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ありのままに

<悔いを残さない生き方>


はじめに

 

人間とって悪とは、どのような事をさして言うのだろう。国家には法律があり、法律を破ったら悪であるという道徳観念を植え付けられ、国家を運営することが、容易になるように教育を施されモンゴール草原を群れとなり、羊飼いに追い回されている羊のように、鞭一つでどうにもなる羊のような人間にされて、法治国家の善悪の価値観に捕らわれ生きて行くことの中に、人間として真のことがあるのだろうか、本当の美はあるのだろうか、そして、本当の愛は生まれるのだろうか、いや違う。声を大にして僕は叫びたい。それなら、人間として持って産まれたままの性である善を誰憚ることなく発揮し、芸術家は本当の美を表現して、宗教家は人として如何に行きて行くか実践し、人対人は真(まこと)を以って交際し、日常生活を送るようにすれば、今、心有る者が、理想とする国が出来るのではないだろうか。然し、このような理想的な人や国の姿を創り上げるのには個である自分から、己を練って練り上げ創りあげなくてはならない。その為には、佛教も良いだろう。哲学も良いだろう。儒教も良いだろう。毎日自分に善性が宿っていることを自覚しながら、善性と問答しながら、生活してゆくのも良いだろう。だが、今更ながら、すべてのことが迂遠過ぎて、自分を創り上げた時には、老いて人生が本当の拠り所は無くなってしまう。そこで遅い嫌いはあるが『真(まこと)は、極悪にありと言う』思いで今日以後、生活をして行こうと考えている。極悪の中には必ず真のことが鎮められているに違いがない。

 

 

断じて行えば鬼神も之を避く

何事も徹底してやることである。今の世の中で偽善者が、良いことであると言うことはある程度は、のめり込んでやることが出来るが、悪いと言われていることはやる事ができない。それは貴方が偽善者であるからで、何時も他人に自分を良く思って貰いたいと考えているからである。だから、他人が良いことであると言っている事でも失敗すると後悔をして、それを進めたり、助言をしてくれた人を恨んだり、その人の所為にする。だから、なにかをやろうとしている時、人からアドバイスを貰うことは悪いことではないが、飽くまでも最終的決定は、自分でやることである。これから自分で行うことを自分で考えて考え抜いて自分で決める。その事を実行する。例え、それが失敗に終わったとしても、失敗の原因は統べて自分にあるのであり、自分で決めたことであるから、第三者を責めるにも攻めようが無い。恨みようがない。自分がこれで良いと思ったことだから、それは間違いではなく自分の努力と工夫が足りなかったことだけである。貴方のやったことは、だから間違いではない。全部正しい。何時如何なるところでも、場合でも自分を失わず自分の考えを貫くこの大事な自分の考えを貫くことが大切である。自分の考えを貫くと言うことは、自分に忠実に生きていることでその事が失敗に終わったところで、自分の考えを貫くと言う正しいことは残っている。そのことは統べて嘘ではなく真実である。だから、他人の指唆で出動いたのではないから、尊いのである。だから例え、しっぱいに終わっても失敗でなく、正しい事であり決して、自身を卑下してはならぬし、悲観してはならない。次に行うことの大きな肥やしになるはずである。特に、法律で禁止されている悪いこととされて居る事を犯した者は、罰を受けなければならない。それも短い一生の大切な時間の一部を刑務所と言う人間を人間扱いしない社会の常識は刑務所のなかの非常識などと看守が、嘯いている所である。更に、些細なことではあるが、となりの部屋の者と「おはよう」「いい天気だね」と口を利いただけで懲罰を十日言い渡されえるのである。しかも、十日の懲罰を言い渡されえるまでに、取り調べ中として、最低二十日は独房に置かれるのである。国家権力によりこのような仕打ちを受けると更正などする者はいない。人を人と扱わない国家権力という刑務所に対し、人間的に萎縮してしまうか。飽くまでも反抗を重ねるか、社会の縮図である刑務所に対し抵抗を始めるか。後は、刑務所生活が長く刑務所の裏の裏までをも知り尽くした者は、沈黙を守るのである。沈黙を守ると言ってもガンジーのように無抵抗主義になるのではない。沈黙の裏には近寄る者の心までも燃やし尽くすくらいの憤りの炎が燃えているのである。だから、沈黙に入った者は、自分に思いを向ける。そして、辿り着くのが『自分はなんてだらしが無い人間か』『どうして自分はこんなに至らない人間なのか』と言う事と、刑務所の石廊下の繋ぎ目に、冬であっても懸命に咲くタンポポなどを見て、自分の心の中に本当の『善性』があるということが分かるのである。こうなると、境涯が高くなるのである。境涯が高くなった人間は慎ましく謙虚な人間になる。そして、人間は何の為に生きているのか。本当の善とは悪とは何であろうか。考え抜きはじめる。こうなると儒教・佛教・特に禅に傾注する。これらに傾注すると物事の本当の事がわかる。頭で理解したことは実践して、初めて身に付くのである。そうして、刑務所の独房で自分を見つめ物事の真理を追究してゆくと、心的境涯が更に、高くなり、男として謙虚ではあるが、心のそこには消しても消す事が出来ない『矜持』と言う男としていや、人間として持っていなければならないものが、生まれるのである。心の位置、即ち高い境涯と人間としての矜持を持った人間が、この世の中に何が必要であるか解かる。だから刑務所一つを務めることを疎かにしないで、一版社会から地獄と言われえようが、刑務所は自分を創る『道場』と考えて地獄を道場にして、生きることも大切な事と言えるのである。