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終わりなき闘争

一週間ばかり取り調べ独居にいた鎌田氏が工場に還ってきた。何時もの様に、微笑みを浮べ私の隣の席で作業を始めた。そして、作業をしている振りをして下を向いて小声で話しかけた。

「今日は運動があるでしょうから。運動時間に、この後の対策を相談しましょう」

「了解しました。これからは、この刑務所の看守全員が敵であり、奴らも必ず私達の一挙手一投足をどこかで、監視していることでしょう。気が許せません。鎌田さんも気を付けてください」

「多分、懲役を使い喧嘩を吹っかけて来るとか。部屋に反則品を置くという様なことでしょう。如何せん汚い奴ばかり、お互いに気を付けましょう」

午後に成り運動はあった。懲役同士で話をする事が許されている場所は運動場の隅にある藤棚の下である。藤棚の下でベンチに座りながら開口一番私は鎌田氏を慮りこの様な事を言った。

「鎌田さん。この件について彼方は、表面に出ないで私にアドバイスをしてくれれば良いですから」

工場にいる時から、私は考えていたのである、それは宮城刑務所に収容されている無期刑の者が出所したという話は聞いたことがなく、二十年に一人くらいは出る事もある事を知っていたからである。

だから、これから鎌田氏と私で行おうとしている対刑務所との闘争はそれでなくても、仮釈放の可能性が薄い無期刑である。鎌田氏の一縷の希望も奪ってしまう事に成るからである。私の言葉を聞き鎌田氏は、肯定も否定もせずただ笑っていただけであった。

「高田さん。僕はもう面会で弟に一流週刊誌に、この事件が掲載できるように知り合いの処をあたってみろと言っています。既に『サンデー毎日』が大々的に、宮城刑務所の看守の収容者暴行事件を何週かに渡り掲載します。刑務所という所は社会と高い塀で隔離されています。隔離された状態だから、中でどんな事が起きても外に漏れる事はありません。それを承知で違法行為を看守がする。許される事ではありません」

私はこの正義感と責任感と是非の心を持つ鎌田さんが、無期懲役を打たれた事に納得がいった。

「とにかく、この闘争は負ける訳には行きません。そして私達が戦う事により、今まで鳴き寝入りをしていた同囚が、眼を覚ましてくれれば好いですね」

「担当看守と言う羊飼いに追われて、毎日自分の意志はなく動作時限の通りに動いている内に、人間は骨貫きにされ餌を求めるだけのヒツジに成ってしまいます。自分は何のために生まれてきたか。ここの懲役たちは考えたことがないでしょう。私達が戦う事により、懲役たちを覚醒させましょうか」

『サンデー毎日』は鎌田氏が、事件の詳細を綴った手紙を弟さんに出し、それを『サンデー毎日社』に届けて記事に成った。

更に、フリーライターの亀井洋二氏が、宮城刑務所まで何回も足を運んで書き上げたものであるが、取材の為に総務部長に面会を申し込んだが断られた。宮城刑務所看守暴行事件は、暴行を受けた者三人が刑務所に入っている者の人権を守るための『監獄人権センター』に訴え『監獄人権センター』が民事で訴えを起こした。その為に私の処へ『監獄人権センター』の副所長であり、法務大臣の諮問委員をしている明治大学の菊田幸一教授が来て事件の事情を聞いた。そして、忘れられないのは、数いるヤクザの親分の中で、大阪の清勇会の川口和義会長から、心熱きハト(密書)が飛んできたことである。

川口会長は自分でも冤罪と戦っていて既に、二十年以上経過して未だ、毅然として冤罪を晴らすべく裁判を続けている男である。

ハトには様々なことが書いてあり、『私に出来る事があれば何でも言ってください』と結ばれていた。然し川口氏に私は何も頼まなかった。だが川口会長は動き出していた。それは看守暴行事件の民事裁判の証人が、刑務所側から圧力をかけられた時に、説得すべくハトを証人に飛ばして、翻意するように諫めたが、それが発覚し府中刑務所に移送されてしまった。私が夜間独居に移室した時の三房ばかり、隣に居て色々気を使ってくれた、宮城刑務所にいた数少ない男の中の男である。この時に川口氏は冤罪の裁判をしていたので私は、色々気を使ってくれたお礼の意味でこんな歌を贈った。

 

穿てども鏨の立たぬ岩でさえ草木の根の張る時も来るらん

 

またその隣の房には四代目山口組竹中正久組長に、ヒットマンとして石川裕雄達と共に我が身を省みずして飛んだ田辺豊記氏がいた。夜間独居の先輩として舎房掃夫に言い付けて、室内の備品まで新しいものに代えさせてくれた。

無期刑なので未だ、宮城刑務所に入れられている。田辺氏にも短歌を二首贈った。

 

朝露のきらめきに似たたまゆらの男の道の夢の儚き

益荒男の夢のさくらは散りぬれど目くるめく世にやがて咲くらん

 

鎌田氏の最初に贈った歌は鎌田氏が人に頼んで私に渡してくれと言って持って来させた深紅の紅葉の葉一枚を何故私に渡したのだろうと考え詠んだものである。

 

