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北 の 宿 か ら

 

秩父颪が今日は止んで北埼玉の空は、眩しいほどに輝いていた。空を見ていると北の方から鴨の群れが三角形の編隊を組んで飛んでくるのが眼に映った。

(あの鴨は、剛史さんがいる東北の方から飛んでくるのね・・・後三日でお正月だわ。きっと、お正月の三ヶ日は、免業になるとこの前の面会で言っていたから夢中になって本を読んでいる事でしょう。でも、仙台の冬は、寒いでしょうね。あなた、お風邪を召されない様にしてください・・・)

 田安生命は、今日でご用納めである。自宅待機のまま契約をした契約書や諸々の報告が静代にはあったので、営業本部長の角田真理子に会わなくてはならない。

 飽くまでも澄み切った冬の青空の下、静代の車は荒川大橋を渡り駅前の田安生命の埼玉支社ビルを目指して走っていた。

 田安生命の支社ビルに着いて真理子の部屋に行くと、真理子は笑顔で迎えてくれた。

「静代さん。今年は、色々ありましたが、本当によく頑張ってくれました。わたしは、貴女と言う人を推薦して鼻が高いわ。有難うございます」

「何を言っているのですか真理子さん。わたしのことで随分心配をしてくれましたこと忘れません」

 二人で話をしていると佐野史江と小谷野歩が、真理子の部屋でもある営業本部に、入ってきた。

「あら、静代さん来ていたのね」

 史江は、懐かしそうな顔をして微笑んだ。

「静代さん。良かったわね。意地悪美千代が覚醒剤を打って逮捕されたのよ。きっと刑務所に行くのね。いやだわ―刑務所なんて・・・」

 歩の言葉に敏感に反応したのは真理子である。

「小谷野さん。確かに、美千代さんは田安では社員として、不適当な人であったことは、確かな事です。でも刑務所云々という事は、彼女のプライベートの事。そのような事にはあまり触れないのが、良いのではありませんか」

 史江も美千代が社内に振りまいて歩いた静代の夫は、刑務所に入っていると言う事実を知っているので美千代が刑務所に行くことを話題にしてはいけないと言っているのだと考えた。

「歩。刑務所云々という事はここではタブーよ。とにかく、美千代さんがいなくなった事で田安の外交員は働きやすくなったことは事実よ」

 静代は、同僚たちの思いやりが嬉しかった。美千代が覚せい剤を使用して現在拘置所に入っている事も、橋石のことで調べに来た熊谷署の刑事に聞いて知っている。

(美千代さんも、これからが大変だわ。事件を起こしたのだから仕方が無いといえばそれまでだけど、旦那さんや子供さんは大変でしょう・・・)

 拘置所に入っている者を身内に持った経験をしている静代は、美千代に意地悪をされたことは、既に頭の中にはなかった。唯、実体験者として、夫があのような事件で逮捕されて拘置所から刑務所に送られた妻の立場から、美千代の家族のことを考えずにはいられなかった。

話題を変へ真理子を交えて史江と歩はお喋りを続けていた。その時期、部屋に中村絹江と金井美子が同時に入ってきた。

「楽しそうね。わたし達も仲間にいれてよ」

「今日でお仕事も終わりでしょう。今晩辺りゆっくり羽を伸ばして美味しいお酒を飲みたいわ」

 お酒には眼の無い金井美子が、史江と歩の同調を求める様に眼を覗き込んだ。二人は嬉しそうに大きく頷くと同時に返事をした。

「金井さんお願いします。今日わたし達は酔っぱらって仕舞いますから、介抱をお願いします」

「何時も酔っているのに、今日に限って酔っぱらうから介抱をしてとは、何か企みでも有るの」

「何にもない」

 笑顔を浮かべながら真理子は、全員を今晩飲みに行くことを誘った。

「今日は一年の締めくくりよ、皆さんのお蔭で営業部も社長からおしかりを受けずに済みました。むしろお褒めの言葉を頂きました。営業の責任者としては、これに越した喜びはありません。従って、今夜の飲み代は、全部わたしが持ちますから、遠慮しないで飲んでください。何所の店に行くかは金井さん決めてよ」

