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文殊院の耀山

 

 夏期は寅の刻に、一番舟が出る境村平塚河岸から、渡し舟に乗った忠次郎は、間もなく、対岸の中瀬河岸に着いた。舟から下りて、暫く赤城山を眺めていたが、踵(きびす)を返すとわき目も振らず、急ぎ足で熊谷宿に向って歩き始めた。国定村への未練を断ち切るかのような、足取りである。一度も振り返らず、一刻(二時間)ばかり歩き続けると、熊谷宿に出た。旅籠や商家が並ぶ中山道の雑踏の中、西に向って歩いて行った忠次郎は、左秩父の道標が指し示す道なりに進んだ。十町ばかり行くと、荒川があった。荒川の河川敷に入り、広瀬の渡しに行くと、桟橋に舟は無かった。渡し舟は出たばかりなのであろう。しばらくは渡し舟は戻らないと覚った忠次郎は、辺りを見渡した。すると三十間(五四メートル)程下流に、葦張(よしずば)りの小屋があった。砂利だらけで歩き難い河原を行くと、そこは、簗が仕掛けてあり、簗で獲った鮎を料理して食わせる川魚の店であった。店の中には、一人のお婆々と孫娘であろうか。下膨れの顔をした愛想の好い十五、六の娘がいた。

「吉岡村に渡りたいのだが、渡し舟は何時出るのかね?」

 忠次郎が尋ねると、娘は細い目を見開いて言った。

「午の刻(正午)にならないと吉岡に渡った舟は戻らないよ。それまで刻(とき)はたっぷりあるから、名物の鮎飯でも食って、待っていれば好いですよ」

 それはそうであると思った忠次郎は、渡し舟が戻るまで待つことにした。

「酒はあるかね?あるんなら一本くんな」

 鮎の鱁(うるか)(塩辛)を摘みながら、手酌で酒を飲んでいる忠次郎は、初夏の陽に照らされて、きらきらと赫う荒川の水面を眺めていた。

 娘が、土鍋と皿の上に串で差された鮎の塩焼を並べて持ってきた。辺りに香ばしい香りが漂ってきた。娘は土鍋の蓋を取ると、鍋の中の飯の上に置いてある鮎の身を、慣れた手付きで箸の先で挘(むし)ると、鮎は見る間に骨だけになった。忠次郎が感心して見ていると、傍に置いてある小皿に盛ってある浅葱(あさつき)と青紫蘇(あおじそ)の微塵に刻んだのを、土鍋に入れて混ぜ始めた。

「好い匂いがして、旨そうじゃねぇか?」

「あたり前だよ!荒川の鮎は日の本一じゃ」

 歯の無い口で、濁声を出してお婆々は、自慢顔で言った。

「旨めぇ、旨めぇ」と言いながら、鮎飯を掻っ込んだ忠次郎は、睡魔に襲われた。馴れぬ旅の疲れが、酒を飲んだため一気に溢れ出たのであろう。(少し眠るか……)縁台に横になると、小さな鼾をかいて、気持好さそうに眠ってしまった。荒川の水面を渡る初夏の風は冷えていて、忠次郎の眠りを一層深くしているようである。無理はない。昨夜山桜の鎌吉を斬ってから、一睡もしないで旅に出たのであるから。

 一刻も眠っていただろうか。子供の甲高い声で目が覚めた。

「荒川は天下の川じゃねぇか。その川で誰が魚を獲ろうが、お前ぇあたりに文句言われることはねぇや」

「口の減らねぇ餓鬼だ。この川は鑑札のねぇ者は、魚を獲ってはならねぇのをお前ぇだけは特別に、鑑札なしで獲らせているんだ。それもこれもお前が親孝行だからだ。それを図に乗りやがって……」

 背丈があるので、十歳位には見て取れるが、好く見ると満面幼なさの溢れる六、七歳である。それにしても、こましゃくれた子供と思って、忠次郎が顔をまじまじと見詰めると、子供の頃の文蔵に瓜二つで、雀斑まである。一方は袖なしを着て、赤銅色の肌を臆面もなく露わしている。明らかに川漁師と判る。

「差し出がましいようで悪いが、訳があるのなら聞かせてくれねぇか?」

 子供の名は幸次郎。近くの石原村に母親と二人で住んでいる。最近母親が、労咳に罹り、薬代を稼ぐため、毎日釣り竿を担いで荒川に来ては鮎を獲り、魚()()を一杯にして帰って行く、感心な子供である。