革命の夢の潰えし無期囚にわさたれし紅葉血の色をす

 

 

坐禅てなんだろう

私は誰に指導をして貰うことなく坐禅を続けた。それでも何の変化は起こらなかった。然し、看守暴行事件で、刑務所側に逆らい闘争を始めた時に、金沢と言う宮城刑務所でも一番悪いと言われた看守に理由もなく規則違反として、独房に入れられてしまった。そして、その頃は医務課では私の体は『肝硬変末期』と診断を下しておいて投薬もしてくれなかった。昼夜独居は四年以上、東京拘置所で経験しているので、全く苦にならず寧ろ清々した気持ちでいられた。それまでは朝飯を食べると工場に出役しなければ成らないので、忙しく本当に落ち着いて、坐禅をする事が無理であったような気がする。昼夜独居では、二十四時間部屋にいるのだから、自分で決めた時間に何時間でも坐禅をする事が出来た。その頃の坐禅をした時の記録を紹介しよう。

当寺使用していた大学ノートを見ると『坐禅記』とある。

 

平成十七年六月二十八日

夜が明けたばかりの窓に外は霞が立ち玄妙な感じがした。この様に早い朝、座ったのは久しぶりなのでなぜか懐かしい気持ちがした。

 

二十九日

小周天の呼吸法で気息を整えて、三十分位した時に窓外に囀る雀・山雀・鶯・鵯・鴉の声が異常に大きく聞こえてきた。暫く聞いているとそれぞれ、勝手に囀っているようだが、実は自然と言う楽譜を共に奏でているのである。

この様にして百日間坐禅の記録を綴っていったのである。全部紹介をすると切りがないので一部抜粋をして書き綴る事とする。

 

七月三日

吾も人も眼に見えぬ偉大な宇宙の力で生かされ、一生を通じて修行させられている。人生を苦であるとして苦を与え、苦しみの中に喜びがあるという事、喜びの中に苦しみが潜んでいる事、愛の中に憎しみが潜み、憎しみの中に愛がある。坐禅はあの手この手で教えてくれる。

 

七月四日

生きるという事は苦であると佛教では説いている。鉄格子の部屋に入れられて規則で縛られ食事は最低、作業は厳しい。これ苦でなくてなんであろう。佛教では人が必ず受ける苦しみとして、四苦八苦を上げ、その苦しみから救われる方法を解いているが、生きて行く上での苦しみに、どっぷり漬かっている私としては、苦しみから救われる方法は、日々の生活で小さな事でも喜びを感じ小さな事でも、他人に喜びを感じさせることであると思う。何気ない人の善意は、我が喜びと成り、何気なく人に善意を施した時は、人の喜びと成り、我が心も豊かになる。一日に九つ苦しみがあっても、一つの喜びがあれば、その日は幸福であったと思えば善いだろう。

 

七月五日

私は宇宙にいて私の中にも宇宙がある。宇宙は私であり、私は宇宙である。突然キジバトが、ククココロー、ククココローと啼いた。郭公と同様、私に何か教えてくれているのだろうと思った途端、キジバトの啼き声は喰喰心・空空心・苦苦心と聞こえてきた。喰喰心とは分別に心を食われず自分の持って生まれてきた純粋な、拘りのない心を大切にしなさいという事であり、空空心とは難しい事は考えずに、心と頭を空にしなさいと思えた。苦苦心は苦しみの全てが心の置き所次第で喜びに変わる事であると思えた。

 

七月六日

老いるという事を考えていた。生老病死の四苦は連鎖していて万人に平等に与えられている。然るにこの苦しみから逃れるのには如何したら良いかなどと考えていたら、窓の直ぐ傍で鴉が「喝―」と一声啼いたので我に返った。

 

七月七日

両親によりこの世に生を受け、天若しくは、御仏に魂を吹き込まれ任侠という修羅道に生かされ、この世の地獄とも言われる監獄に座っている。これは全て生まれて来る時に、天若しくは、御仏により決められていた既成事実を踏襲しているのではないだろうか、私の人生をこの様に決めてくれた天若しくは、御仏の心は何処にあるのだろうか。

 

七月九日

何が起ころうと何をされようが 泰然自若としている事が、禅を遣っている者の真骨頂であり、これを指して不動心と言うのではないだろうか。朝露の流れ込む独房で坐禅をしている眼の前を羽音を立てて瞬時、キジバトが飛んで行く、広い宇宙から思えば、人の生涯と言うものは、窓の外を瞬時、飛んで行くキジバトの様ではないか。その短い人生を煩悩に捉われて生きて行くことは愚かであるとしか考えられない。

 

 

七月十日

眼の前の草は、風に靡いて揺れている。檜の樹は動かず枝は揺れている。風が止めば両方とも静止して、今まで風が吹いていなかったように、取り澄ましている。坐禅をしている者は、檜の様に何事が起きても一時的に心が揺れてもその事に何時までも拘泥しないで、風が去った後の檜や雑草の様に、元の姿に立ち返らなければ成らない。でないと何のために坐禅をしているのかが分からなくなる。

 

