短い髪が良く似合う小柄の美人で四十歳代である。言葉使いや時々。脈絡のない言葉を口にするので、保険を勧誘する際。お客が戸惑う事もあるが、かえってそれが、史江の人の好さと滑稽さを出していて、お客は安心するのか契約が結ばれる場合が多く入社以来。契約髙が四位以下は下がった事が無い。

 小谷野歩は、ロングヘアーの良く似合う四十歳代で史江の同級生である。話し好きで、暇が有れば史江と喋っている。話し好きであるので話術が得意で、その話術を外交に生かしているから、契約も多く取れて常に、史江と二位・三位・四位の成績を競っている。

問題がある者もいる。成績は十位以上上がった事が無いのに、社内を女子プロレスラーのような体に、糸のように細い眼で周囲を見回しながら闊歩し他人の粗を探して、針小棒大に、専務や常務に営業本部長である覚田真理子を差し置いて告げるのである。外交員仲間からは、蛇蝎(だかつ)のように嫌われている先口美千代と言う大層な名前を持った意地の悪い女性である。

従って、佐野史江や小谷野歩は、年頃も同じくらいであるので、美千代が元暴走族で強面の存在であるのを知っているのである。

静代は、入社第一日目でこの美千代に睨まれてしまった。

(へん。何さ。この婆が上品ぶって一日で九千万円の契約を取ったとよー笑わせるんじゃない。その気になっていれば何時かは、この会社を辞めさせてやる・・・)

美千代は、細い眼尻を下げ薄い唇の両端を歪めて不敵に笑った。

美千代の笑いの先を予言するように、近くの欅の樹で蜩が、悲しそうな声で頻りに哭いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

看 守 暴 行 事 件

 

仙台の秋は、関東地方の冬と全く変わらない。舎房の窓の下でなく鈴虫や蟋蟀の声も頼りなくなり寂しさが、一層身に染みる。鈴虫や蟋蟀の鳴く声を聞きながら読書をするのが、この刑務所に来て剛史の至高の時間となった。

 剛史は原則的に、週刊誌とテレビは観ない。テレビの歴史ドラマを見ても時代考証が好い加減すぎて嫌になってしまうからである。

 同囚たちは、NНKの大河ドラマを見て物語の全てを信用してしまうのである。剛史は、NHKが政権と癒着しているのを知っているし、歴史にも一家言持っているので、同囚達が、NHKで放送しているのだから間違いがないと言っているのを聞くとメデアの力の影響と洗能力の怖さを感じてならない。従って、原則的にはテレビを見ない事にしているのである。

 八人房の中で鼾をかく者が三人いて新入当時は、気になってなかなか眠りにつけなかったのが、いつの間にか鼾が気にならなくなった。鼾も聞きようでは虫が鳴いていると思う事にした。

 

 翌日。朝の点呼が終わり舎房の前に整列をして、番号と取り軍隊式行進で六工場まで歩調を取り歩いて行くと通路の両端に、物々しく武装をした警備隊が、普段より間隔を狭めて立っていた。

 小声で何人かの者が言った。

「何があったんだ」

 小声で話したのを聞きつけた警備隊は、直ぐに、反則行為として小声で話した同囚を「無段交談」として連行して言った。

 誰しもが、警備隊の異常な警備と神経をピリピリした様な動作に、異常事態発生と感じた。第一顔を見たことが無い警備隊が多く居る。

 後で、解るのであるが、東北管区の刑務所から先発された警備隊達であった。

 事の顛末は、稲山会十王子一家の原塚という三十代の刑期を十五年ばかり言い渡されて服役していた規律違反の常習者がいた。あまり、反則が多いので刑務所側も手に負えず昼夜独居処遇にした。独居処遇になって独居のある五舎に行くとそこに、高校時代の後輩の相原という独居を担当している看守部長がいた。当然。話題に共通性が出てきて、看守も受刑者との会話を禁じられているのを承知で、看守対受刑者以上の会話をするようになった。毎日のことである自然に意志の疎通が出来て行った。