 荒川では漁師達が、土左衛門を川から引き上げたり、河川敷の清掃をして、この地域の河川の管理を任されていた。管理には当然金が掛かる。その金を捻出するために考えられたのが、漁師組合に依る鑑札の発行である。鑑札は三百文で一年間は有効。鑑札を受けると、この地域の荒川で、釣りをしようと、網で獲ろうと自由である。幸次郎は鑑札は受けていない。それでも、幸次郎が鮎を釣りに来るのは、目的が純粋で心を打つ行為でもあるため、漁師達は見て見ぬ振りをしているのである。問題は、鑑札を受けて釣りをしようと考え、河原に来る釣り人を、自分の釣り場の傍に座らせて釣りをさせ、百文ずつ貰っている事実である。

 漁師から話を聞いた忠次郎は、すばしこいところまで、文蔵に似ていると思って苦笑した。幸次郎に向って中腰になり、顔を近付けて噛んで含めるように諭した。

「おう幸次郎。お前は母親孝行な良い子だなぁ…俺ぁ感心したぜ!だがなぁ、折角お前が母親孝行だからと感心して、鑑札なしで魚を獲らせてくれる漁師さんの真心を、裏切ってはいけねぇ。人から受けた真心は、裏切るものじゃなく、返すものだ!判ったか?」

 雀斑のあるのまで文蔵に似ている顔の幸次郎は、暫く、神妙な顔を忠次郎に向けていた。

「おじさん判ったよ。おじさんは文殊院の頭取と同じ侠客かい?俺(おい)ら大きくなったら、侠客になるんだ」

 これから訪ねる予定の文殊院一家のことが、幼い幸次郎の口から出たので、忠次郎はおやっと思った。

「幸次郎は利口な子だ。どうやら判ったらしいな。よし、俺が駄賃をやろう」

 懐から巾着を取り出すと一両の金を、幸次郎の手に握らせた。金一両に米八斗・麦二石三、四斗の相場の時代の一両である。

 驚いた幸次郎は、訝し気な眼をして、一両と忠次郎の顔を交互に見比べていたが、忠次郎が頷いて頬笑むと、一両の金を大事そうに懐に納めた。

「おじさんありがとう。俺ら大きくなったら、必ず義理は返すよ。だから、おじさんの名前教えてくんな?」

「義理を返すだなんて、こましゃくれた子供だな。義理は返さなくてもいいぜ。名前はなぁ、上州国定村の忠次郎って言うんだ」

「国定の忠次郎さんだね。俺ら絶対忘れないよ」

と言って、ぺこんと頭を下げると、幸次郎は砂利だらけの河原道を、危な気なく走り去った。

 二十三年後の嘉永二年(一八四九)伊勢古市の丹波屋伝兵衛の兄弟分半兵衛を殺害し、丹波屋伝兵衛、大場の久八、更にその系列である博徒と、甲州、駿州に架けて、血で血を洗う抗争を繰り広げ、関八州の博徒の心胆寒からしめて、二十八歳を一期として、刑場の露と消えた幸次郎の将来は、幸次郎は元より、忠次郎には知る由もない。

 遠慮する漁師に一両の金を渡して、幸次郎のことを頼んだ忠次郎は、渡し舟に乗って、瀬の流れのまゝ下流の対岸にある吉岡の渡しに着いた。吉岡の渡しから、野原文殊寺までは、指呼の間である。

 貞然が添書を書いてくれた文殊院の耀山に付いて、現在、その系譜の一家は途絶えて久しい。

 文殊院一家の頭取耀山が、明治十八年(一八八五)八十四歳で大往生を遂げた時、嘗ての同僚であった文殊寺の僧が、耀山の子分達が建てた石碑の碑文を撰した。石碑は昭和初期に取り壊されてしまっているが、その拓本は現存している。

 侠僧松本耀山は、享和元年(一八〇一)武州鉢形に生まれ、本名正之介と謂う。幼少の頃より、文武両道に秀で才気煥発にして、将来を嘱望された。十五の歳、母病没するを甚く悲しみ、武州野原文殊寺に出家して僧となる。佛門十年、文殊寺別院老朽するを心痛し、一念発起して、別院建立を発願、勧進の為、賭場を開帳す。賭場人多くして二年後、文殊寺別院建立さるる。