七月十二日

雨音ばかり聞こえていた。雨は大地に恵みを与え、大地の汚れを洗い川に流れる。奢れる者には洪水と成り鉄鎚を下し、正しき者には力を与える。海に流れ込んで洋々として、その広さ深さから人に心の在り方を教えてくれる。陽の光により熱されて蒸発して雲と成る。雲と成りやがて、雨と変じ元の姿に立ち返る。輪廻している訳である。然し、我々が六道に生死を繰り返しているのとは違い、人に語りかけ人を善導している様は、天若しくは、佛の様である。

 

七月十四日

人は死んで又、六道のどこかに生まれて来ると言う。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上である。刑務所は社会の常識が全く通用しない所である。規則・規律に縛られ、それを行使する看守は将に、地獄の悪鬼・羅刹の他ならない。即ち刑務所はこの世の地獄である。食事は決められた時間に、決められた量しか食べられない。しかも不味い。常に不満を言っている収容者は、餓鬼である。男ばかりの生活であるから、購入する本は若い女性の裸の写真集で、それを眺めてあらぬ妄想を抱く挙句は、自分で和ぐさめる畜生道である。刑務所の中に入れられる者は法を破るくらいだから、自分勝手である。自分の思う儘にならぬと人を恨んだり、憎んだり、疑って見たりする。これは修羅道である。人は刹那・刹那六道を彷徨っている。六道を彷徨わない心を持つことも坐禅をする意義があるのではないか。

 

十月五日

今朝は暗い内から起きて坐った。一時間以上坐っただろうか。結跏趺坐した足は坐所に根が生えた感じで不動であり、上半身は空気が通り抜けるような透明感が有った。百日禅を坐って、私自身何を掴んだか。答えは何も掴まず何も変わらない。唯、確かであるのは『自分は自分でしかない』という事である。何処にあっても自分の主体性を失わずにいられると言うか『随所に主と作れば立つ処皆真なり』に近いものであるの違いがない。腹式呼吸をつづけたので体調は良くなった。又、煩悩多き身である故、坐って雑念が湧いて来てばかりいたが、今は全部排泄されて脳内はいたってシンプルになったような気がする。

 

私の坐禅修行の一部分を紹介したが、警備副隊長による収容者暴行事件との闘争を止める事はなかった。だが、天は私をもっと修行をさせようと待ち構えていたのである。平成一七年十二月二十八日仙台地方検察庁から、私が告発した警備副隊長の暴行事件は不起訴と言う通知が届いた。日付けを見ると前日の午前中に届いていたのが解った。その事が何を意味するかを、舟木先生に年が明けて面会をして、直ぐに解かり、私は刑務所に対して義憤を感じずにはいられなかった。

(公務員は保身が第一と言うが、これ程まで汚い野郎ばかりか…)

 

 

内なる修羅

平成十八年一月元旦・刑務所の正月である。粗末な物であるが、一応お節料理が出る。私はお節料理を食べながら、塩野七生先生の『ローマ人の物語』の最高の見せ場であるカエサルが、ルビコン川を渡ろうとしている部分を読んでいた時である。廊下を安全靴の音をドタバタさせて正月勤務の看守が、私の部屋の奥にある鎌田氏の部屋の方に駆けて行った。何事が起きたのかと思い廊下側の窓に顔を付け聞き耳を立てた。

「鎌田大丈夫か。鎌田如何したのだ。確りしてくれ!」

この看守の言葉を聞き鎌田氏に、異変が起きたと思った。そのまま窓側に眼を放さず見ていると看守の後に胸を片手で押えた鎌田氏が、項垂れて怠そうに歩いて来た。

「鎌田さん。如何したの。大丈夫?」

と私が反則を覚悟で話しかけたが、鎌田氏は応えず私の方を見ないで通り過ぎて行った。私が呼んでも応えられない程、何所かが悪いのかと思った。然し、それを看守に聴く事が出来ない。仕方がないので『ローマ人の物語』を読み続けていた。一時間程して、先刻、鎌田氏を連行して言った看守が、還ってきたので報知器を上げて看守を呼んだ。

「ようっ、鎌田さんは何処が悪いのだ。病舎に入ったのか?」

「医務課に行き先生に見て貰ったら『心筋梗塞』で直ぐに手術をしなければ命に差し支えると言うので、社会の病院に直ぐ運んで今頃、手術を受けているだろう」

「そうか。心筋梗塞か、手術が上手くゆくことを祈るのみだな」

「早く解かったから良かったが、手遅れだったら、今ごろ死んでいたかもしれない。それにしても良かったな」

「早く。病舎に連れて行ってくれてありがとう」

看守は頷いて私の部屋の前から去った。

(さて忙しいぞ。取り敢えず弟さんに、電報を打って報せよう…)

四日間の正月の明けるのが、待ちどうしかった。正月が明けたら、やることが二つばかりある。勿論、鎌田氏の弟に電報で、心筋梗塞で倒れた事も知らせなければ成らないが、検察庁から不起訴通知が、ご用納めの二十八日に私に告知された事。これには何か法務省の詐術があると考えていた。五日に成り電報で舟木先生に知らせると、その日の午後に面会に来てくれた。面会をすると開口一番先生は言った。

