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大前田の栄五郎

 

 寛政七年(一七九三)大前田栄五郎は、上州勢多郡宮城村大前田で生まれた。本姓は田島である。祖父の新之丞は名主である。父親久五郎は、滝登という草相撲の横綱格で、大前田を中心に苗ヶ島、女渕、月田、大胡を縄張りとする博徒の貸元である。この久五郎と母親清(きよ)との子供は三人あり、総領が要吉といって盲目で、久五郎の跡目を継いだ博徒で、次が栄五郎、その妹が直(なを)である。

 博徒の親分の子として生まれた栄五郎は、小さい頃から、強気な性質で負けん気が勝り、気性が烈しかったので「火の玉小僧」といわれていた。少年の頃から剣術を好み、村内に住む浅山一伝流の角田常房に手ほどきを受け、十四歳で目録を授けられた。「上州偉人伝」に拠ると、栄五郎は、姿勢夷(しせいかいい)、容貌逞(ようぼうたくまし)くして、自から愛すべく、顔色浅黒にして、体頗(すこぶ)る肥満す、と記してある。身の丈は六尺(一八〇センチ)、動作は敏捷(びんしょう)で、一昼夜に四十里(一六〇キロ)の道を走り、一跳すると二間半(四メートル五〇センチ)飛んだというから、尋常でない体力の持ち主であったのは、間違いないようである。

 

 文化四年(一八〇八)栄五郎十五歳の春、父親久五郎の縄張り内である、大間々街道端の大榎の下で、武州仁手村の清五郎が、久五郎に渡りを付けず、野天の賭場を開いた。

 久五郎に呼ばれた栄五郎が、部屋に行くと久五郎は、仁王のような躰で、どっかりと胡坐を組んで座り、両の腕まで組んで口を一文字に結び思案顔をしていた。まるでお寺の山門に立つ仁王の吽像の顔と、寸分も違わない。

「お父っあん!栄五郎ですよ」

 栄五郎の声で我に返った久五郎は、相好を崩した。

「おお、栄五郎かい。実はなぁ、仁手の清五郎が俺に渡りも付けず勝手に賭場を開いているってよ。なあに、野天の賭場だから大したこたぁねえが、盗人寺銭(ぬすっとでら)(他人の縄張り内で渡りを付けず、賭場を開帳して寺銭を取ること)を取られて黙っていちゃあ示しが付かねぇ。清五郎に会って、直ちに引き上げろと言ってやれ!」

「判ったよ、お父っあん。それじゃあ一走り行ってくらー」

 腰を上げかけた栄五郎を、まだ座っているようにと、久五郎は手で制した。

「長脇差(ながどす)は持って行っちゃならねぇ。持って行きぁ清五郎が言うことを聞かなけりゃ、お前は斬っとばすからな」

 久五郎の言うことを聞いて、長脇差を家に置いて、栄五郎は大間々街道端の大榎の下に行った。

 仁手の清五郎、その代貸の浩松と子分が三人、大榎の下に盆胡座を広げていた。賭客も数人いた。代貸の浩松は豚松とも渾名され、近在では嫌われ者である。

「仁手の清五郎は何奴だ。こゝは大前田一家の縄張りだってことを知っていて、盆を敷いているのか。渡世の筋は通した方がいいぜ!!

 栄五郎の気迫に飲まれたのか、それとも子供だと思って、見縊(みくび)っているのか、清五郎は返答をしない。

「………」

「口が利けねぇのか?仁手の清五郎は唖(おし)か?」

「………」

 糸のように細い目が垂れ下り、小太りの浩松が、何か言おうとして口を開きかけたが、清五郎が浩松の腕を小突いて止めた。どうやら清五郎は、盗人寺銭を取った己れの非は、十分認めているようだ。下手に口を利いて、襤褸(ぼろ)の出ないように控えているようだ。