 仁義を重んじ、豪胆にして、相与に信ずるを任と為し、是非を同じくするを侠と為す耀山の侠風は、武州一円の博徒の識る処となり、参じて児分になる者多くあり。肝胆相照す兄弟分、大前田栄五郎世話人となり、文政八年(一八二五)還俗して、文殊院一家を興し頭取となる。

 明治十七年、秩父賭魁田代栄助率いる困民党が蜂起するも、僅か十日で鎮圧され、追捕を遁れる残党井上伝蔵他二名が、庇護を求めるや、

「窮鳥懐に入れば猟師是れを殺さず」と謂いて匿い後蝦夷地に渡らしむ。

 人の苦難に己れの生命を顧みず奔走し、徳行を矜るを恥とする。耀山の侠風は、漢の大侠客郭解にも勝るとも劣らんや。

 この拓本から、文殊院耀山の漢振りが、十分に想像できるであろう。

 申の刻(午後三時)忠次郎は、文殊院一家の門口に立った。通常、渡世人は、この時点で仁義を切るのである。仁義は渡世人の挨拶と思われがちであるが、挨拶であって挨拶でないのが仁義であって、それは、中世の軍陣における武家の名乗りにも似ていて、表面は自己のへり下った辞譲の気持を押し出し、内面には潜在的な闘争心、威嚇、挑戦といったものまで内包している複雑なものである。

 土間に足を入れた忠次郎は、上り框に一人の男が訝るような目付きをして、控えているのに気付いた。

「手前は、上州佐位郡国定村の忠次郎という者です。養寿寺の貞然和尚様より、添書を預り、文殊院の耀山さんを、訪ねてまいりました」

 懐から添書を取り出して、男に渡した。

「堅気の人で御座んしたか?輩(やつがれ)は、当家親分耀山に従います、藤助と申します。添書は親分が被見いたしますので、少々お待ちになって下さい」

 藤助は旅人の仁義を、受け応えのできる、文殊院一家の「旅人受」を任されている兄ぃである。

 程無くして、戻って来た藤助は、入って来た忠次郎を訝ったことを恥じるかのように、微笑みを浮べていた。

「今、若い者が濯ぎ桶を、持ってめぇりやす。どうぞ、足を濯いでおくんなさい」

 若い衆が運んできた濯ぎ桶に足を浸してから、足を拭いて、上り框を跨いだ忠次郎は、藤助の案内で耀山の部屋の前に行った。藤助が廊下に座り、居住まいを正した。

「親分、客人をお連れいたしました」

「おお、客人に入ってもらいなさい」

 部屋の中から、凛とした声が聞えた。藤助が襖を引くと、そこには文殊院の耀山が、座卓を前にして、背筋をぴんと伸して座っていた。

 頭は剃っていて僧形であり、眉目ははっきりして秀で、知性を感じさせる。鼻筋は通り、柔らかく結んだ口元は、微笑んでいるようである。とても渡世人の親分とは見えない。忠次郎は神妙な面持をして、耀山を見詰めた。自分では気付いていないが、忠次郎の発する気は、後年、忠次郎に会って、その姿を描き残した足利の有名な画家田崎草雲をして、方面修眉、気勢(きせい)凛然(りんぜん)、人をして寒ならずして慄(りつ)せしむ、真に一箇之侠漢なりと、言わせたほどの凄まじさを持っている。その忠次郎が、耀山と向い合って不思議な気を感じた。耀山の発する気が、忠次郎の躰を包んで行くのである。忠次郎の発する気が剛であれば、耀山の発している気は柔であり、動と静とも言えるであろう。

「添書は被見しました。大前田栄五郎は私の兄貴分です。川越までは私が責任を持って、案内します。それまでは、どうぞゆっくりなさって下さい」

「ありがとうございます。手前渡世のことは何も知りません。どうか宜しくご嚮導(きょうどう)願います」

 耀山は大きく頷くと忠次郎に尋ねた。

「ところで貞然和尚はお元気ですか?貞然さんとは宗派は違いますが、私も佛門にあった身、懇意にさせて戴いてます」

 大前田栄五郎の肝煎りで、去年文殊院一家を名乗り、頭取となった耀山は、栄五郎に付き添われて、上州の親分衆の所へ、挨拶に回った。その途中、国定村の養寿寺に寄って、貞然を紹介されたのである。

