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 十歳の春には、論語・孟子・大学・中庸といった所謂、四書の素読を終了して、復習の時期に入っていた。

 ――学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや、である。

 忠次郎は、記憶が良く、一を聞けば十を知る理解力があり、聡明である。しかも、心根が善いのである。

 貞然とすれば、お不動様から預っている子であると、信じているので、可愛くてたまらないのである。

 ――栴檀は双葉より芳し

 寺内の樗(おうち)の薄紫の葉が、繁っているのを眺めながら、貞然が独りごとを呟き、五月の空に、雄々しく浮ぶ赤城山に目を移して、しばし没我の境地を逍遥していると、忠次郎の叔父の源左衛門が、参道を小走りで通り抜け、貞然の居る庫裡の廊下の前に来た。

「和尚様。与五左衛門が逝きました」

 その言葉で貞然は、我れに返った。

「何んじゃと、与五左衛門さんが逝ったとな!して何の病(やまい)じゃ」

「それがなんでも、友蔵を連れて、散歩に行うとして、草履を足に突っ掛けた途端、ウーンと唸って倒れたとのことです」

「風疾(ふうしつ)かも知れん。それにしても、与五左衛門さんは、何歳(いくつ)でしたかな?」

「安永六年の酉生まれで、俺と三歳違いの四十四歳です」

 貞然は合掌して、南無妙法蓮華経………と三度唱えた。

「兄貴がこんな急に逝ってしまうなんて…」

 源左衛門は、腰に挟んでいる手拭を取ると、目頭を抑えた。

 葬式のことを貞然に頼むと、死んだ与五左衛門の弟としての責任もあり、家での葬式の手筈もあるとみえて、源左衛門は、そこそこに、養寿寺から引き上げて行った。

 悪童仲間の文蔵、重兵衛、清五郎と別れて、家に帰った忠次郎を待っていたのは、父親の物言わぬ亡き骸であった。仰向けにされ、合掌している父親を、まのあたりにした忠次郎は、呆然として、立ち竦み、切れ長の目に、涙を溢れさせた。

(お父う……なんで死んでしまったんだよー)

 父親の亡き骸に取り縋ると、忠次郎は、いつまでも揺っていた。

 十歳にして、自分を愛する者の死をまのあたりにした、忠次郎が、人生最初に味った最大の悲しみである。

 三日後、養寿寺の住職代理である貞然の宰領により、与五左衛門の葬式は、滞りなく終った。

 忠次郎の家の座敷には、亡き与五左衛門の弟である分家の源左衛門、重左衛門と名主の又兵衛や、与八、弥兵衛達十数人の村で主立った者が、里芋(さといも)、牛蒡(ごぼう)、蓮根(れんこん)、大根などで作った精進料理の膳を前にして、箸で摘んでいる。膳の上には、お浄めのための酒を入れた徳利が、それぞれ置いてある。滞りなく葬式が終り、緊張感から解放されたのか、どの顔にも険しさは消えていた。

 弟の友蔵と並んで、上座に座っている忠次郎にも、葬式を無事に済ませた安堵感が漂っている。

 四半刻(三十分)経つと座がざわめいてきた。お浄めの酒が、その場にいる者の緊張を完全に解き、気持まで弛緩させてしまったようである。そのうち、父親の弟である源左衛門と重左衛門それに与八が、何を話していたのか、興が乗ったと見えて、笑い出したのである。

 横目でそれを睨んだ忠次郎は、

(お父うが死んでしまい俺や友蔵、それに、おっかさんが、これほど悲しいのに何が楽しいのだろうか?)