「汚い事をする。これは私達が『不審犯請求』をするのを承知で、去年の二十八日に不起訴通知を出したものです、良いですか。不審犯請求は不起訴に成ってから、一週間、即ち、七日以内に堤出しなければ無効です。それにしても汚い!」

「もうだめですか。何とか所長の首を獲りたいのです」

「こうなったら、菊田教授達と共闘して、民事で行くしかありません。髙田さん。CPRと一緒にやりますか」

「民事など例え勝訴したところで、警備副隊長が懲役に行くわけでもなく所長は、トカゲのしっぽ切りでしらばっくれてしまうでしょう」

「未だ、何とかなる手があるかもしれないから、考えさせてください」

こうして、私達が刑務所に挑んだ看守による暴行事件の第一回戦は刑務所と検察庁の法務省側作戦勝ちに成ったのである。私がこの刑務所で許せないと思っている人物は、所長の平川忠輝・警備副隊長の小野進・警備隊の秋元・一般看守の金沢である。こうなったら、ヤクザの奥の手で行くしかないかと思う様になっていた。然し、坐禅をして人の命の尊さやどんな人間でも善性を持っているということが解かっていたから、決断できずにいた。この頃は、昼夜独居から工場に下りて、夜だけ独居で生活をする夜間独居に成っていた。工場は第七工場で私は、神社佛閣の護摩札を制作していた。肝硬変間末期と以前に診断をされたので、六ヵ月に一度内視鏡で検査を医務でしていた。何時もの様に使い古されたように、太いパイプで出来ている内視鏡スコープを涙を流しながら、涎を垂らし飲み込んでいたら、我妻医務部長が驚いたような顔をした。

「癌ができている。精密検査をしてみないと断定はできないが、癌に間違いがない」

私は驚いたが、元々坐禅を遣る事により、人の生死については卒業していたから医務部長の我妻に言った。

「癌だと解かれば切り取ってくれ。それで好いじゃないか」

澄ました顔をして言ったので今度は我妻医務部長が驚いた。

「細胞を採集して精密検査にだす。その結果が解かったら、呼び出しをする」

医務からの帰り工場に着くまで、この様な時こそ(おとこ)としてどのように行動するかが大事だと思った。

工場に還ると既に、連絡を受けたと見え担当看守の佐藤が心配してくれた。

「癌だってなー、大事にしてくれよ」

「ありがとう。でも担当さん。俺が癌であることを皆に言っては駄目ですよ」

佐藤担当は人の好い顔をして、首をひねり何故かと考えていた様である。そして言った。

「解った。俺は髙田が癌であると誰にも言わない」

一週間後医務課から迎えが来た。医務部長の我妻部長の前に座ると私の眼をじっと覗き込むようにした。

「初期の胃癌です」

私は我妻部長が私を秤にかけていると思い。澄ました顔をして返事をした。

「ああ、そうか癌か、直ぐに切ってしまってくれ」

意識して無表情を装い椅子から立つと一礼をして診察室を出た。それから、一週間して又、医務課から迎えが来た。その儘、病舎の独房に入れられ二日過ごし、今度は、手術をする社会の病院に行き改めて内視鏡の検査をし手術日を決めた。三・四日食事をとらないで胃の中を空にし、社会の病院で内視鏡による胃癌の手術をした。

全身麻酔なので、何処をどうしたのか解からなかった。気が付いた時は宮城刑務所の病舎の独房にいた。余りにも小便がしたいので起きた時は真夜中で、小便をする時に尿道が鋭く痛んだ。手術をする時に、尿道へ管を通した後が痛んだのである。腕には四本の点滴が一ポンの管となり刺されていた。

この癌の手術をしたことにより、死を深く考え私は全ての欲から解放された。ヤクザとしても、これ以上偉くなりたくない。お金もいらない名誉もいらない。家もいらない。出所したら代行である嘉人に、三年位で引退をして、跡目を遣ろう。そして現在住んでいる家も嘉人に呉れてやろう。女房の民子も腰が悪いと言うから、今度は手を引いて散歩でもして仲良く暮らそう。

その様な思いに至った時に、妻の民子が娘の麗子と面会に来た。

「お父さん癌だと聞き心配で、心配で来たの」

「ありがとう。それよりお前は、大分腰が悪いと言うではないか。良い医師を見つけて手術でも早くしろよ」

「あまり私のことは心配しなくてもいいから、お父さんの方こそ頑張ってね」

その時に私には妻の影が薄くオーラが、無くなっているのが解った。禅を長くやった者にだけ解かる特別な天眼通と言っても良いものかもしれない。

(お母さん。俺にお別れに来たな…後四ヵ月私は出所する。それまで生きていて呉れないか・・・)

と念じていたが私の念は弱まっていて、妻に届くことはなかった。

私の出所一ヵ月残して、妻は脳梗塞で身罷った。

(愛する妻よ。何故、先に死んでしまったのだ…)

私は部屋に帰ると独房の中で、心で慟哭を繰り返した。そして、妻の供養など出来ない懲役だから、妻の顔を思い出しながら『観世音菩薩』の絵を画いて裏に延命十区観音経を写した。現在家の仏間に額に入れて架けてあるが、仏間に入る時は、必ず観世音菩薩に手を合わせ『お母さんありがとう』と呟きお母さんの成仏を祈願し『愛別離苦』実感している。