「手前が、山桜の鎌吉の首を叩き斬ったことを知り、随分と気落ちはしたでしょうが、その素振りはまったく見せず、淡々としていましたよ。佛家とは斯くなるものなのでしょうかね?」

 一年前までは、僧侶として佛門に仕えていた耀山に聴いた。

「佛家では、すべての物事や現象は、そのまゝ真実であると教えています。忠次郎さんから、鎌吉を斬ったと聞いても、淡々としていられるのは、諸法実相を透徹しているからでしょう」

「なる程、佛家いや、和尚様も強がりな人だ」

「強がりと言えば、私達の渡世も同じですよ。むしろ、痩せ我慢かな、この渡世は」

「そう言えば和尚様も、修羅の道も又、佛の道と言ってました」

「ウワッハハハ。ウワッハハハ」

 耀山は、膝を叩きながら、呵々大笑した。忠次郎も引き込まれて大笑した。

 酉の刻(午後七時)に遅い晩飯を共にとり、耀山と忠次郎の話は、尽きることなく続いた。亥の刻(午後十一時)を告げる梵鐘が、直ぐ近くにある文殊寺から聞えてきた。

「そろそろ寝みましょうか?」

 未練たっぷりに耀山が呟いた。

「そうしますか」

 耀山も忠次郎も、もっと話をしていたいのである。

 何かを思い浮べたのか、耀山が膝をぽーんと打った。

「明日、家(うち)の賭場が立ちます。博徒渡世を志す忠次郎さんには、是非賭場の雰囲気を味わってほしい。種銭(賭け金の元)は用意するので適当に遊んで下さい」

「承知しました」

 こうして、忠次郎はその晩、蒲団に入った。

 男同士が気が合って、お互いを認めれば、

 ――一日話をしただけで、百年の知己にも優る

 耀山と忠次郎を指して、謂うのであれば、言い得て妙である。

 

 卯の刻(午前五時)を告げる文殊寺の鐘の音で、忠次郎は蒲団を捲り撥ね起きた。口を漱ぎ、顔を洗ったばかりの頬に、初夏の風が心地好く吹いている。朝飯をすませて、耀山の部屋に行った。

「好く寝めましたか?」

「お陰さまで、ゆっくり眠れました」

 頷きながら、微笑を絶やさず耀山が訊いた。

「私が去年まで佛家として、修行をしていた文殊寺が、目と鼻の先にあります。どうですか?行ってみませんか?」

 耀山が文殊寺別院の老朽化に心を痛め、一念発起して、別院建立を発願し、勧進のため佛門にある身を顧ずして、賭場を開帳し資金を得て建立した文殊寺別院を訪ねることは、耀山の心意気を識ることに繋がると思った忠次郎は、直ちに同意した。

 二刻ばかり耀山の部屋で雑談をしていた二人は、文殊院一家を出て、文殊寺に向って歩いていた。すると二間(三・六メートル)ばかり離れた所を、四、五歳の子供が母親の着物の裾に、纏り付きながら、覚束無い足取りで歩いて来た。あまりの可愛らしさに耀山と忠次郎が、顔を見合せて頬笑むのと同時である。前方から栗毛の馬が、土埃を巻き上げて、狂ったように走って来た。奔馬である。このまゝでは子供が奔馬の蹄に駆けられてしまう。咄嗟に耀山は、その広い胸に子供を抱くと、覆い被さるようにして、奔馬に背中を向けた。忠次郎は、狂走して来た奔馬の前に、両手を大の字にして立った。奔馬が一瞬、たじろぐと、透かさず奔馬の鼻面に、鉄拳を見舞った。奔馬は音を立てゝ倒れると泡を吹いた。

 子供の母親は耀山と忠次郎に幾重にも礼を言った後、子供を抱いて、文殊寺の山門の中に消えた。

 目の前に井戸があり、その井戸に子供が落ちそうになった時、危い!助けなければ、と思う気持が、惻隠の情であり、仁であると儒者は説く。耀山と忠次郎の行為は、まさに仁であり、惻隠の情の発露であると謂えよう。

 耀山の仁が受動的仁であるとすれば、忠次郎の仁は能動的仁である。取りも直さず、それは耀山と忠次郎の違いを象徴している。

 文殊菩薩は文殊師利といって、釈迦の弟子中、智慧第一と謂れて、智慧をつかさどっている。野原文殊寺は智慧と学問の佛として、〝日本三体文殊〟としての信仰を集めている。元々、静簡院の末寺である。静簡院がそうであるように、文殊寺は、関東管領上杉一族の菩提寺でもある。

