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サンクチアリ

私は同時期・髙田組の者が八人もどうして、警視庁に逮捕されるように成ったのか、疑問に思った。警察が一つの組を集中的に壊滅するように、大勢逮捕するのには必ず警察の独りよがりでしかない大義名分があるはずである。

私は弁護士に聞いてみようと思ったら、その日、弁護士の中村先生が午後に成り面会に来た。不躾ではあるが先生に聞いた。

「先生。この度は私の組で、八人も逮捕者を出してしまいました。犯罪を犯せば、逮捕されるのは当然であるとは思いますが、集中的に組員を逮捕するという事の裏には何かがあるのではないですか」

「聞くところに因りますと、二カ月前から警視庁に暴力団髙田組壊滅本部が、設置されていたとの事です」

「埼玉県のヤクザを警視庁でやることからして、以上です。髙田さん。虎の尾を踏んだのかも知れませんね」

「虎の尾ですか…」

私の頭の中は、目まぐるしく回転をしていた。未だ、裁判の期日は決定されていないので、これと言う話をしないで弁護士は面会を終わり帰って行った。

部屋に帰り私は冷静になり、東京で起こした事で虎の尾を踏んだような事が有ったか否か考え始めた。

東京は魔界である。政治家・官僚・警察・その他諸々の鬼が、自分たちの権益を守るために、そこへ足を入れたものは容赦なく権謀術数を駆使し追い出そうとする。そして、罰を与える。罰を与える事により自分たちの権益に二度と足を踏み入れない様にする為である。『一罰百改』の実践である。自分たちの権益はイコール金である。生活の資金でもあるのだ。私は私が東京で歩んできた道を振り返った。

一、カジノの件

二、ジャンボの件

三、フリーメイソンの件

四、東京スポーツ新聞の件

この四件に絞れた。この中でも虎の尾を踏んだと思える事は、カジノの件が一番濃厚な線である。この当時、都心の軒並みカジノが経営されていた。元々、カジノは違法である。違法と分かっていながら、取り締まらない警視庁も異状である。だが、カジノを経営するのには次の様な裏があった。平和総銀事件と言うのを覚えている者は、多くいると思うが、その平和総銀事件で銀行側の小宮山家の大番頭である次郎丸嘉介は、表面に出てこなかった。次郎丸嘉介は、竹下昇と平和総銀の小宮山一族の間を行ったり、来たりして、平和総銀事件の黒子に徹した。

その為に事件が発覚しても、逮捕されることはなかった。平和総銀が破産をしてからは、自分で千葉県内と静岡県の伊豆に、ゴルフ場を経営していて財界の裏工作をしていた。次郎丸嘉介には、三枝と言う四十代の秘書がいた。この秘書は次郎丸に似てやり手で通っていた。三枝が次郎丸嘉介の関係を最大限に使いカジノの世界で、三枝を通さなければ都内でカジノ店は経営出来ないシステムを作り上げてしまった。それはどうゆう事かと言うと、違法であるカジノを経営するのだから、取締側に話を付けなければどうしょうもない。三枝は次郎丸の名前を最大限に使い警視庁の各方面本部長にまで食い込んで行った。

先ず。都内でカジノを経営したい者は三枝を頼る。三枝は何処どこでカジノを遣りたいと言っている者がいますが、何とか許可を出してください。と言う手紙をカジノを遣りたい地区に当たる本部長の奥さん当てに出す。返事は勿論奥さんが三枝に返す。この奥さんの手紙が、曲者であり、開店許可を出す警視庁の課の課長に大きな箱一つを、お土産の持って行きなさいと書かれている。大きな箱とは一千万円の事である。指示に従ってカジノを経営したい者がカジノを取り締まる風俗課の課長に、一千万円入った箱を渡して、許可申請をするのである。その時に課長は言うのである。

「店がある所轄署の係りに良く言っておくから、大事にしてやってください」

カジノを経営したい者は、警視庁に言って課長に聞いたことを三枝に伝えると、三枝はこういうのである。

「所轄の係りを大事にするという事は、毎月、百万円ずつ呉れて遣る事ですよ」

赤坂のサーカス・サカースと言う店は、畠山ミドリと言う昔の歌手の兄が経営していたが、警視庁に一千万円持って行き、毎月赤坂署のカジノ係りに、百万円づづ渡していたが、それを聞きつけた別な警察官が、俺にも毎月百万円寄こせと言って警察官同士で争いが起き新聞沙汰に成り、逮捕され警視総監も辞職した。この様な事を考えると私は東京と言う魔界のサンクチアリに足を踏み込んだのは確かな事であると思えてきた。こんな事実を知りながら、カジノの店に拳銃を撃ちこませ四軒ばかり閉店に追い込んだのである。然し、カジノに拳銃を撃ちこんだ件では、警察は何も調べをしなかった。その事を捜査すれば必然的の自分たちが、カジノからヤクザの様にカスリ(用心棒代)を取っていたのが公に成ってしまうからである。如何にしても、東京の警視庁は腐っている。カジノの一件だけをとってもこれであるからして、警視庁にサンクチアリはまだまだあるに違いない。