 

 

さらば友よ

約八年間服役した地獄の宮城刑務所と別れなければ成らない時が来た。刑務所との闘争は民事の方でCPRの先生方の「弱きを助ける」と言う任侠の根本である精神を天が見ていて、前例がない刑務所側が負けると言う判決が降りた。私としては物足りない思いであるが、一応、好として、看守暴行事件に対し気持ちの上の形を付けた。私がもう直ぐ出所すると解かると、七工場に来てから出来た学問仲間が、皆寂しがり、毎日私の傍を離れなかった。山口組の宅見組のヒットマンで、中野会との抗争で先陣を切り十五年の刑を受けて務めている後藤正巳・同じく山口組の平田公章・佐藤一・稲川会の横須賀一家の樺沢秀雄・七熊一家の三神君等七工場へ来るまでは、手の付けられない刑務所側から見ればとんでもない者たちが、私の話を聞き本を薦められてそれを読み咀嚼して、自分のものにして男として大きく成長していたのを見て私は嬉しかった。短歌も教えておいたので皆、短歌を詠んで私に贈ってくれた。この時、既に男達は、片意地を張り、俺は偉いのだと言う似非ヤクザと違い黙って座っているだけで、男と言う矜持に包まれたオーラが出ていて、近寄りがたい雰囲気を醸しだしていた。然し、宮城刑務所の中にはヤクザという任侠の道に憧れて、挙句は逮捕され服役の身となり、何も考えず生活をして、怠惰に流され男として落ちて行く者が多くいた。入浴は五日に一回ずつ、入る事が許されているが、私達夜間独居の者は後列に並ぶので後ろから見ると刺青のオンバレードで七十パーセントの者が、仕上がっているいないは、別として刺青を入れていた。

私はこの刺青を見て、この者達も娑婆でやり残した事が多くあると思い万感の思いで次のような歌を詠んだ。

 

おとこ等がいなせを競う獄の風呂点睛を欠く龍の寂しき

 

刑務所側では、私と鎌田氏は絶対に顔を合わせない処置を取った。宮城刑務務所と言う所は何でも悪く取る性悪論者ばかりである。私と鎌田氏で一緒にいると同囚を使嗾して、暴動まで起こしかねないと考えているのである。鎌田氏もそうであるが、同囚を善導する事はあるが、悪い事を唆したりはしない。切っても切れない知己との友情は顔を見る事がなくても、固い紐帯で結ばれている。鎌田氏の顔を見る事も話す事も出来ずに、出所する事に心残りはあったが。君子の別れは涙を誘うものであると言うのを白楽天か誰かの詩で読んだのを思い出してハト(密書)一通出さずに私は出所・五日前に上がり房に移った。鑑みるに宮城刑務所での八年間は、男としての矜持を貫いた心算でいる。入所して初めての冬、俺は娑婆では組長をしていると言う男が『寒い。寒い』と肩をすぼめているのを見て私は、嫌悪を感じた。組長には、組長の誇りがあり、誇りを捨てては組長ではなくなってしまう。私は五十七歳で宮城刑務所に行ったが、その時から冬が来ても、ラクダ色の長袖の下着シャツと股引は身につけなかった。それにより男とはこの様な中でいかに生きたら良いかという事を見て学んでほしかった。そして、二人の知己を得た一人はバリバリの左翼の鎌田俊彦氏で、この人には今まで短歌しか詠まない私に、文章を書く喜びと世界に向けた視野を開かせてもらった。鎌田氏は無期懲役である。出口のない暗渠に入った状態の中で自分のスタンスをぶれることなく貫いている人で、このような男を何時までも刑務所に入れておく事は国家の損失であると常に考えている。鎌田さん生きて出てきてください。又、既に社会復帰している『財団法人日本易学推進機構』代表・岸本龍雄氏は、純粋な右翼である。民主党の石井絋基議員を刺殺した似非右翼の伊藤白水の様に自分の犯した犯罪に酔っているような馬鹿者が居たが、岸本氏は現在、代表をしている『財団法人日本易学推進機構』を二年六ヵ月で止め国の為の成る人材を育成すると言って居る。男としての行蔵(進退)を知っている人物である。左翼と右翼の掛け替えのない友人との邂逅があり、それまでは恰好だけの坐禅も自分なりの境涯に達して偈まで残すことができた。

 

天無窮にして万象を拒まず

雲悠々として事物に拘わらず

地豊穣にして万物を育成する

水変われどもその性不変

 

宮城刑務所での八年は私を大きく変えたと思う。最後に私の好きな詩を詠んでこの辺の終わりとする。

 

風蕭蕭として易水寒し壮士ひとたび去ってまた還らず

 

宮城刑務所の事は、未だ書き足りないが、書きだしたら切りがなくなる。この刑務所で刑務所と闘争をたった二人で戦った事と左翼・右翼両極端な知己を得た事。そして、社会の常識は宮城刑務所の不常識であるという事と人間の尊厳を躊躇うことなく踏みつぶす者達がいる事、宮城刑務所での生活は私には未知の世界であった。その未知の世界で掛け替えのない修行をさせて貰ったと思えば今は、恨みも憎しみも無い。願わくは再度看守が理由もないのに収容者に暴行を加える事がないように祈っている。