 美子・史江・歩は、常連客となっている深谷市のスナック「虹」が良いと真理子に言った。

 静代は、お酒を飲めないわけではないが、剛史が刑務所に務めているのに、如何なる理由があってもお酒を飲むことは出来ない。如何して断ろうかと思案している時に、真理子が静代の気持ちを代弁してくれた。

「静代さんは皆さんとご一緒しなくても、してもどっちでも好いわ」

 真理子の言ってことが嬉しくて静代は、行くだけ行ってお酒を飲まずにいようと考えた。

「お酒は飲めないけど皆さんとご一緒させてください」

 史江と歩は、静代の言葉を聞いて喜んだ。

 

 深谷市の駅から十分とかからない高崎線の線路の脇の道を一本隔てた上柴町に、スナック「虹」という店はあった。

 八時に店に入ったのでお客は誰も居なく、あまり大きくない店は、田安保険の営業部の上位契約高者の独壇場になった。

 全員が席に座ると中村絹江が、カラオケのマイクを握り簡単な挨拶をした。

「皆さん。今年も頑張ってくれてありがとう。又来年も皆さんで力を合わせて田安保険がこの厳しい不況に耐えて企業として生き残れますよう頑張って売上を上げましょう。それでは、皆さん乾杯」

 本来なら真理子が挨拶をするべきところを絹江がしてくれたので、真理子は、後輩たちがここまで育ってくれたのかと思い自分の外交員時代を思いだし嬉しさと悲しさが綯い交ぜになった。

 静代は飲まないので、小柄で丁度良い位。品よく肉が着いた笑顔のチイママが、気を利かせて、アルコールが全く入っていないカクテルのような物を作ってくれた。

 美子・史江・歩・から順番にそれぞれの得意な歌を歌って、田安保険の外交員たちは一年の積もったストレスを解消するかのように、飲んで、喋って、歌って夜が更け行くのも気づかない儘、スナック「虹」の雰囲気に溶け込んでいた。

「営業本部長、カラオケでもどうですか」

 美子が聞いた。

「好いわよ。でもわたしが知っているのは懐メロよ」

 史江と歩それに絹江までが手を叩いてはしゃいだ。静代も懐メロならわかると思いどのような曲が出てくるのだろうと期待した。

 真理子は、自分の座っている席で立ちあがりカラオケの画面の方へ顔を向けると歌いだした。若々しく張りがある声でしかも声に色気がある。

あなた変わりは無いですか

日ごと寒さがー募ります

着てはもらえぬセーターを

寒さ堪えて編んでますー

女―心のー未練―でしょう

あなた―恋しいー北―の宿

 真理子の抑揚が利いた、うら悲しい声がエコーに乗って、静代の耳に流れてきた「北の宿から」と言う曲は、徐々に、静代の琴線に触れてきて真理子が歌い終わった時は、眼をハンカチーフで拭わなければ、どうにもならない状態になっていた。 

 

 

 

 

鎌 川 倒 れ る

 仙台地検からの不起訴状が送られてきた。弁護士の舟木先生に言われていたことであるので想定内であるとは自身納得をしていたが、ご用納めである十二月二十八日の午後に、不起訴状を刑務所側から提示された事に対して、腑に落ちない思いはあった。

考えても仕方ない事であると思い黙々と読書に勤しんだ。

 夕方から室内に装備されているテレビが、大河ドラマを放映していたが、音量を小さくして塩野七海の『ローマ人の物語』ユリウス・カエサル。ルビコン以前を読んでいた

 その内、テレビは、赤白歌合戦に変わった。現在の歌手が唄う歌は、剛史にはまるっきり理解する事が出来ない。歌詞もあのような詩が歌として通る世の中になってしまったのかと心を痛めるだけである。