 耀山が賭場を開帳して、寺銭を稼いで資金として建てた、文殊寺の別院は、欅の木の香も芳しく、堂々とした威容を示していた。

「うーん。これを耀山さんは寺銭を稼いで建てたのですか」

 耀山は、にこにこ笑いながら、冗談とも本気とも受け取ることのできることを言った。

「寺の建物を造るのを、寺銭で賄う。これぞ寺銭が寺銭たる所以(ゆえん)なり」

 二人は腹を抱えて笑い出した。

 寺銭の由来は、寺院を敷(賭場)として借りている博徒が、その敷代として、寺院の修繕費の名目で収納したからである。賭場で使用する言葉に、開帳・堂(胴)取り・上げ銭・改名(出目のこと)・お釈迦等の寺に関係するものが多くある。それから考えても、寺院と博徒の関係の深さを、考えずにはいられない。

 因に、耀山が僧侶である身を、博徒に俏(やつ)して建立した、文殊寺別院は、明治初年の廃佛毀釈(はいぶつきしゃく)令に基付いて、取り壊されてしまった。

 

 遠慮をする忠次郎に、今晩開帳する賭場の種銭として、十両の金を押し付け、耀山は二階の賭場に上った。今晩の客は、高坂の籐石衛門・山貝戸の源太郎・坂戸の弥五良といった博徒の親方と秩父に生糸の買い付けに行く、生糸商人達であると、代貸の重造に聞かされている。

 二十畳敷の部屋は、百匁蝋燭が十本煌々としている。三間の盆が敷かれた反対側に、座卓を置いた帳場があり、傍に銭箱と駒札入れの小さい柳行李がある。耀山は、そこに居た若い者に頷くと、どっかりと帳場に座った。

 忠次郎は帳場に行くと、十両の金を出した。駒札と替えるためである。駒札は三種あり、貫木(かんもく)は一枚一貫・金札は一枚一両・鐚駒(びたこま)は一枚銭百文である。忠次郎は金札十枚を持って、中盆(賭場の運営を任されている者)の反対側の左寄りに座った。文殊院一家の盆は三間盆(五・四メートル)で、白い綿布を覆せ、所々を鎹(かすがい)で止めてある。盆を縦に分けて、壷振りと中盆が中央に座った側を半座・その反対側中央に親分が座り、その側を丁座と呼び、客はそれぞれの張り駒を、自分の勘又は読みに従い半座に張ったり、丁座に張ったりするのである。盆の縦すなわち、縦盆は大勝負のできる大銭打(たいせんぶ)ちが座るのである。寺銭は五分寺銭で、一二の半・二六の丁の目が出た時は一割である。

 賭場の席に全員が座ったようである。耀山が帳場を立って、丁座の中央に来て座り、居住まいを正した。

「皆さん。今晩は、よくお出で下さりました。どうぞゆっくり、遊んで行って下さい」

 抑揚のある声で言った。博奕の開始である。耀山は帳場に戻った。

 中盆が声を滾(たぎ)らせて、お客に声を掛ける。

「さあ張った。さあ張った」「張った。張った」

 中盆の声に誘われて、半にも丁にも金札が張られる。

「後は無いか?さあ張った」

 全員が張ったと見た中盆は、賭場の責任者であるという威厳を表わして、客に宣言する。

「盆中手留り、駒尻を切ります」

 一寸控えて下さい。半と丁の駒を合せてみますということである。

 半と丁に張ってある駒札を読み終えた中盆は、客に報告しながら、足りない駒を張るように誘う。

「半と二十両、丁と十七両、丁と三両ないか?丁と三両ないか?」

 忠次郎の隣に座っている五十歳位の、恰幅の好い商人風の男が、金札三枚を丁に張った。

「駒が揃いました。勝負!」

の声と同時に、壷が開けられると、賽は一・一の丁と出た。

 こうして、一刻ばかりすると、賭場は熱気に包まれて行った。忠次郎は、剣を握って相手と相対する時に感じる殺気でない、別の殺気が賭場を支配していることを覚った。心地好い緊張を強いてくれるこの殺気が好きになった。