 黙(だま)りを決め込んでいる清五郎に、栄五郎は業を煮やした。

「ここは大前田一家の縄張りだ。博奕をしたけりゃ筋を通してくれ。筋が通せねぇなら、とっとっと失せることだぜ」

「………」

 尖い目をして、清五郎、浩松、そして子分達を睨め回して、栄五郎は引き上げた。

 家に帰った栄五郎は、久五郎に報告した。

「言うべきことは言って来やしたが、清五郎の野郎は何を言っても黙り、人を喰った野郎ですぜ、お父っあん」

「何!一言も喋らねぇだと?」

 久五郎は栄五郎が、子供だから舐められたと思った。渡世を張っていて、舐められたら御仕舞である。まして博徒にとっての縄張りは、火場所・守場所・死場所と謂い、これを守るに死守すると言っている。武将が自己の領土を侵食された際、兵を動員して、防禦するに等しい。

 久五郎は、この上は清五郎を斬らねばならぬと、意を決した。清五郎を殺せば悪くて死罪、うまくしても遠島、栄五郎の幼さの残る顔を見ていて、不覚にも眼に涙を浮べてしまった。

 父親の浮べた涙の意味を察した栄五郎は、久五郎の前を去ると、久五郎の子分である月田の栄次を連れて、大間々街道端の大榎に向った。

 大榎の下に行くと、既に博奕は終っていて、清五郎の姿はなく、浩松と二人の子分がいた。

「おう、清五郎はどうした!」

 浩松は糸のように細い目を栄五郎に向けた。

「知らねぇな。お前ぇらなんでー、その面は」

「何!!

 栄五郎は長脇差を抜くと、袈裟懸(けさが)けに浩松を叩き斬った。浩松はまさか斬られるとは思っていなかったので、一瞬、「何故?」といった面持をして、仰向けに倒れた。舌先三寸で渡世を泳ぎ回っていた浩松は、口舌(こうぜつ)の徒である。渡世を見縊っていたようである。況してや、その気性の烈しさをして、火の玉小僧といわれている栄五郎である。一寸の躊躇もない。

 浩松の斬られた躰を、打ち棄てたまゝ、子分達は、悲鳴を上げて逃げ去った。

 

家に帰り、母親に事の顛末を告げて、旅に出ることを言い残して、裏口から去ろうとした栄五郎と栄次を清は諫めた。

「裏口から、こそこそ逃げるんじゃないよ。そんなことでは逃げおおせまいよ。第一これから漢を売ろうとしている者が、堂々としてなくて何んとするんだ!」

 流石は上州女、然も博徒の姐さんである。

 はっとして我に返った栄五郎は、表に回ると胸を張り、栄次と共に旅に出た。

 取り敢えずは、様子を窺うことにして、栄五郎と栄次は、日光例幣使街道柴宿の在、百々(どうどう)村で渡世を張る百々の紋次の所へ、草鞋をぬいだ。紋次は栄五郎の父親久五郎と五分の兄弟分である。寛延年間の生まれで、この時不惑少し前であった。渡世の酸いも甘いも噛み分けた、温厚で話の判る貸元であった。

 急ぎ旅の仁義を切って、旅人受の子分に案内されて、栄五郎と栄次は紋次の部屋に入った。

「叔父御(おじご)、無沙汰しておりやした」

「おう。おう。栄五郎に栄次、一寸と見ねぇうちに好い漢になりやがって」

 丸顔に柔和な微笑を浮べ、目を細めて紋次は言った。

「実は叔父御。仁手の清五郎の子分を一人、叩き斬りやした。多分、くたばったと思いやすが、きょうび関東取締出役なんてものがいて、うるさくなりやしたから、暫く叔父御の所に厄介になり、成り行きを見てぇと思っておりやす」

「そうか、人を斬ったか。渡世を張る以上避けて通れぬ道だ。謂わば渡世上の患(わずら)いだ。仕方ねぇよ」

 こうして、百々の紋次一家に草鞋をぬいだ、栄五郎と栄次の果てしない長い長い旅が始まった。

 五日後、紋次は栄五郎と栄次を自分の部屋に呼んだ。

「栄五郎。お前が叩き斬ったのは、浩松という野郎だろう。あの野郎、鎖帷子(くさりかたびら)を着込んでいやがって、命は助かったってよ。それでも、鎖帷子まで叩き斬れて、命はあるものゝ片輪っていう話だぜ」