 ローマ人の物語は、ユリウス・カエサルが、現在のフランスであるガリアの戦線を勝利して、ガリアの部族長ビェルチンジェットリックスを降伏させて、いよいよ、賽は投げられたで、知られるルビコン川を渡り、ローマ市に攻め入る前であった。剛史は没頭してローマ人の物語を読んでいた。

 その時、音量を落として置いたテレビから、懐メロが流れてきた。歌いだしが「あなた変わりがないですか」と言う問いかけが、読書に没頭している剛史を我に返らせたのである。テレビの音量を元に戻した。

貴方変わりが無いですかと言う一章節に続いて「日ごと寒さが募ります」と歌手が唄っているので静かに読んでいた本の表紙を閉じた。

 歌っている歌手は、相当年配である様子だが、この詩は、歌い手の歌唱力もあるのだろうが、現在の境遇に置かれている剛史の心を打つものがある。

着てはもらえぬ―セーターを

寒さ堪えて編んでますー

女―心のー未練―でしょう

あなたー恋しいー北―の宿

(僕は演歌というものを卑下していた。それは、大きな間違いであった。演歌は、詩の情景や状態に、身を置かれた者が聴けばこれ程までに心を打つものなのか?)

 三日前に、田安生命の外交員同士で、深谷市のスナック「虹」に行った時。この歌を聞いて静代が泣き出したい気持ちを押えてハンカチーフで眼を拭った事を知る由もない剛史が「北の宿から」を聞いて、静代と同じく心を揺さぶられたのである。

 夫婦というものは赤い糸で繋がれていると言うが、剛史と静代の気持ちは、寸部の違いも無く、赤い太い縄で繋がっている証拠でもあった。

曲が終わったので鉄格子の隙間から外を見るといつの間にか、ぼたん雪が止め処なく振っていた。

(この雪で、全てを清めてくれれば良いのだが・・・)

 

 元旦である。心ばかりの形だけのお節料理を配られて、剛史は黙々と食事を済ませて、平成二十年元旦の第一発信を静代に出す事にしてあるので、コクヨの便箋にボールペンを走らせていた。手紙を書くという事は、書いている相手を思いだすことに成る。静代は、この御正月。如何して暮らしているのだろうか、静代のお節料理は、一流の料亭の物より美味しかった。鏡餅は、何時も頼むところで頼んだだろうか、様々な思いに駆られてボールペンを走らせていた。

 剛史が刑務所に入っているので、静代がお正月を祝う気持ちなどになれないでいた。

唯、「陰膳」だけを作り独り言を唱えていた。

(あなたお正月よ。遠慮をしないで食べて・・・)

 夫婦でそれぞれの事を優しい気持ちで思い出している頃である。

 剛史の舎房の前を看守が、駆け足で安全靴の音をバタバタさせて走って行った。緊急事態の発生である。どうも十四房に入っている鎌川の房の前で何かを看守が言っている。気になるので、食器抗である窓により耳を澄ませていた。

「鎌川大丈夫か?」

「・・・・・・」

 看守の声を聞いて全神経を耳に集中した。何秒もしない内に、副看守長が来て鎌川の房の鍵を開けた。ガチャと音がすると副看守長の心配そうな声がした。

「鎌川どうしたのだ。歩けるか。直ぐに医務課に行くから支度をしてくれ」

 鎌川は、心臓のあたりを押えながら房内から出てきた。剛史の房の前を俯いてゆっくり歩いて来たので剛史は、反則を覚悟で鎌川に声をかけた。

「鎌川さん。どうしました。大丈夫ですか」

 普段であるなら、顔を見て頷くのであるが、唯、苦しそうに、俯きながら鎌川はゆっくり歩いているだけであった。

 鎌川が、房の前を通り過ぎて行くと剛史の胸の中は、空白が出来たような寂しさに襲われた。

(普段病気を持っているとは一言も言わないし、医務課の診察を受けたことはないはずである。如何したのだろう・・・)