「おい。相原クリスマスが来るが、ワインか何か飲みてぇなー」

 原塚は、まさか、相原看守が真に、受けるとは思わなかった。

「明日持って来てやりますよ。先輩」

 ワインを持って来てくれるという事を期待して言った訳ではない原塚は、瓢箪から駒が出た気持ちになった。

「頼むぜ、相原。娑婆に出たら俺が、お前に、嫌になるほど酒を飲ませてやるし、女もマブイのを紹介してやるからな」

「頼みますよ、先輩。こんな処で働いていたのじやぁ女にもモテナイですから」

 このような調子で最初はワインから始まって煙草・携帯電話とエスカレートして、一年以上、原塚と相原の蜜月は続いた。

 原塚は、自分の隣房の者にも、相原から手に入れたワインや煙草を配り、独房である五舎の顔になった。しかし、受刑者側から見て良い事は、刑務所側から見て悪い事である。良い事も悪い事も長くは続か無い。三月末の移動で警備隊になった者が、遠慮会釈もなく原塚の房を、捜検査をして蒲団を広げたところワイン・煙草・携帯電話まで出てきてしまったのである。

 刑務所側は所長を始め管理部長・処遇首席・警備隊長たちがこの様な不祥事が起きては、出世はおろか、免職まであると考えて鳩首会談をした。問題は「刑務所側の落ち度は無い」という一点に絞った。

 結果、既に、刑務所側の協力者で面接にかかり出所を待つばかりの岩根人史に、この度のワイン事件の顛末を刑務主側の都合の良いように話して、週刊誌や新聞社に、リークすれば、明日にでも出所させてやると取引をして、メデアにリークさせたのである。

 この事件は、受刑者の原塚は、塀の外に出る事が出来ない。塀の外に出る事が出来る相原がワイン・煙草・携帯電話を塀の中に、持って来なければ何事も起らなかったのである。良く考えてみれば歴然として誰が悪いか解るのである。

 ちなみに、当時の日刊スポーツ新聞を見るとこのように記事が書いてある。

受刑者やりたい放題

職員複数をパシリ 飲酒 喫煙 携帯電話

宮城刑務所’(仙台市)に於いて収容者が、飲酒、喫煙、携帯電話使用等やりたい放題の獄中生活を送っていた疑いが強い事が十五日解った。酒・煙草・禁止品の持ち込みが発覚したのは今年三月頃だが、数年に渡ってとの情報もある複数の刑務所職員が「使い走り」として関与していた可能性もあり、法務省仙台矯正管区は内部調査をしている。

酒の銘柄を指定

酒もたばこも携帯もやり放題の獄中生活が営まれている疑いが浮上した。しかも、禁止品も持ちこみに職員が関与していた疑いが強く、内部調査が始まっている。持ちこまれた酒は、日本酒からウイスキーまであらゆる種類で、受刑者が指定していたと言う。仙台矯正局や宮城刑務所によると持ちこんだのは服役をしていた暴力団関係者とされるが、何人の受刑者が飲酒や喫煙などをしていたかは確認されていない。関与した職員の人数や、酒などが持ちこまれたルートについて、調査中という持ちこみの経緯について関係者は「受刑者が刑務作業の納期を守って欲しければ持って来いと要求し、職員が不況で減っている刑務作業の受注を案じたのがきっかけと話している。

 

この日からの警備隊の工場巡回が激しくなった。今まででも厳しいと剛史は、思っていたのである。

(刑務所という所は、看守にも受刑者にも社会の常識は全く通用しない場所だ。社会の常識はここでは非常識だ、刑務所側にも受刑者にも出来る事なら接蝕を持たないのが良いだろう。接蝕を持ちたくなくても先日のように加賀が、使嗾(しそう)して、森本や安川に因縁をつけさせる弱った事だ・・・)