 ――子、喪有る者の側に食するときは、未だ嘗て飽かず。子、是の日に於て哭すれば、則ち歌はず

 論語の述而第七のある言葉を反芻していた。

(叔父御達にも困ったものだ…)

 言いようのない複雑な思いに捕われている忠次郎の耳に、重左衛門が、呵々と笑う声が聞えた。重左衛門を見ると、隣に座っている源左衛門と、すっかり、緩んでしまった顔を真赤にして、笑っているのである。

 徐ろに、席を立った忠次郎は、尚も笑っている叔父達の前に行くと、切れ長の目をかっと見開いた。

「叔父御、好い加減にしてくれ!」

と言うと、同時に、左足で重左衛門、右足で源左衛門の膳を蹴り上げた。音を立てゝ、膳が倒れて、鉢、皿、徳利と精進料理が、二人の胸と膝の上に散乱した。周章(あわて)た重左衛門が、中腰になって身構えた。

「何をするんだ忠次郎!」

「お父うが逝ってしまったんで、気が触れたか?」

 すっかり正気に戻った源左衛門は言った。

 忠次郎は二人の叔父の前で、腕を組んだまゝ、睨んでいる。尋常の形相ではない。

「忠次郎!」

 振り返ると母親の嘉津が立っていて、無言で首を二度横に振った。父親が死んだことにより、悲しみの淵に沈んでいる母親を、これ以上悲しませたくないと思った忠次郎は、頷くと友蔵を連れて、家の外に出た。

 北の空を見ると、そこには赤城山が、夕陽に照らされて、真紅に燃えていた。

 恰も、忠次郎の怒りを象徴しているかのようであった。

 父親の死で、まんじりとしない日を送った忠次郎は、翌年、父親の死に追い打ちをかけるように、祖父のように慈しんでくれた、養寿寺二十一世住職・貞幹の死を味わうことになった。

 

十一歳になった忠次郎は、愛する者の死を続けて経験し、生きとし生けるものゝ命の儚さを感じて、無常感にとらわれたのであろう。闊達さが消えてしまった。

 家の外に出て、これまでのように文蔵、重兵衛、清五郎達と遊ぶことも稀になり、養寿寺にも、父親の月命日に行って、貞然と共に、父親の冥福を祈り、法華経を唱えるだけで、他の日には寺に足を向けなくなった。家の中にいて、隣村田部井の修験者で、円明院秀志から借りてきた司馬遷の『史記』、施耐庵の『水滸伝』、羅貫中の『三国志演義』を貪るように読んでいた。それは父親と貞幹の死の悲しみと、生きとし生けるものに対して、平等に訪れる死という現実からくる無常感からの逃避に外ならなかった。

 忠次郎の母親嘉津は、綿打村(現太田市新田町)の名主五右衛門の長女で、十七歳で長岡与五左衛門に嫁いできた。名主の娘であることからして、矜持があり、それなりの教養もある。従って、勝っ気である。その母親が、家に籠って本ばかり読み耽る忠次郎を案じて、

「忠次郎。何時までくよくよしているんだ。あんたは男じゃないか。赤堀に、剣術の偉く達者な人がいるって話だから、習いに行ってみろ」

と嗾けるようにして、真剣な面持をして言った。

 母親も、与五左衛門に死なれ、忠次郎や友蔵と悲しみを共有しているにも拘わらず、悲しい顔を一度も見せず、作男達を采配して、畑に桑を植えさせ葉を摘ませ、蚕を育てゝ生糸を紡いで汗を流しているのを、忠次郎は知っている。

「お母さん。判ったよ、俺らぁ赤堀に剣術を習いに行くよ」

 父親が大好きであった忠次郎は、母親も大好きなのである。

 こうして、忠次郎は、赤堀市場村(現伊勢崎市)の本間仙五郎応(まさ)(よし)の間庭念流本間道場に入門した。

 

 間庭念流は、樋口家四代当主、新左衛門高重が祖である。高重から更に四代下って、八代当主、樋口又七郎定次が、念流を確立した。本間仙五郎は、十六代当主、定次の門人として修行の末、免許皆伝となった。間庭念術では掛合(他流試合)を禁じているが、本間仙五郎は他流との掛合を義務付けている。開明的である。従って、仙五郎は本間念流と称していた。

 この仙五郎が、十一歳の忠次郎を見て、惚れ込んでしまった。気が横溢していて、向い合っただけで、人を圧倒するものを持っているのである。その上、性格が素直である。何より笑顔が好い。