 鎌川の状態が何であるのかが心配で、本も読めずにテレビを見る事も出来なかった。

 夕食時。宿直の看守が来たので報知器を上げて看守に聞いた。

「鎌川さんは、どの様な病気で病舎に行ったのか教えてくれないか」

 看守は、余計な事を言うと上司から叱責を受けるので、暫し、ためらっていた様であるが重い口を開いた。

「鎌川は、心筋梗塞だ。直ぐに娑婆の病院に行きパイパス手術をして成功した。安心をしてくれ。一週間くらいでここの病舎に戻れるという事だ。良かったなー」

 剛史は、心筋梗塞と言う病気に対しては懸念が残るが一応、鎌川が生命に異常がないことが解って安心をすると共に、警備副隊長の小野が宿直の看守長で無かったことに安堵の胸を何故下ろした。

(良かった。小野が宿直なら鎌川さんが、心臓に異変が起きても迅速に対処は、しなかっただろう。何しろ僕と鎌川さんは、小野を雑誌や何かを使って攻撃しているのだから、小野も敵愾心を燃やしているのは巡回などで会った時に、小野が僕や鎌川さんを観る眼が、異常なくらい憎しみを込めて爛々としているのを僕も鎌川さんも感じている。小野が宿直の看守長で無かったことは鎌川さんも命拾いをしたというに繋がる)

 鎌川と入所以来のことが、浮かんでは消え消えては浮かぶので、剛史は、唯、ひたすらに鎌川の回復を天に祈っていた。

(鎌川さんが工場に戻れるのは、半年くらいは掛る。その間、如何してこの刑務所との闘いを続けて行けば良いのだろう。僕は一人になっても闘いを続けるぞ。熊沢藩山ではないが、 『憂きことの尚この上に積もれかし限りある身の力ためさん』 僕はこれで行く鎌川さんが工場に復帰するまでは、一人であるが僕は、人としての道を守るために、この刑務所で何が起きても闘い。人としての是非を明らかにしてやる・・・)

 鎌川が、心筋梗塞で倒れた事により、剛史の刑務所権力に対しての闘いの闘志は、より堅固になっていった。

 

 三ヵ日が過ぎて四日には工場に出役になった。工場では鎌川が心筋梗塞で倒れた事の話題で沸き返っていた。何人もの受刑者が休憩時間や昼休みに、剛史の所に来て鎌川の病状と安否を聞きに来た。

 又、年末の御用納めの二十八日に提示された不起訴通知の事を、舟木弁護士に報らせるための電報を許可してもらう処遇首席宛の願箋を提出した。

 

五日に舟木弁護士は面会に来た。不起訴通知を予め、宅下げを出来る様にしていたので、舟木弁護士は、剛史の元に来た仙台地方検察庁からの看守に拠る受刑者暴行事件に対する不起訴通知を手にしていた。

面会室で会うなり舟木弁護士は、冷静さの中にも憤(いきどう)りを感じた眼をしていた。

「大沼さん。これほどまでに刑務所と検察庁が汚いとは思いませんでした。この事件は、最初から不起訴は想定内でしたが、その後、公務員の事件は、不審犯請求が出来ると予定していましたが、それは不起訴通知が来て、十日以内に異議申し立てをしなければ成りません。この不起訴通知が交付されたのは、十二月二十六日です。大沼さんは二十八日に提示されたと言いますが、刑務所側で二日間温めていた訳です。それは、二十六日から数えて正月の三日が九日目で、四日は、不服申し立て期限の切れる十日目に当たります。汚い。これ程までにこの刑務所は汚れてしまっているのか。僕は許せない。必ず別な方法がある少し時間を下さい。きっと僕が考えてきます」

 義憤に満ちた顔をして、話しをしながら舟木弁護士は重ねて剛史に言った。

「大沼さん。この刑務所は腐っている今後、貴男に何をするか解らない。少しのことでもやられたら直ぐ僕に連絡を下さい」

 剛史は、検察庁は正義を翳している所であると言う認識を捨てた。又、舟木弁護士の言う通り今後、気を付けて受刑生活を送らなくてはならないと思った。

(酷いものだ。これが現実であるという事は国自体が腐りかけているのだろう・・・)