 この日は、警備隊の巡回が一日十回もあり六工場では七名の者が摘ままれた。宮城では連行することを「摘まむ」と看守が言う。摘まむという事は虫などに対して使う言葉である。言葉一つをとってもここでは、人間扱いをされていない事が自覚できる。

 連行をされた理由も取るに足らぬことである。

 作業をしていた池田という六十代の者の前に、警備隊が立っていたのである。池田は警備隊に、五分も立たれていたので何事があるのだろうと思い顔を上げて、警備隊を見たのである。その途端。

「脇見だ。連行する」

 そこで池田が、怪訝そうな顔をして口を開いた。

「私は脇見などしていません」

「担当抗弁だ。脇見と担当抗弁二件の反則で、独居に連れて行くぞ」

 嫌も応も無い警備隊の厳しさに、歳を取った者や若い初犯の者はおぞ毛を振るった。刑務所は、所長に裁量権があり、その裁量権を看守が代行しているのである。高校を卒業して一般の会社に入社できないものが、刑務官は、国家公務員であるから食いはぐれが無いと考えて応募し簡単に、国家公務員になれるのである。従って、実社会で生活経験が薄く人の気持ちを慮ると言う人間として、持っていなければならない根本的な精神を持っていない者が多くいるのが刑務官である。酷いのになると刑務官に成る様な者は、学校で勉強が出来ず社会では、真面な会社に、入社できなかった劣等感が、受刑者という弱い立場にいる者を相手にしている内。優越意識を持ち受刑者の虐めに走るのである。

 同囚が朝、おはようと挨拶をしてきたのでおはようと応えたら「無断交談」警備隊が工場の鉄で出来ているドアを思い切りドーンと閉めたので、何事があったのかと見たら「脇見」宮城刑務所では、日光の三猿ではないが「見まい。聞くまい。話すまい」を徹底しないと工場にいられず独房暮らしになってしまうのである。

 工場内が戦々恐々としている中、剛史は、昼休みは鎌川と読書論議に花を咲かせ、この嫌な雰囲気から逃れた。

 午後は、一言も喋らず作業を続けて自分の身には、何事も起らず舎房に還る事が出来た。

 舎房の中は、加賀が主役となり酒・煙草・携帯電話事件に付いて、自分の想像を話して舎房の者達を感心させていた。

 剛史は鎌川に、紹介をして貰った塩野七生の「ローマ人の物語」カルタゴのハンニバルがゾウを引き連れてピレネー山脈を越えイタリヤ半島を目指しているところを読んでいた。

 消灯になり読書が出来なくなって、眠ろうとしたら加賀が、舎房の全員に言った。

「何で、パクられるか、解らねぇから、皆。注意をしてくれよ」

舎房の前のヒマラヤスギで鴉が寝惚けたのか、間延びした声で一声啼いた。

 

 

 

負 け な い 静 代

 

八月の保険の契約髙の成績順位は、一位が、中村絹江二位が、金井美子・静代は、第三位になった。佐野史江・小谷野歩たちもその後に続いて契約を結んできていた。問題であるのは、先口美千代が今までの定位置である十位を取れずに、十三位に転落した事である。

美千代は、自分が十位以下に転落したのは、静代が来て多くの契約を結んだので自分が取れなくなったと単純な脳で考えて静代を逆恨みした。

 自分の器量を知らない者は多く居るが、美千代は、典型的な視野の狭い独りよがりの女性である。

 早速。仕返しをしてやろうと思い。社内のリサーチ部門の統括である。杉浦洋太のところに行った。杉浦も物好きなところがあり時々、美千代と江南地区にある「レジャーハウス美松」に行き白昼の情事を楽しんでいるのである。