 忠次郎の左手の縦盆に、一見して渡世人と判る、年の頃は三十歳一寸過ぎ、苦み走った好い男が座っている。金札を三十枚程持って、上手に遊んでいる。半の駒が足りない時は半に張り、丁の駒が足りない時は丁に張っている。要は盆の上の駒が合わないのを合せて、勝負を早くさせているのである。駒札が増えてくると態(わざ)と負けてもいるようでもある。又、駒札が少なくなると、真剣な眼差しをして、張り取りをして、何番か後は必ず駒を増していった。寺銭が多く上がるように、揉んでいてくれたのである。その後二刻ばかり遊んでいると、三十枚ばかり持っていた駒札を、五番で張り流してしまった。立つと帳場に座っている耀山の所へ笑いながら行った。

「頭取!面白く遊ばせていただきました。今晩は、これで帰ります」

「弥五良さん。盆を揉んでくれてありがとう。いずれ又……」

 この好漢は、文殊院一家の縄張りと隣接する坂戸一家の貸元弥五良である。一カ月前、弥五良の賭場に顔を出した耀山は、今日弥五良が耀山の賭場で行ったことゝ同じことをして、弥五良の賭場の寺銭が、多く上るように揉んだ末に、五十両の金を張り流してきたのである。

 恩義を感じた弥五良が、恩義に報いるべく耀山の賭場に来てくれたのである。渡世人の親分といわれる者が、渡世人を褒めるのに、

 ――あの男は、渡世の立て引きを知っている

と、言う。弥五良は耀山の恩義に報いるため盆の上で立て引きをして、耀山は弥五良の賭場が繁盛するように、立て引きをしたのである。

 忠次郎は、初心者が往々にして得る、幸運を手にしたようである。手元には駒札が二十枚ある。倍になったのである。賭場が開帳されて既に、三刻(六時間)は優に経っている。客も半数は立ってしまっていた。頃合を見計って耀山の前に行った。

「どうでしたか、忠次郎さん?」

 微笑みながら、耀山が尋ねた。

「面白く遊ばせてもらいました。博奕は癖になりそうです」

 思った通りのことを忠次郎は言った。

「癖になっては困ります。博奕打ちだから、博奕は打つなとは言いません。ただこれだけは覚えておいて下さい」

 ――博奕打ち、博奕はやらず寺銭(てら)を取れ

「なる程、面白い言葉ですね。博徒渡世で生きて行く以上は、肝に銘じておかなくてはならないでしょう」

 忠次郎は、得心のいった面持をして、大きく肯いた。

「ところで耀山さん。左手の縦盆に座っていたのは何処のお方です。盆の流れが良くなるように、随分気を遣っていたようでした」

「良い処に気が付きました。あの人は坂戸一家の貸元で弥五良さんです。私の盆に来てくれて、盆の上の立て引きをしてくれました。なか〳〵の親方ですよ」

「その盆の上の立て引きとは、何んのことですか?」

 耀山は忠次郎に、盆の上での立て引きから、渡世の立て引きのことまで語った。聞き終えた忠次郎は、大きく溜め息をつくと、黒目を輝やかせて言った。

「渡世人(おとこ)の世界は好いなぁ……」

 耀山は微笑みを絶さず首肯した。

「ありがとうございました。これは返します」

 思い出したかのように、二十枚の駒札を耀山の前に、忠次郎は出した。

「これは受け取れません。どうぞ持って行って下さい」

「これは借りたものです。返さない訳にはいきません」

 耀山が文殊院の頭取といわれて、渡世人は疎か堅気の衆までに親われているのは、欲が無く恬淡としているからである。忠次郎もまた無欲である。

「それではこれは、本日の寺銭の上りの足しにということにして、納めて下さい」

 耀山は駒札を受け取り、二十両の金に換金すると、十両を忠次郎の前に、十両を自分の前に置いた。

「この十両は寺銭の足しということで、ありがたく頂戴します。その十両は忠次郎さんが、初めて博奕をした記念の当り駒です。当り駒は私達渡世人にとり、縁起の良いものですから、是非持っていて下さい」

 耀山の言うことを肯(がえ)んじて、忠次郎は十両を受け取った。

 半刻すると殆どの賭客は帰った。賭場の跡始末が、子分達の手により済んだのを見届けて、忠次郎も部屋に戻った。蒲団の上に仰向けになり、天井を見詰めながら、盆の上で立て引きをした坂戸の弥五良のことを思い浮べ、耀山との会話を心に反芻(はんすう)した。