「命冥加な野郎ですぜ、叔父御」

 安心したような面持をして、栄次は言った。

「それじゃ、それ程はうるさくはねぇでしょうね」

「そうかも知れねぇが、要心だけはしてくれ、栄五郎」

 百々の紋次の所を本拠にして、栄五郎と栄次は北武州から、上州一円の賭場に顔を出して漢を売った。お上の追求も殊の外緩く、夜陰に紛れては、大前田に帰ることも度々あった。

 

「さあ張った。さあ張った。どっちもどっち、さあ張った」

 中盆が駒を誘う声が聞える。ここは上州山田郡須永村にある、藤掛釜三郎の賭場である。栄五郎の前には三百両分の駒札が積まれている。丁の連(つら)(同じ出目が連続すること)が九番出ている。栄五郎の前に積まれた三百両分の駒は、

 ――博奕と喧嘩はつらを張れ

と謂う定石通り、連を九番張って請けた駒である。定石通り張るとすれば十番目も丁連(ちょうづら)でしかない。

(丁と張って勝ち上ると賭場が御仕舞になってしまう……)

 賭場を開帳する立場の者の身になり、栄五郎は考えた。その逡巡を透さず賭客は、全員が丁連に張った。

「盆中手留り。駒を読みます」

 中盆は素早く盆胡座に張ってある丁座の駒を読んだ。

「はい!丁と五百両。半と無いか五百。ぽんとないか五百両」

 栄五郎は三百両分の駒を半座に張った。

「足りない分は箱で見てくれ。目が無かったら俺の星にすりゃいい」

 この賭場の寺銭は五分寺である。この勝負一番だけでも、二十五両の上りがある。中盆をしていて、生涯に一度体験できるか否かの大勝負である。賭場は興奮の坩堝(るつぼ)と化している。中盆は賭客の興奮した顔を睨め回し、意を決したように気合いを入れた。

「勝負!!

 壷振りが、ゆっくり壷を上げた。

「五・六の半」

 連に付くと思いきや、半と抜けて栄五郎の勝ちである。

 賭場は感嘆の声と、落胆の溜め息が入り交る。

 栄五郎は五百両分の駒札を受け取ると、積んであるまゝで、すーと押して中盆に返した。

「これは今夜の寺銭の上りの足しにしてくんな。聞くところに拠ると須永一家の釜三郎どんは、弱い者は虐めねぇ侠気のある好い漢と言うぜ。大前田栄五郎の顔繋ぎと思ってくんなせい」

 須永一家の貸元である藤掛釜三郎は、賭場の上りをその日の食う米もない貧しい村民に施しているのを耳にして、感心していた栄五郎である。

「あの人が大前田の栄五郎さんか」

「気っ風が好いねー」

「あの若さで凄げぇ貫禄だねぇー」

 客の間からは、感に堪えきれず、栄五郎を絶賛する者が絶えない。

 頃合いと見た栄五郎は、立って帳場に行った。そこには須永一家の貸元藤掛釜三郎と代貸の野田の義助、義助は後に釜三郎の跡目を相続する野田半七の父親である。貸元の釜三郎は、この時二十三歳で、栄五郎より二歳年上である。凛(りん)とした態(てい)が好ましい。

「大前田の、遠慮なく頂くぜ。助かるぜ。後でじっくり話がしてえよ」

「いいってことよ。連絡は百々の叔父御の処へしてくんな」

 換金した三百両を懐に入れると、須永一家の賭場を後にした。

 秋の月は明るく、大きく感じられる。遠くで犬の遠吠えがした。

 

 数ヵ月後、栄五郎と釜三郎の兄弟分の盃式が、日光例幣使街道木崎宿の旅籠「問屋」の二階大広間にて、上州一円の貸元衆列席の上、取持人を百々の紋次として、床の間に右から、「八幡大菩薩」「天照皇大神」「春日大明神」の三軸を掛け、その下に祭壇を設けて、厳粛な雰囲気のうち執り行なわれた。