「統括。今日はどうです」

 美千代は、色気など全く感じない女性であるが、杉浦に細い眼でウインクをした。

「暇で参っていたんだよ。先口さん。例の所へ行こうか」

 美千代は、心の中でしてやったと思い返事をした。

 三十分後には、美千代と杉浦は「レジャーハウス美松」の天井に鏡が着いている部屋で抱き合っていた。

 愛というのか性欲というのか、二人の行為が終わり、太鼓腹を出して仰向けに寝転んで荒い息をしている杉浦に、美知代が鼻にかかる声を出して言った。

「貴男。御願いがあるの、聞いてくれる」

「何だい。愛する女性の言う事は何でも聞いてやるぜ」

「実は、今月から外交員として勤めている大沼静代のボロを探りたいの」

 杉浦は、驚いた顔をして美千代の顔を正視した。

「実は、その件については、営業本部長に依頼されて、彼女に対する情報は全部報告したよ」

「それで何という答えが出て来たのよ。貴男」

「この件については、営業本部長から絶対に口外しては駄目と口止めされているのだが、美千代のたっての頼みとあれば、この杉浦の重い口は、開かなくてはならないな」

 美千代の細い眼の中の瞳が輝いた。

「どんな秘密が、静代に隠されているのよ。早く教えて」

 杉浦は、体を起こしてベッドの上で胡坐をかくと口を開いた。

「大沼静代さんのご亭主は、殺人犯として現在、宮城刑務所に服役中だ。刑期は五年、正式な罪名は過失致死罪だよ」

 美千代は、重い体を弾ませて杉浦に抱きついた。

(これで、上品ぶっている静代を会社から追い出せる。わたしを舐めたバツは必ず受けさせるわ・・・)

恐ろしい女性がいたものである。静代は、美千代に好意は持っていたが、敵意は全く持っていない。

「レジャーハウス美松」から帰ってきて直ぐに、美千代は行動した。

美千代が可愛がってくれていると思っている専務の斎藤達也の部屋の扉をノックすると斎藤から声が掛った。

「先口さんでしょう。お入りなさい」

「失礼をいたします」

 大きな体を竦めながら、恐縮しているような仕草をして美千代は、専務の部屋に入った。

「今日は又、何か良い情報でも掴んできましたか」

「はい。専務、実は社内のことですが、今月入社をした大沼静代さんのことで、ちょっとお耳に入れておいた方が良いと思いまして・・・」

「如何したのですか大沼さんが」

「あの人のご亭主は、殺人で刑務所に入っているとの事です。わたしは、怖くて一緒にお仕事ができませんし、周りの仲間も怖がっているのです。それで何とかして戴きたくて専務にお願いに参りました」

 専務の斎藤は、普段からお喋りの美千代を、人間的には嫌いであるが、社内の情報を素早く聞いて持ってくるので重宝がって使っていた。今日も厭な事を聞きつけたなと考えながら、うわの空で美千代の言う事を聞いていた。

「それは大変な事ですね。どうしたら好いのでしょうか」

「専務。首にしないと田安生命に、傷がつきます」

「解りました。どうなるのかは、解りませんが、一応社長の耳には入れておきますよ」

 美千代は心中でしてやったと思って、専務の斎藤に、大きい体を二つに折り深々と腰を曲げ挨拶をした。

「専務ありがとうございます。今度又、何かありましたらご報告いたします」

 丁寧に、専務室の部屋の扉を閉めると美千代は、いそいそと廊下の隅を歩いて、エレベターに乗り営業部の部屋に帰って行った。

 