(明日は耀山さんに、賭場の仕来たりを聴いてみよう……)

 養寿寺の貞然が、百姓・町人の水準以上の学問を、手塩に掛けて学ばせた忠次郎である。理論武装はできているので、一通りの理屈は捏ねることもできる。

 しかし、弱冠十七歳である。その夜見た夢は、水滸伝の九紋竜史進、はたまた、三国史の劉備玄徳・諸葛亮孔明であったようである。

 

空梅雨であるという予想を覆すように、朝から、篠突く雨が文殊寺周辺に降っている。この辺りは丘陵地なので、水捌(みずは)けが良く泥濘(ぬかる)みにはならない。厠(かわや)の側に植えてある八手(やつで)の葉に当る雨音が囂(かまびす)しい。

 耀山の前には、殊勝な面持をして、忠次郎が座っている。

「耀山さん。賭場の仕来たりや仕組みを教えて下さい」

 耀山は微笑みを絶すことなく、たまゆら、困惑したような目をした。

 賭場の仕来たり、仕組みは通常、その一家の子分になった者が、三下として、見張り、木戸番、下足番をして、次に梯子番・中番の役を経て、客引・客送更に中盆という大役をこなし、自然に身に付くものである。その間、数年を要するのは言うまでもない。理屈でなくて躰で覚えるものである。一度や二度の説明で解るものではない。渡世人のことは何んでも知ろうとする忠次郎には、忖度するところがない。

 しばし逡巡していた耀山は言った。

「賭場の仕来たりや仕組みは、口では説明できない。自から賭場に行き、自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じて覚えるものです。だが、賭場を持つ者として、心得ておかなければならぬこと、大まかな、一家内の構成(しくみ)、寺銭の仕訳に付いては教えましょう」

 忠次郎は嘗て、貞然と対座して論語の講義をされ、一言たりとも聞き漏すまいとして、耳を欹(そばだて)て全身で知識を吸収しようとしていた自分を思い出しながら、真摯な眼差しを耀山に向けた。

 数年前までは、僧侶であった耀山である。人に説き教えることは、薬籠中の物である。

「忠次郎さん。どうして堅気の旦那方が賭場に来て遊び、寺銭を落してくれるか判りますか」

「まったく判りません」

「それは文殊院一家の賭場は、如何様(いかさま)はしない。賭場荒しは来ない。岡引に踏み込まれても逃してくれる。子分が捕まっても、客の名は出さないからです。博奕を打つ旦那方が『あの賭場は貸元がしっかりしているから大丈夫だ』と言ってくれているからで、大丈夫ということは、貸元と賭場を信用していることです」

 忠次郎は何度も肯いた。

「昨晩実際に賭場に入って、気が付いたでしょうが、寺銭の上りは可成りあります。百両は上っています。上った寺銭の分配に付いては、後程教えますが、上った寺銭は、先ず子分を養い、旅人の面倒を見ることに遣って、渡世人間の祝儀・不祝儀を賄い、ゆとりあれば困っている人のために、遣わなければなりません。だから自分の身代を増すといった我欲があってはいけません。賭場で寺銭を稼ぐのは、自己の利に非ずして、他を生かす為であることを、胸に刻んでおいて下さい」

 文殊寺の別院が老朽化して、放置されているのを見ていて、心を痛め、僧侶の身を博徒に俏して、賭場を開き寺銭を稼いで、別院の建立を果した耀山の話には、実感がこもり説得力がある。寺銭を稼ぐのは、

 ――自己の利に非ずして、他を生かす為である

 忠次郎は反復して、胸の裡に深く刻み込んだ。

「寺銭のことに付いて教える前に、一家の構成が判らないと理解できないので、私の一家に例えて、その構成を教えましょう。私は頭取と呼ばれていますが、貸元です。貸元は縄張り内の賭場の主宰者で大引とも謂います。貸元が直に持っている賭場は『本部屋』で、私の下には、男衾(おぶすま)の又三郎と鉢形の覚太・三ヶ尻(みかじり)の洋太・広瀬(ひろせ)の高太郎・万吉(まげち)の嘉乃介・下恩田(しもおんだ)の隆之助・高坂(たかさか)の籐右衛門と都合六人の貸元がいて、それぞれの縄張り内に賭場を持っています。この賭場を『下部屋』と謂います。又中盆は出方とも謂い、賭場全体を切り盛りする者で、三下は表番(見張り)・下足番・使番がいます。他に溜りというのは、賭客の足溜り、客に『敷』(賭場)を教えて送り込む者の居る場所です」