 栄五郎六分、釜三郎四分である。従って、栄五郎は釜三郎を「兄弟」と呼び、釜三郎は栄五郎を「兄貴」と呼ぶのである。

 釜三郎は栄五郎の舎弟としては、嚆矢(こうし)である。

 同時に、父親久五郎の子分であった月田の栄次を、久五郎の諒解を得て、譲り子分として盃を下した。

 

 

上州で最初の博徒の親分は、北群馬郡吉岡村大久保(吉岡村)の田中代八である。大久保は江戸と新潟を結ぶ旧三国街道で、後に三国街道が高崎から分岐してからも、佐渡金山奉行道と称して、往来の多い主要街道の宿場であった。相撲取り上りの代八はその腕力で、近在の通り者(博徒のこと)を力で捩じ伏せ親分として君臨していた。二百人からの子分を従えて、大久保に三軒・中山道坂鼻宿に一軒・他に三軒の家を持ち、本妻の他妾が三人いたというから、剛気な男である。周囲の者達は代八を〝大久保の殿様〟と呼んでいた。

 博徒風情が殿様と呼ばれているのを、勘定奉行所は看過することはない。天明四年二月、大久保の代八一家は一斉検挙を受けた。二百人いた子分の重立った者は全て捕縛された。賭博の嫌疑で三寸縄を掛けられた代八は、しぶとくその嫌疑を認めなかった。江戸小伝馬町の牢獄に移送された代八は、白状しないので石抱きの拷問を受けた。この拷問は「そろばん責め」ともいって、三角材を横に並べ、その上に座らせ、膝の上に一枚九貫目(三三・七五キロ)の石を載せるものである。石の重みで足の脛の肉が、角材の角に食い込むから、その苦痛は想像を絶する。連日の拷問にも口を割らない代八に、役人は石を二枚、三枚と重ねた。三枚の石抱きに歯を食いしばり我慢した代八に、役人が四枚目(一三五キロ)の石を重ねた時、代八は気絶してしまった。水をかけられて正気に戻った代八は「妙義山にて、少々賭けの勝負をしました」と白状した。それにしても、代八は図太い男である。百敲きの罰を受けて釈放された代八であるが、故郷の大久保に帰ろうとしても、拷問で弱った体は足腰が立たず、望郷の念を抱いたまゝ、天明四年三月二十八日、江戸で不帰の客となった。

 代八が江戸で帰らぬ客となり、重立った者も捕縛されてしまった代八の一家は、壊滅状態になってしまった。幸いにして、末端の子分で歳が若かったため、捕縛を逃れた男がいた。駒寄の竜五郎である。この竜五郎の晩年の子分に、大久保一家を興した中島栄作がいる。こうして見ると、大久保の殿様と謂われた田中代八は、上州博徒の嚆矢であることも宛(さなが)ら、大久保一家の鼻祖ともいえるであろう。

 代八が江戸で目を閉じてから、三十年は経った。駒寄の竜五郎は多くの子分を従えて、大久保を中心として、佐渡金山奉行道沿い一円を縄張りにしていた。

 栄五郎の父親である大前田の久五郎・百々の紋次とも五分の兄弟分で、久五郎の久・紋次の紋・竜五郎の竜を取って〝久紋竜の兄弟〟と呼ばれていた。水滸伝の豪傑九紋竜史進にあやからせてのことである。

 二年ばかり甲州から、武州にかけて旅をしていた栄五郎は、十日前から叔父御分でもある竜五郎の所に草鞋を脱いでいる。

 大久保村からそれ程遠くない、榛名湖畔の沼ノ原一帯に、夕菅(ゆうすげ)の淡い黄色の花が咲く頃、栄五郎は栄次を連れて、前橋の総社に向っていた。当時、前橋には関口文之助という貸元がいて、白銀家一家を名乗っていた。この白銀家一家の下部屋の貸元に〝穴熊(あなぐま)の御富士こと富士兵衛〟という通り名の貸元がいた。穴熊の富士兵衛という通り名は、捕史が賭場へ踏み込んだ際、素早く縁の下にもぐり、五日間飲まず食わずで隠れていて、捕縛を逃れたことに因るものである。