翌日。出勤をすると佐野史江と小谷野歩を自分の傍に呼んだ。

「二人共。良く聞いてちょうだい。大沼静代さんのご亭主は、殺人者です。その事をよく踏まえて親しくしては駄目よ」

 細い眼を更に細くして、威嚇するように美千代は言った。

「美千代さん。大沼さんが、殺人を起こしたわけではないです。貴女も含めてここで外交員をしている人は、誰でも人に言えない過去を重く背負っていると思いますが」

 美千代が、若い頃。暴走族で少年院に入った事を知っている史江は、納得がいかない顔をして、美千代に言った。

「何を言っているのよ。今更、昔のことを言うよ。大事であるのは現在のことよ」

美千代の粗暴性があるのを知っている史江は、美千代の一喝で口を噤んでしまった。

「歩。史江二人共、貴女達解っているのでしょう。大沼さんとは付き合っては駄目よ」

 不肖不精二人は、美千代の過去を知っているだけに、頷いてしまった。

 美千代の性格はしつこい。次は、誰の所に行ってこの事を話せばよいか考えて、営業本部長の覚田真理子のデスクの前に行った。

真理子は、にこにこ笑いながら美千代を迎えた。

「美千代さん。今日は何か特別なご用があるの」

 営業本部長として、保険会社の経営の業績に一番関係が深い外交員を束ねている覚田真理子である。美千代が、何を自分に言いに来たのかは解っていた。

(困った人。先口さんは、ここの外交員の中の獅子身中の虫だわ。何か失敗をしたら解雇してやるわ・・・)

 そのような事を真理子が、考えているのも知らずに、美千代は周囲を見渡しながらデスク越しに、真理子の耳に口を近づけた。

「本部長。大沼静代さんのご亭主が、殺人者であるという事を知っておりますか」

「解りません。個人の誹謗中傷は、社内では禁止されている筈です。貴女。ご存じないの。第一どのような人間にも第三者に、触れて貰いたくない過去があるはず。まして、大沼さんは、自分で何をしたという事ではありません。貴女も他人のことを心配しないで今月は売り上げも落ちているでしょう。少し気合を入れて頑張らなければいけませんよ」

 美千代は、静代の事を話しに来て、自分の成績が落ちたことを言われ藪蛇になってしまったと考えた。

「すいません。わたしが、勧誘に行く先々に大沼さんが既に行って、契約を取ってしまうのです」

真理子は、薄笑いを浮かべて美千代の眼を見ながら口を開いた。

「はっきり申します。売り上げも大した売り上げをしないで、頑張っている同僚の悪口を振りまいている人は、田安保険には要りません」

 感情の起伏が激しい美千代は、真理子に挨拶もしないでデスクを離れた。

(ちくしょう。静代も静代なら真理子も真理子だ。こいつらは、橋石に頼んで痛い眼に合わせてやろうか・・・)

 性格の歪み切っている美千代は、自分を振り返ることを絶対にしない。常に自分は正しいのである。この様な女性を妻にしている者は、余程の馬鹿かお人好し又は、聖人君子であろう。

 性格に粘着性がある美千代は、静代が会社に戻るのを待っていた。静代は三十分もしない内に帰ってきて、営業本部長である真理子に今日の契約の報告をしていた。

「すごいはねー静代さん」

 同じ部屋に居る美千代には、真理子があてつけで言っているように聞こえた。静代は元より真理子に対しても敵愾心を燃えさせた美千代の顔は、眼を吊り上げて口をへの字に曲げていた。

 このように恐ろしい女性が、同僚にいるとは静代は少しも知らなかった。

「大沼さん。ちょっと来てよ」

「はい。なんでしょうか」

 部屋の外に静代を呼び出した美千代は、暴走族の時、人を脅した時のような顔をして静代を威嚇した。

「あんた。調子に乗るんじゃないよ。外交員には外交員の仁義というものが有るのよ。先輩に少し遠慮があって当たり前でしょう。第一あんたの旦那は殺人で刑務所に行っているのでしょうが、その女房が田安に来て働いて良いのか悪いのか、良く考えて見なさいよ」

 静代憎さだけで、この様な人の心を突き刺すような言葉を感嘆に吐く美千代の神経は、普通ではない。美千代に言われてショックを感じたことは確かであるが。夫が殺人者であると言う事実は隠しようもない事である。静代は根本的にはプライドが高いが、美千代の様な人の心を慮る事が出来ない者を、相手にしても仕方が無いと考えていた。