魔都東京は、今日も既得権益を守る戦いが、政治家や官僚・警察たちで続いている事であろう。日本の国の将来を考えた時に、現状を憂えるのは私だけであろうか。この東京拘置所での四年間は接見禁止である。接見禁止とは弁護士以外とは親族であっても話は出来ず手紙のやり取りもできず。本の購入も出来ない。こんな非人間的な措置は、幾ら裁判所でも許す事が出来ない。人道的問題である。接見禁止の理由として、接見禁止状に書いてあるのは次の通りである。

その理由として

一、被告人は証拠隠滅の虞がある為に、被告人の弁護士以外との接見を禁止する。

接見禁止は第一回公判が開かれればそれで好く。幾ら否認をしているからと言っても事件を起こしていない者に、事件を認めろと言われても証言のしようがない。

最近、冤罪事件の真相が解かり無罪を勝ち取った人が多くいるが、あながち警察の調べだけが悪いとは言えない。検察庁・裁判所にも責任があるのは勿論の事である。私は、朝夕の点呼で自分の番号の五三一番と言うだけで、四年間人と話す事ができなかった。然し、この四年間で言語障害は起きてしまったが、私は坐禅と短歌で自分が可笑しく成らない様に務めた。だから、今考えるとこの四年間は、現在の私にとって素晴らしい天が与えてくれたプレゼントであったのであろう。

小鳥の声に心を慰められ、運動場の片隅に咲くタンポポに力ずけられ、大自然に生かされていると感じたのもこの時からである。そして、阿修羅のような生き方をしてきた自分にも、野に咲く名もない花に感動する善性があるのが解ったのも四年間の接見禁止のお蔭であると今は感謝をしている。

 

 

接見禁止の四年間

愈々、無言の行に始まりである。まさか四年間も接見禁止をされるとは夢にも思わなかった。高を食って、せいぜい一年位のものであると考えていた。然し、自分で四年間も人と話をする事ができなければ、人間どうなるという事すら考えず、人の心の苦しみなどお構いなしの裁判官は、世間と人間を知らない唯の、司法試験を受かっただけの最低な人間である。私は社会にいる時に群馬県南牧にある黒瀧山不動寺の長岡良円和尚から禅の手ほどきはして貰っていた。一年に数回行くだけで悟りや無だとか空には全く関係がなく、ただ座るだけであった。接見禁止と言う無言の行が始まった時に、この際だからどの様な事に成るか分からないが、坐るだけ坐ってみようという気持ちに成った。私に於ける本格的坐禅の始まりである。然し坐禅と言うものは難解な物で、坐れば坐るほど次から次へと、消えては浮かび浮かんでは消える雑念から離れる事は出来なかった。それでも腹式呼吸をしながら、坐禅を続けた。一つの事に集中できるようになった時は、三年以上経過をしていた。朝二時間・夕方二時間その他の時間は弁護士に頼んで儒教と禅の本を差入れて貰い読み続けた。碧巌録・無門関・臨済録いずれも難解で私の手におう事ができなかった。独房での生活でも運動は一週間に、二度ずつ狭い場所で行ったり来たりする運動をする事が出来た。運動場への行き帰り、私は古いコンクリートが、剥き出しである拘置所の通路の亀裂にタンポポが咲いているのが目に留まった。タンポポは社会にいる時にゴルフ場でボールに間違えて、腹を立ててアイアンでなぎ倒した覚えがあった。然し、この時に観たタンポポは、私の琴線に触れた。

(こんなコンクリートの亀裂に生えているタンポポは、何て生命力が強いのだろう。花もよく見ると綺麗ではないか…)

この日から運動に行く時は、周囲に眼を光らせ歩いて行くようになった。青空の様に青くすっきりしている小さな花も見つけた。何と言う花であるかと思い部屋に帰り広辞苑で調べると『大イヌフグリ』とあった。

(何て酷い名が付けられているのだろう。植物学者と言うものは詩的情緒がないのかしらん…)