 利根川沿いの道を歩いて行くと、「蛇穴山(じゃけつさん)古墳」に着いた。この古墳の横穴式石槨が、富士兵衛の賭場である。賭場には何人(なんびと)たりとも、長脇差や刀は持ち込めない。それが渡世の不文律である。長脇差を外で待つ栄次に預けて賭場に一歩足を入れた栄五郎は、普通の賭場で感じるのとは違った緊張感を感じた。殺気と言い変えても良い賭場の緊張感は、賭場を知る者に取っては、心地好いものである。だが富士兵衛の賭場からは、邪(よこしま)なものが醸し出されている。古墳であるからともあるまいと考えながら、懐から五十両を出して、駒札に換えた栄五郎は並の博徒とは気宇が異なる。並の博徒はせいぜい十両持って賭場に来れば上等である。

 縦盆に座った栄五郎は、四半刻(三十分)で五十両分の駒を負けてしまった。

「おい貸元、五十両ばかり駒を回してくれ」

「承知した。これを客人に」

 子分に駒を渡した富士兵衛は、栄五郎を上客と見做して、ほくそ笑んだ。子分の持ってきた駒を前に置いたまゝ、栄五郎は腕を組んで、盆茣蓙の上の勝負を見守った。

「さあどっち、はいどっち張った張った」

「勝負!」

「一・六の半!」

 ため息の流れるなか、中盆は素早い動作で、負け駒を勝ち駒に付けて行く。

「はいどっち、さあどっち張った張った」

「勝負!」

「二・六の丁!」

 十番ばかり自分では駒を張らず、盆の上の勝負を見守っていた栄五郎は、得心がいったように頬笑んだ。駒を張らせるために発する中盆の言葉が「さあどっち」と最初に口に出た時は「半」「はいどっち」と最初に出た時は「丁」であることの合図を看破したからである。ただどのような如何様(いかさま)が仕掛けられているかは解らない。仕掛けは解らなくても、出目を報せる合図が解れば栄五郎には十分である。中盆が「さあどっち」と言えば「半」を張り「はいどっち」と言えば「丁」に張り続けた栄五郎の前には、駒札が山と積まれた。ざっと見ても三百両はあるだろう。客の大半は負けて駒を持っていない。一人だけ栄五郎と同じ位に、駒札を積んでいる男がいる。長い顔をしていて、俯き加減だがちらりと中盆を見たり、栄五郎を盗み見をする。

 せゝら嗤いながら、栄五郎は駒札を持つと、貸元の富士兵衛のところに行った。

「これを銭に換えてくれ」

 富士兵衛は、苦虫を噛み潰したような面持をした。

「客人、ちょっと面貸してくんな」

 低い声でどすをきかせた富士兵衛は、顎をしゃくり栄五郎を促した。

 賭場を出ると栄次がいて、長脇差を栄五郎に手渡した。

 柄の悪い五人の子分を従えて、富士兵衛は忌ま忌ましそうな面持をして、栄五郎を睨み付けた。

「白銀屋一家の、穴熊の富士兵衛といわれている俺の賭場を、よくも虚仮(こけ)にしてくれやがったな!手前ぇは何処の者だ!!

 栄五郎は嗤った。

「名乗れねぇのか?この野郎!」

 栄五郎の背後にいた栄次が、富士兵衛の前に出た。

「このお方はなぁ、大前田の栄五郎さんだ。大前田一家の若親分だ」

 栄五郎の武勇伝は上州は疎か、甲州、武州までにも聞えていた。富士兵衛も聞いていた。大前田栄五郎は腕が立ち、度胸が桁外れであることを、一瞬、躊躇したが、富士兵衛も穴熊の富士兵衛という通り名を持つ貸元である。