「美千代さん。わたしが貴方に対して失礼な事をしたらしいけど、それだったら謝るは許してね」

 そこまで言われたら幾ら、意地悪な美千代でも次の言葉が出ない。

「解ったわ。要するに、その気にならないことを約束してよ」

「よく承りましたわ。今後とも宜しくお願いいたします」

 美千代は一応満足をしたようだが、来月、自分より契約髙が多かったら絶対に許さないと心に誓った。

 静代は、世の中には色々な人がいて、自分で何も思っていなくても相手が、憎んでいる場合があるから気を付けないといけないと思った。

(何があっても剛史さん。私は負けないわ・・・)

 

 

 

理 不 尽 な 暴 力

 

刑務所の中に酒や煙草・まして携帯電話など受刑者が持ちこめるはずがない。部屋の外や塀は刑期の満期が来るまで出る事が出来ないのである。従って、この事件は、相原担当看守が原塚にワイン・煙草・携帯電話を持って来なくては発生しなかった事件である。

 しかし。宮城刑務所は、是非が無い所である。刑務所側は善、受刑者は悪という論理の上で成り立ち運営されている。

 この事件が起きて所長の平川忠輝は、仙台地地方検察庁に行き支部長検事に、事の顛末を改竄(かいざん)して受刑者が悪いと報告した。

「この様な事件が再発しない様に、少し受刑者を締め付けますが、如何なものでしょう」

「然るべき」

 検事のこの様な言質を取り、宮城刑務所の看守に拠る受刑者暴行事件は、エスカレートして行った。

毎日どこかの工場で警備隊に、些細な理由で殴る蹴るの暴行がなされていた。特に警備副隊長の小野進という劣等感の塊の様な者が、工場巡回をしてくる際。腕にプロテクターまで嵌め臨戦態勢を整えて、少しの反則でも焼きを入れてやると言う眼をして、工場の隅々の受刑者に品の無い悪意のこもった眼を向けていた。

 

こうした事が、三ヵ月も続いた日、忘れもしない静代の誕生日でもある三月十七日。二ヵ月前から夜間独居で独りの生活をするようになった剛史が、五舎三階十房に移って直ぐの時である。

隣の九房に入っている取り調べ中の京都の極道が、日中作業の材料を作業が終わり房の前に出す時、警備隊長である小野進が扉を開錠した。開錠されたので京都の極道は、何時も通り材料を房の外に出そうと思って房から一歩出た。これが小野には気に入らなかった。

既に、他の房の扉を開錠していた小野は、安全靴の音をドタバタさせて房の前で、材料を置いている極道にいきなり飛びかかって足蹴りをくれた。

「痛い。何をするんやねん」

 驚いた極道が、京都弁で言った。

 小野は次に、腕を極道の首に巻きつけて、ヘットロックをかけて締め上げた。

「うっうー・・・・」

 極道が苦しんでいるのも関係なしに警備隊長である小野は、今度は襟首を柔道でするように掴むと払い腰で極道を投げ飛ばした。

「ドス―ン」

 という音と同時に、五舎三階の床に極道が投げられた音で響き揺らいだ。投げられた音を聞きつけた近くにいた看守が現場に駆け付けた。小野は投げ飛ばしておき未だ、極道の首を絞めている。

「堪忍してやー」

 虫の鳴くような声で極道は、助けを求めた。

 助ける者は居ない。むしろ騒ぎを聞きつけ近くにいた看守がまた一人小野の手助けに来た。小野はその看守に命令をした。

「おい。この野郎の足を押えろ」

 飛んできた看守は、事情が解らないまま小野の指示に従った。

 剛史は、この一部始終を見ていた。余りにも京都の極道が哀れになって、つい口を出してしまった。

「止めろ」

 小野は極道を押えていながら、剛史の方にサデスチックな眼を向けた。

「お前は無断交談だ。連行」

 後から来て足を押えていた看守が、極道の両方の足首を麻縄で強く縛りあげると小野の指示に従って、非常ベル設置してある場所に方行き非常ベルを押した。

 剛史は、この不条理に対して戦うべきか否かを考えていた。

三分もしない内。ドカドカト安全靴の音をさせて、待機中の看守が二十人程駆けつけた。現場を都合よく撮影する為に、カメラを持っている看守もいる。小野が自分で痛めつけていた極道に手錠をかけると極道は、看守達に担がれて連れて行かれた。