 

 

出所

宮城刑務所に於いて、十二年刑期を務めあげスーツに着かえ刑務所の門に向う時、十五名ほどの警備隊が、私の周囲を取り囲み門から出るまで警護をした。出迎えに来てくれたのは、稲川会八代目八木田一家小谷野一朗総長と高田組組長代行の田中嘉人・本部長の松本高雄の三人である。

刑務所の規則でヤクザが出所する時に三人以上、出迎えに来ると翌日の朝まで出さないと言ういつ誰が決めたのか、やくざと刑務所との不文律が出来ていた。私としては、兄弟分の岡野秀雄に迎えに来て貰いたかったが、岡野は私の出迎えの要請を断ってきた。『俺はもう稲川会とも相之川一家とも関係がない。出迎えは御免蒙ります』少年の頃から共にヤクザに成り、助け合ってきた岡野に、ヤクザと関係がないと言いつつヤクザ言葉で『御免蒙ります』と言われたので寂しさなど消し飛んで、笑うに笑えなかった。宮城刑務所の門が開くとそこには、八木田一家の小谷野一郞総長が直ぐ前に立っていて言葉をかけてくれた。

「髙田、長い間ご苦労さん」

この一言に小谷野総長の万感の思いが籠っていた。

「この様な遠い所まで態々、お迎えに来てくれまして感謝しております」

田中も松本も嬉しそうに笑っている。

「親分。皆が別な所で待っていますから、車に乗ってください」

私が眼にしたことがない黒い車(アルファード)が、門の直ぐ傍に止めてあり、運転をしていた小田切が自動ドアを開けた。後部座席に小谷野総長と乗りこみ小谷野総長が、私の裁判を一日も欠かさず傍聴に来てくれたことに対してお礼を言った。

「裁判中は番度、傍聴に来てくれてありがとうございました」

「そんなことはないよ。髙田は内から出た人間だ。その髙田の裁判に出るのは当たり前ではないか」

この言葉を聞き果たして、小谷野総長が裁判を受けている時に私は、毎回傍聴に行けるだろうかと考えた時に、この男には敵わないと思った。

ヤクザは一家名で相手の総長を呼ぶ時もあり、また、縄張りの地名で呼ぶことがある私は八木田一家の総長である小谷野氏を地名で呼んだ。

「深谷。あんたのその誠実さと、渡世に対する真摯な心がけに俺は負けたよ」

「江南。そんなことなないよ。俺は当たり前のことを遣っただけだ」

あくまでも、謙虚な小谷野総長は社会にいて、様々な出来事に遭遇して大分苦労をしてきたなと感じた。

十五分ほど車に乗って行くと左側に名を忘れてしまったが、レストランが有った。

レストランの駐車場に私を乗せた車は止まった。車を降りると二百人くらいの様々な組織の頭立ったものが待っていた。

「ご苦労さんです」

「ご苦労さんです」

「ご苦労さんです」

次から次へと私に声をかけてくれた。全員が少し落ち着いたのを見て出迎え人の中央に私・右に小谷野総長・左側に田中・松本が立ち髙田組組長代行である田中嘉人が、私の放免の挨拶をした。

「本日は公私ともお忙しい中、私ども親分の放免に際しまして、御多忙中に拘わらず大勢の方々がこの様にしてお出迎え下さりまして、誠にありがとうございます。ご覧の通り親分、髙田宰夫は矍鑠(かくしゃく)としております。本日皆様に温かいご厚情に接しまして一意専心・侠道に精進致して行くと申しております故、今後共、宜しくご厚誼を賜りますよう心から、お願い申し上げます。尚、過分なるご祝儀をも賜りまして、私達関係者一同厚く御礼申し上げます」

(嘉人も挨拶が上手く成ったな。これならもう大丈夫だ…)

関西では山口組・東組・関東では稲川会・住吉会・松葉会・的屋では極東会・枡屋一家・寄居一家等の代表者が、出迎えてくれた。そして別れ際に皆、挨拶をするか握手をして帰って行った。私は各会の者達に、レストランの駐車場で出迎えられて漸く、社会に出たという実感が湧いてきた。

(遠路のところ皆有難う…)