 耀山の教えてくれることに、逐一肯きながら、自分の憧れている渡世人の世界に、一歩足を踏み入れた喜びを、忠次郎は感じていた。

 耀山は話を続けた。

「寺銭の取り方は、勝った駒から五分を取る『五分寺』が世間並で、稀に『四分寺』もあります。その日に上った寺銭は先ず『減()り銭』『塩噌(えんそ)』『敷代(しきだい)』を差し引きます。残った分は『澱(おどみ)』といって、貸元が七分、子分達が三分相当に分配します」

「減り銭、塩噌、敷代と聞いても判らないので、その意味を教えて下さい」

「それはそうでしょう。博徒独自の言葉ですから、言葉は躰で覚える訳ではないから、好く覚えておいて下さい。減り銭は、賭場の往き帰りにお客が駕籠に乗ったり、飲み食いする費用で、塩噌は、部屋住の子分達の食費です。敷代は賭場を開く場所を借りた場合の借料です」

 篠突く雨も止んだようである。八手の葉を打つ雨音はなく、障子越に陽の光が差してきた。文殊寺の森の梢にいるのか、杜鵑(ほととぎす)が頻りに啼いている。

「それと、貸元が七分、子分が三分と言いましたが、貸元の取り分は『箱』、子分の取り分は『鉢』で、この他には『掠り』と『斛取(こくと)り』と謂うものがあります。掠りは、私の子分でない者が、私の縄張り内で渡りを付けて賭場を開いた場合に、私に届ける謂わば縄張り使用料で、斛取りは、隠居した貸元の生活費として、寺銭の一部を留保しておいた分です。これ位で好いでしょう」

 

耀山が立って庭に面した障子を開けると、雨に濡れた庭木の緑の葉が初夏の陽に、眩しく輝いていた。

「失礼いたしやす」

「這入れ」

 文殊院一家本部屋の代貸である重造である。厳しくひきしまった渋い面持を全く崩さず告げた。

「今し方、押切の仁蔵が来ましてね、『何か変ったことはねえか?旅人がいるらしいじゃねえか?』と利いた風な口をききやがりまして…小遣いを貰いたくて、言っていることに間違いはありやせんが、一応念のためと思いやしてね…」

「それで重造は、何んと応えたんです」

「渡世を張っていりゃ旅人が来てあたりめえだ。まして、家の頭取は気っ風が好くて、旅人の面倒見が好いのは、どなたさんも知っている。一人や二人の旅人は、いつでもいるぜと」

「それで好いでしょう。小遣いは呉れてやりましたか?」

「こんな時だから、一両投げてやりましたよ。仁蔵の野郎言うことがいいや、『何かあったら、何時でも言ってくんな。俺らぁ文殊一家の味方だぜ』と十手を振りながら、ぬかしましたぜ、頭取」

「ありがたいことじゃないか、重造」

 八州取締出役の手下である押切村の仁蔵の小悪党ぶりを、嘲けるかのように、耀山は嗤った。重造も嗤った。

「何んてことはありませんが、用心に越したことはない。そろそろ川越に行きましょう、忠次郎さん」

 渡世人の伝法な口調と程遠い、耀山の丁寧な言葉は、柔らかいが有無を言せぬ響きがある。忠次郎としては、耀山の所は去り難いのであるが、川越の栄五郎の所へ行くのを承知した。

 木綿の縞目の着物を、七五三、五分回しに着て、黒三の帯、紺の手甲脚絆に三度笠、切り緒の草鞋に大脇差を差した忠次郎は、すっかり渡世人の態である。耀山は頭だけは、饅頭笠をかぶっている。忠次郎の旅仕度は耀山が調えてくれたものである。

 吉見村辺りであろうか、街道の両脇に植えてある黒松の枝越しに、富士山が初夏の空に、くっきりとその雄姿を現わしている。

「忠次郎さん。富士のお山ですよ。漢は富士のお山みたいに、大きく、くっきり、清しくありたいものです」

「まったく同感です。俺は大きくなりたいですよ……」

 耀山と忠次郎は、暫く富士山を眺めていたが、大前田栄五郎のいる川越に向って歩いて行った。