「おい。お前は無断交談だ。連行するぞ」

 あまりにも、馬鹿馬鹿しいので剛史は無言でいた。開錠されて房を出ようとした時に、配食をしていた鎌川が来た。そして小野に対して言った。

「何があったの。この騒ぎは、おかしいではないか」

 透かさず小野は鎌川に、規律違反を告げた。

「粗暴な言行で連行だ」

 鎌川は、真剣な顔をして応えた。

「それは無いだろう。僕の何処が粗暴というのだ」

 小野は、鎌川の言葉を聞くと鎌川の腕を捩じりあげた。鎌川は、小野のなすままに、されて眼だけを小野に向けて睨んでいた。

 鎌川は十人の看守に囲まれて連行されていった。次は剛史である十人程の看守に囲まれて処遇部門に連行されて、調べ室に入れられた。

 三分もしない内に、身長が低く腹が、セリ出ている帽子に金の太い金線が三本巻いてある四十年配のいかにも自分は偉いと誇示しているような者が来た。後から付いて来た看守は、自分で気を付けの姿勢をすると剛史に向って命じた。

「警備隊長に対して礼・称呼番号・氏名」

腹で笑いながら応えた。

「二一八〇番・大沼剛史」

 身分帳を手にして頷きながら警備隊長は、剛史を問い詰めた。

「一体お前は何をしたのだ。初犯ではないか」

「隊長。ここは理由が無いのに看守が、受刑者に暴力を振るっても良いのか」

「その様な事は関係がない。お前が何をしたか聞いているのだ」

「警備副隊長が理由も無いのに、受刑者に暴力を振るっているのをこの眼で見た。そのような事が許されるのか」

「関係ない。お前が無断交談したという事は確かなんだな」

「看守が、無断交談をしたと言うのならそうだろう」

「わかった。就業取調べだ」

 身分帳を閉じると警備隊長は、取調室から出ようとした。

「もう一度聞くが、理由がないのに看守が受刑者に暴力を振るっても良いのか。その様な理不尽が通るなら僕は、告発する覚悟をしていて貰いたい」

「告発をしたいなら勝手にしろ。以上」

 警備隊長は、それだけ言うと取調室から早々と出て行ってしまった。

 その場に残った看守が、剛史を宥めるよう取調室のドアを開けて外に出るように促した。

「独居に入れられなくて良かったな。さあ帰ろう」

 部屋に帰り冷えた麦飯を口にしながら鎌川の事を考えていた。自分と同じなら就業取調べであると・・・食事が終わり十分しても鎌川は舎房に還って来なかった。心配だから剛史は、報知器を上げて宿直の担当を呼んだ。

「鎌川さんが帰ってきないが、どうしたのだろうか。知っていたら教えてくれないか」

「鎌川は独居取り調べだ。当分ここへは、帰って来られないだろう」

 剛史は驚いた。ここが社会の常識が通らぬ所であるのを承知して解っていての事である。

 同時にこの様な理不尽な事が通る宮城刑務所に対して、義憤を感じずにはいられなかった。

 就寝となり薄くて綿が端に寄っている布団に身を横たえて、格子窓から南の空を見ると宵の明星が何事もなかったように輝いていた。

(今日は、一人で静代の誕生日を祝いたかったが、とんでもないことに成ってしまった。この民主主義の日本の社会でこの様な弾圧管理が行われている場所を、今まで生きて来て、見たことが無い。今日の出来事は許せない。明日工場に行ったら願箋を担当に貰い弁護士を頼んで警備副隊長の理由なき暴力を告発しよう。それと、処遇首席に面接をして、鎌川さんを早く工場に還してくれる様に頼んでみよう・・・)

 宵の明星は、剛史の心中に湧く憤りとは関係なしに、眩いばかりに、格子窓の間から輝いていた。