刑務所の門を出て車の中で松本から、渡されて火のついた『ダビロフ』を手にして吸った時は煙草の味があまりわからなかったが、代行が立派な挨拶をして出迎えの者が解散した後の『ダビロフ』は美味いと感じないわけには行かなかった。『ダビロフ』は十二年毎懲役に入る時から、私が好んでいた煙草で、寡ってのアランドロンも吸っていた煙草である。当時は六本木の鈴木煙草店か、ホテルオークラの売店にしか売ってなかった代物である。この日の為に代行である田中嘉人が用意をしてくれたものであった。もっとも田中嘉人は十七歳の時から私の家の部屋住をして、私の傍にいて三十年以上、私を見てきている男である。私の痛い所もかゆい所も全部わかる私の秘蔵っ子である。車の窓の外の景色を見る暇もなく小谷野一郞総長に、現在の稲川会がどのように変わったかレクチャーを受けている内に、アルファードは仙台駅に着いた。この様な時間でも仙台駅は人が多くいて、その雑踏の中、改札口を出て東京行きの新幹線のホームに向った。新幹線の窓からは、緑色が濃くなり背丈が伸びた稲が風に靡いて初めて草原に出たように爽やかさを感じた。然し、刑務所の小さい部屋で生活を十二年もしてきた私には、緑豊かな水田を何時までも見ている事ができなくなっていた。動体視力が異常に落ちてしまったのである。水田を眺めながら、涙が出てきた。新幹線は小谷野氏のレクチャーを受けながら、郡山・大宮・上野に停車して東京駅に着いた。

東京駅では熊谷相之川一家日永孝三総長が、何人か若い者を連れて出迎えてくれた。

「叔父さん。御苦労さまです」

「うん。ありがとう」

兄弟分の岡野秀雄の若い者であった日永が、私が服役していた十二年の間にまさか、相之川一家の総長に成るとは思っても見なかったことである。

(俺にはこの十二年は短く感じたが、社会の十二年は有為転変として定まる事がなかったようだ…)

東京駅から用意をしてあった車に乗り、六本木にある稲川会総本部に私たちは向った。元は防衛庁のまん前に有った稲川会総本部であるが、今は防衛庁が取り壊されミッドナイトタウン等と呼ばれていると車の中で田中嘉人に聞いた。稲川会総本部がある八千代ビル六階に行くとそこには、木更津氏の三日月一家の小原忠悦総長が、稲川会幹事長としての威厳を以て迎えてくれた。

「幹事長。只今戻りました。私、在監中はいろいろとお気づかい有難うございました」

鷹揚に頷き幹事長は応えた。

「ようっ、大変だったな。身体の調子は如何だい。まっ、ゆっくり休んで体調を整えて下さいね」

すると、部屋に稲川会の内堀和也理事長が、大股で歩いて来て私が立って挨拶をすると握手をしてきて固く結んでくれた。腕振りながら微笑んだ。

「ご苦労さん。ご苦労さん。何年務めたのよ」

「十二年です」

「それは大変だ。先ずはゆっくり休んで体調を整える事だな」

「ご心配お掛けして、申し訳ございません。今日後、稲川会の為に一意専心して渡世に精進致します故。理事長には宜しくご指導の程宜しくお願い申し上げます」

「解りました。高田さんも未だ、歳ではありませんので、頑張ってください」

「有難うございます」

こうして、三十分位、その場にいた大場一家山崎功総長や幹事長・遠藤道夫本部長を交えて刑務所の話題に終始して、時を過ごし小谷野氏と共に本部を後にした。

 

 

内田光子ピアノ演奏を聴く日々

そして北関東ブロックの総長達と共に、六本木の総本部を出て車に乗り、埼玉の深谷市にあるサンルートホテルに向かった。稲川会北関東ブロックは新潟の巽一家の小林年男総長が、ブロック長をしていて八木田一家小谷野一郞総長・上州田中一家鈴木郁夫総長・江戸屋一家石井堅三郞総長・相之川一家日永孝三総長・共和一家宮一基之総長・前橋一家堺昭彦総長、柴田一家山形平四郞総長から、構成されていて私の髙田組を入れると八家に成る。この八家の私を除いた総長たちと相之川一家を引退して、直も稲川会最高顧問としてその地位に酔っていた和田嘉雄氏が出席しサンルートホテルの十階当たりの部屋で私の放免祝いは、秘密裡に行われた。お祝い金二百五十万円を頂きサンルートを出たのは一時間後である。

帰りがけ柴田一家の総長が声をかけてきた。

「親分。平四朗ですよ。新潟刑務所でお世話になった」

直ぐ思い出す事が出来ないでいたが、確かこの様な者を新潟刑務所で可愛がってやっていたなと気づいた。

「平四郞偉くなったな。良かった好かった」

「今後共、宜しくお願い致します」

私は平四朗の肩をぽんぽんと叩いた。平四朗は嬉しそうな顔をしてお辞儀をして私から離れた。北関東ブロックだけの放免祝いを終えて、自分の家がある熊谷市の江南町に戻った。家の玄関を入ると若い者達が正座をして私を出迎えた。

「親分ご苦労様でした」

疲れ気味の私に喝が入ったように、身が引き締まったが、私は寂しさが突然湧いてきた。妻の民子がいない現実を身を以て感じたからだ。

(民子。君はもうこの世にいないのだね。俺は如何して生活をして行けば良いのだ…)

家の二十畳敷きの部屋に入ると若い者や私の渡世上の縁のある舎弟たちが、こぞって来て宴席に座っていた。的屋で私の留守に山口組に入ってしまった熊谷枡屋二十八代目の若林真一が私の前に来て正座をした。