だから私は今でもタンポポと大イヌフグリが大好きである。そして坐禅を始めると、今まで何とも感じなかった花を見て感動する自分は、何者であるかと思うようになった。散々考えて考え抜いた時に、これは、私の持って生まれた善性であると気づいた。

(俺にもそんな心が有ったのだな…)

そんな思いで四年目を迎え、上告却下の通知が裁判所から来たので直ぐに懲役に成る為に上訴権の放棄をした。この頃は坐禅イコール短歌で、自分が可笑しく成らないようにしていた。その時の短歌をいくつか紹介をして、東京拘置所生活の章を終わりにする。

 

群生すタンポポに遊ぶ鶸たちの黄色き羽は花に染まるぬ

競いあい春の陽に咲くタンポポの黄色い花が羨ましけり

けたたまし音を立て駆られるタンポポの群生の後土煙の空しき

葉桜の緑目に染む今朝の窓昨夜の悪しき夢を洗いて

十年の刑期残せし免業の獄に空しくトゥモロウ流れる

芥子粒のごとき思いをもてあまし狭き独房悩み溢れる

懇ろに喪うことも出来ぬまま母身罷りて一年が過ぎ

母の死と別離裏切り様々で強迫観念心さいなむ

眩暈してCTスキャン潜る時シャッター音は老いの身竦ます

苦しみのはざまで喘げば死せしもの楽で良いから来いと言う

苦しくも生きながらえて故郷の土踏まずして何で死なりょう

めくるめく煩悩溢れ戸惑いし五十路の獄に有漏の身を知る

佛僧の安居に見紛う趺坐をして卯の花くさし獄に書を読む

独房の格子の枡に一字ずつ文字当て入れて短歌読む梅雨

鉄窓で羽化せし蝉の抜け殻を幽かにゆるがせ秋風の吹く

拙きは承知で私がこの様な短歌を詠み坐禅をして、己を保っていた事を知ってほしい。自分で好んでややこしい問題に入り、最後は投獄されて人間の尊厳まで否定されそれでも尚、男としての誇りを捨てず生きてきた私にとって、東京拘置所の接見禁止の四年間は話に聞けばひどいと思うだろうが、私にとっては天が私に人間修行をする場所を与えてくれたと今に成り思える。私の座右の銘は『吾道は一を以てこれを貫く』私の一はヤクザであるが、一を貫いた先には何があるかは分からない。想像するに本来持つ人間としての穢れのない心が、生れた時のように帰ってくるような気がする。生れて年を取りながら汚れ更に、老いの身に成り、汚れた物を取り払い生まれた時と同じ心に成り死んでゆくのが、人間として一番幸福であるのであろう。この先、私は何年生きるか分からないが、努力をして今までに着いてしまった生きて行く上で付着した心の汚れを払い、悔いを残さず死んでゆきたい。

 

懲役十二年の刑期を裁判所から申し渡され、東京拘置所に四年六ヵ月拘留されていたので私が服役する年数は、長期刑の最低限である残り八年と成った。再犯長期刑務所の事をLBと言うが、宮城刑務所に収容されているLBは、新聞やテルビで社会を騒がせたものが多く無期囚も百二十人もいた。だから、この刑務所では、悲喜交々で様々な人間模様を見ることができた。私も左翼の友人が出来その鎌田氏と刑務所側の理不尽な頻発する収容者暴行事件に対して、たった二人で闘争の狼煙を上げるのである。然し、鎌田氏は心筋梗塞で倒れ、私は規則違反をしていないのに独房送り、挙句は癌に成り、手術をして治ったと思ったら妻の死を知らされる。天と言うものは、私を人間的に成長させる為に、これでもか、これでもかと言う試練を与えてくれた。

 

 

小菅から宮城刑務所へ

平成十四年八月二十一日、払暁、私と現在『財団法人日本易学推進機構』の代表である岸本龍雄氏とたった二人で、法務省の大型バスに乗せられて東京拘置所の前を流れる綾瀬川の水面に薄靄がかかる中、仙台にある宮城刑務所に押送された。

護送する東京拘置所の看守は酷い奴で、官から支給される押送される懲役の弁当代まで掠める牢番と言う言葉が、ぴったりの意地の悪い者達であった。だから仙台に着くまで小便をする事はおろか、ジュース一本飲ませて貰えなかった。馬鹿馬鹿しいので、岸本氏と二人で髙村光太郎の『智恵子抄』の中の詩を話題にして、看守達を自分達の視界に入れないようにして、仙台市若林区古城にある宮城刑務所に着いた。宮城刑務所は歴史があり、明治時代・西郷隆盛の西南の役の際の捕虜を収容したのが最初である。正門を入ると詩人土井晩翠が、名づけた『幡龍の松』が両手を広げ待って居ましたという様に枝を伸ばしていた。