「ほう、大前田の栄五郎とな。お前も渡世人なら俺の盆に砂を撒くような真似しやがって、ただで済むとは思ってねぇだろう。この落し前どう着けてくれるんだ!」

「賭場に来て勝っちゃならねぇてことか。随分横車を押す貸元だ。栄次、賭場に来て勝っちゃならねぇだとよ」

 栄五郎に如何様であることを、明せない富士兵衛は歯がゆんだ。栄五郎が疾()うに看破っているのが判っていない。

「俺の請()けた駒を銭に換えてくれや、貸元」

「判ったよ、大前田の」

 踵を返して、賭場に戻り金を持ってくる振りをした富士兵衛は、長脇差を抜き振り返ると、栄五郎に斬り付けた。

「金は金でも延べ金だ!これでも食らえ!」

 富士兵衛の振り下した長脇差の切っ先を、左横に避けると栄五郎は、富士兵衛の右腕を切り落した。蜘蛛の子を散らすように逃げた富士兵衛の子分を余所に、栄次は賭場に入ると、栄五郎の勝分の三百両の金を掻き集めた。

 前橋の総社から、宮城村大前田までは指呼の間である。栄五郎は栄次を連れて生れ在所の大前田に向った。

 元景寺の裏の森で啼くのか、青葉木菟の声が聞える。

 

 何年か振りに家に帰った栄五郎は、大前田一家の代貸の兄の要吉と向き合って座っていた。栄五郎から穴熊の富士兵衛の賭場の一件を聞いた要吉は、渡世人の先達として、実兄として栄五郎の強気で負けん気な性質と、烈しい気性を危惧した。

「栄五郎。強いばかりが漢じゃない。きついばかりが渡世人じゃないぞ。人の気持を思ん量ることができて、始めて一人前だ。人にされて嫌だと思ったことはするな。反対に、人にされて良いなあと思ったことはすることだ」

 ――強いばかりが漢じゃない。きついばかりが渡世人じゃない。人の気持を思ん量ることができて、始めて一人前

 栄五郎は呟いた。

「兄貴、理解ったような気がするぜ。これからはもう少し人の気持が解る漢になるつもりだ」

 要吉の前では、見得もなく素直な気持でいられる栄五郎である。十五歳で浩松を斬り旅に出てから十年、陰で支えてくれたのは要吉である。この時代の旅人の草鞋銭は二分で、添書を持って来た者であっても、最高は五両である。要吉は大前田一家に草鞋を脱いだ旅人に対して、五両または十両を渡していたので、旅人である栄五郎は、何処の一家に草鞋を脱いでも大事にされ、待遇は良かったのである。

 要吉と積る話を夜明けまで語った栄五郎が、生まれ育った家で十年振りに、手足を延ばして蒲団に入ったのは、卯の刻(午前六時)を告げる鐘が、天台宗の安楽寺から聞えてくる頃であった。

 どれ位眠っていたのだろうか。どことなし騒がしい気配に目を醒すと、そこには捕方が十数人いて、栄五郎を囲んでいた。

 捕縛されて家を出ようとした時、要吉が近寄って来て、両手で栄五郎の顔を包むと、指で栄五郎の目、鼻、口を確認するように撫ぜた。見えないその目に涙を溢れさせて口を聞いた。

「達者でな、栄五郎。お父っあん、おっ母さんのことは心配するな。何があっても諦めてはならない。生きろ、生き抜くんだ!」

「兄貴もお達者で」

 江戸小伝馬町の牢獄に送られた栄五郎は、十年前に浩松を斬った件並びに穴熊の富士兵衛を斬った傷害の罪で、佐渡ヶ島に流刑となった。

 

 

江戸時代初期、能役者喜然の子である大久保長安が、佐渡金山奉行に就任して、南蛮渡来の金の抽出方法を採用するや、佐渡の金の産出は増して、日本一の産出量を誇った。全国から金に憑れた金掘りの人足が集まり、女郎屋が軒を並べ、市が立って佐渡は殷賑(いんしん)を極めた。金掘りのための流人も千人近くいたとされている。時代を経るにつれて、産出量も減り凋落(ちょうらく)の一途をたどり、栄五郎が流罪となり島に着いた頃は、金鉱石を掘る人夫の流人は、二百人程になっていた。