「兄貴。兄貴の留守に、山口組に行きましたが。ご了解下さい」

「解った。本来なら、一悶着ある所だが、山口組は稲川会とは親戚だから良い事じゃねーか」

「兄貴に解って貰い有り難く思っています。私は以前と変わらず兄貴に対しては付き合って行きたいと思いますので、宜しくお願い致します」

「解ったそれ以上、言うのではない。若林」

宴席は二時間くらい続き終わった頃は、真夏の日が西に傾きはじめていた。

若い者の何人かは事務所で泊まっていたが、家の中には松本と田中がいた。九時頃に成ると松本は自分の家に帰った。

その後、自分の子である以上の仲である田中嘉人は家に泊まった。

「もう、祝いも終わったのだから家に帰れよ」

「そういう訳には行きません。親分一人残して帰れません。当分、私は泊まります」

田中も十三年、懲役を務めながら、随分寂しい思いもしただろうし、悔しい思いもしただろう。人の寂しや悔しさばかりではなく、悲しみまで慮ることが、出来る人間に成ったと私は感じた。十八畳ある私のリビングで、一人でいると別な部屋に寝ている田中が、入って来て一人でソファーに座って私に声をかけた。

「親父さん。テレビは観ないのですか」

「同じ刑務所を務めて知っているだろう。俺はニュースでも共同通信社から事実を削げ落された本当でないニュースが情報源である事を知っているから観ないのだ」

田中は黙って箱に入った一枚のCDを渡した。何だろうと思い箱を開くと『BEETHOEN PIANO CONCERTOS KLAVIERKONERTENo.3&4と言う表紙が出てきてMITUKO UCHIDA(内田光子)と書いてあったので直ぐにリビングのCDプレイヤーに入れさせた。

ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37第一音章ハ短調二分の二拍子で協奏風ソナタ形式完結の中に悲壮感が漂っていたが、妻も無く独りリビングで物思いに耽る私にはこの曲は私の為にあるのかという錯覚に陥る様に、琴線に響き気持ちが坐禅を遣っている時と同じに落ち着いてきた。

「嘉人これは良いな。心に響く」

そしてこの際だから、田中嘉人に話しておこうと考え刑務所の中で癌になった時に考えていた事を田中に話した。

「嘉人俺は早くて三年、遅くて五年で引退する。跡目はお前だ。そして、この家も嘉人に遣る」

「親分。そんな事は言わないでください。私は親分がヤクザを引退した時に、一緒に止めます」

「馬鹿野郎。何を言っているのだ。お前がやヤクザを止めたら、髙田組はなくなるぞ。それと今、懲役に行っている二十人からの若い者の帰る所が無くなってもいいのか」

暫く、俯いていた嘉人は、決心が付いたような顔をした。

「解りました。でも親分三年とか五年と言わず、死ぬまでヤクザを遣って下さい」

「嘉人。好く聞けよ。組織と言うものは人間の体に例えれば、血管の様なものだ。その血菅に老廃物が詰まって来れば体を悪くする。それと同じで俺の様な年寄は、老廃物と同じだ。組織の老廃物が何時までも組織に残れば組織は機能しなくなる。分かったか」

「解りますが。親分何時までも私は、親分と渡世が執りたいのです」

「それと、こんど岩槻に返ったら、お袋さんと兄貴に相談をして、俺の養子に成れ。渡世も公でも俺の後を継ぐのはお前しかいない」

「解りました。こんど岩槻に帰ったら、お袋と兄貴に相談をしてきます」

内田光子のピアノ演奏を聞きながら、お互いに長い懲役を務めている内に、私と嘉人はすっかり変わってしまった社会で、どのようにして渡世を執って行くか話し合った。

「景気も悪いし、刑務所に行く前とは社会の事情が全く違う。嘉人知恵を絞って、この状況を打破して渡世を執らなくては駄目だ。俺は社会の事情に疎いが『断じて行えば鬼神も之を避く』とある。問題なのは本人にやる気があるかないかだ。明日でも若い者を集めて良く言って聞かせておけよ」

「はいっ、解かりました」

私が宮城刑務所の務めている時は、私の若い者が長い懲役を賭けてきたのに稲川会北関東ブロックでは放免祝いをするどころか、祝い金一つ渡して祝ってくれなかった。それには事情もあったろうが、私は納得がいかなかった。

だから考えた。

(俺が北関東ブロックで、放免の祝いとして貰った二百五十万円と別の組織の人達から戴いた。お祝金六五〇万円の内二百五十万円足して、五百万円を使い懲役に行き帰って来ても北関東ブックから祝ってもらっていない者を連れて一週間ばかり北海道に行こうそして、ゴルフをして皆に桂児(けいし)でも食べさせてやろう…)

「嘉人よ、松本・内島・高島達警視庁にパクられて、長い懲役に行った者達を北海道に連れてってやろう。お祝いもして貰わなかった者に、せめてもの俺からの慰労だ」

「それは良い事だと思いますが、親分時代が違いますから、余り派手な事はしないでください」

「ゴルフを俺はやりたいから、萩原を連れて行ってやろうか。服役中に面会に来てくれたり、如何せん俺とゴルフを遣るのを楽しみにしていたようだからな」

「そうですね。ゴルフのウエアから、道具類まで買って待っていた人ですから…」

こうして、翌週から北海道へ六人で、ゴルフ&美味しい物巡りの旅を遣ったのである。