 剣術で根本的に重視するのは、気である。気勝ち、気負けという言葉もある。忠次郎が家の中で、書物に耽溺していた時期は、我知らずして、浩然の気を養っていたのである。

 剣術の稽古を始めることにより、父親と貞幹の死に拠る悲しみから、忠次郎は脱皮した。

 念流は、元々、居合の一派である。あらゆる武道が、然うであるように、剣術では、腰の働きは重要である。殊に居合では、腰と足の安定を、一義としている。足腰が安定していないと、抜刀した際に、躰が泳いで隙が生じる。隙が生じることは、死を意味する。仙五郎は、忠次郎に半年の間、木刀を構えることは許さず、木刀を腰に差させたまゝ、腰足一体(ようそくいったい)の基礎動作を、させたのである。腰足一体とは、進むに反らず屈まず、退くに反らず屈まず、如何なる動きにあっても、背中に木剣を、一本通すが如し、とある。前後、左右、斜めと、上半身を泳がせることなく、摺り足で機敏に動く稽古である。

 忠次郎は、水滸伝に登場する、史家村の九紋竜史進のように、強くなりたいと思った。一貫目(三・七五キロ)の玉石を、腰に結いて国定村の家から、赤堀市場村の本間道場まで通い、家では、朝夕五百回の木刀の素振りを、自分に課した。強くなりたいと思っている忠次郎である。むべなるかなである。

 半年後仙五郎は、忠次郎に、木刀を構えることを許した。上段・青眼・下段・八双・大上段である。青眼に構えた忠次郎に、全く隙がない。仙五郎は驚いた。

(どうやら、儂が見込んだ通りである。忠次郎は、我が道場の逸材である。鍛えがいがある)

 この日を境に、仙五郎は自から、木刀を取り忠次郎に、組太刀の相手をさせて、仙五郎が打太刀のときは、忠次郎が仕太刀、忠次郎が打太刀のときは、仙五郎が仕太刀として、稽古を付けた。

 如何なる流派の、如何なる道場主でも、十二歳の子供に、自から稽古を付ける者はいない。忠次郎の剣術に対しての天稟(てんぴん)の資質を、看破しただけでなく、剣術に対する真摯(しんし)な姿勢と、素直で屈託のない天真爛漫な性格に、仙五郎は、愛すべきものを見い出していたのである。

 教える者の情熱は、教えられる者に伝わり、その成果は増幅される。

 剣術修行に没頭している内に、五年の歳月が流れた。忠次郎は、身の丈五尺五寸(一六五センチ)体重二十貫(七五キロ)濃い眉に大きな目、幅広い顔に二重顎、きりりとした風格を醸し出している、偉丈夫に成長した。

 本間道場の師範代である飯塚新介との、試合稽古でも、三本に一本は取ってしまうのである。

 師である本間仙五郎応吉は、忠次郎に目録を許した。

 目録を許されて、家に帰った忠次郎は、真っ先に母親の嘉津に報告した。嘉津は、目尻を下げて相好を崩して、我がことのように喜んでくれた。

「忠次郎。おめでとう。男は強くなけりゃ駄目だ。これは、わたしからのお祝いだよ」

と、一振の大脇差(おおわきざし)を差し出した。

 この大脇差は、忠次郎が目録を許される日を、楽しみにしていた嘉津が、その昔、長岡家の先祖が、新田氏の家臣として、腰に佩いていたとされ、家宝で〈大和千手院吉廣〉の太刀を、伊勢崎の刀剣商である中谷真希衛門に依頼して、大脇差(二尺五寸)に茎(なかご)を磨り上げ、拵を造り変えさせた物である。

 忠次郎は、満面に笑みを湛えている。友蔵も傍で喜んでいる。

「おっかさん。ありがとう」

 正座をして、鞘を払った大脇差を、ためつ眇めつ吟味した忠次郎は、

「猪首鋩子(いくびぼうし)、やや湾(のたれ)ているが直刃だ。地沸(じにえ)が銀の砂をまいたように、きらきら輝いていらぁ、これは好いやー」

 すっかり気に入った様子の忠次郎は、大脇差を鞘に収めると、矢庭に立ち上り、大脇差を腰に差して、着物の袖先を指で摘み、腕を水平に広げ、躰をくるりと一回転させて、嘉津と友蔵に向って、にっこりと笑った。愛すべき忠次郎の稚気である。