(後、八年か…何としても生きて出なければ成らない)

岸本氏は幡龍の松を見て何を感じたのか解からないが、込みあげて来るものが有った様である。一ヵ月の新入訓練を済ませて、私がこれから作業をする工場が決まった。靴を製造する工場で第六工場と呼ばれる柄の悪い者が多い工場である。岸本氏は女性のブラジャーを縫製している第四工場であった。私は岸本氏と約一ヵ月共に生活をして、この男は博学で理性もあり思想もしっかりしている人物であると気づいた。だから、岸本氏とこれから工場が別々になるのが解っていたから、自作の短歌を岸本氏に贈った。

 

霧深き五十路の獄の分されに君思う身を君に思われ

 

こうして正式には、岸本氏と十年間会う事が出来なかったが、今は知己と成り毎日電話で話をする間柄に成った。

扨て、私が配役(作業をする為に行く工場)に成った六工場には、自分で言うほどの大物は居なく、ただ一人禅僧の様に、解脱をした人間が持つ、アルカミックな微笑を常に湛えている左翼の鎌田俊彦氏がいた。鎌田氏は学生運動が盛んであった頃、新宿の追分交番に、クリスマスツリーに擬した爆弾を配下の者に仕掛けさせて、無期刑を受けている黒ヘル軍団のリーダーでもあった。この鎌田氏と私が友人に成るのに時間はいらなかった。左翼である鎌田氏と話す事は、正反対な事ばかりであったが、私は鎌田氏に新鮮さを感じ鎌田氏の言葉を漏らさず聞くようにした。唯一つ共通項があるとすれば、読書好きである事だけである。然し、鎌田氏と私の読書の志向は全く違っていた。だが電流のプラスとマイナスが引き合う様に、お互いに興味を持ちその為には、お互いを晒して話をした。私は短歌を詠むが鎌田氏は、俳句しかやらないという。全ての点で違っていた。だから、鎌田氏は私に西洋の本を随分紹介をしてくれ、私はそれまでは日本文学と歴史文学・それに禅系統の本と儒教の本だけを読んでいたが、塩野七生先生の『ローマ人の物語』全十五巻を紹介されて読んだ時は、自分の視野が広くなったような気がした。挙句は『カールマルクスの生涯』を薦められたが、私は敬遠していた。然し余りにも進めるので読んでみようという気になって『カールマルクスの生涯』を読んでみたら、難しい事は書いて無く、子沢山で貧乏・女房に弱い男でエンゲルスの支援が無かったらとても『資本論』と言う難解な共産主義者のバイブルと言える本はできなかったことが解かった。第六工場にはヤクザが多くいたが、私が他組織の葬儀や食事会であった顔は居なくて話が通じる者が居ないので、私は話をする事がなかった。それに、第六工場にいたヤクザは、群れを成す私が一番嫌いな刑務所に於いての輩である。群れをなし、ヤクザ週刊誌でヤクザの動静を知り、それを恰も自分に関係がある様に語り、他の者を圧する者が多く私は馬鹿馬鹿しくて、見ている事ができなかった。余りにも工場内を、俄かヤクザと言うか、私達は週刊誌ヤクザと呼んでいる者が、胸を張り歩いているので、私が戯れ歌を一首読んでみた。

 

工場を我がもの顔で闊歩する俄かヤクザの安蒲鉾よ

 

安い蒲鉾には板がついていない事を揶揄した歌であるが、鎌田氏は腹を抱えて大笑いをした。

「髙田さんあなたは歌が上手い!」

「ここの刑務所はLBの凶悪犯が多くいると聞いてきたが。ヤクザ者は皆、子供の様でチンピラばかりだ。眺めていてやっている事を見ると面白くてしょうがない」

どうしようもないと言えば堅気の者の中にも多くいて、笑いのネタには尽きない出来事が沢山あった。凶悪犯と言われた者達はまるで、吉本興業の芸人顔負けの者が多くいて、笑いには事欠かなかった。次にその吉本の芸人も顔負けの芸達者の者達を何人か紹介しよう。

 

 

 

バイアグラ&豚ウィルス

私達の工場に、茨城県生まれの猪狩と言う五十年配の強盗犯が、隣の五工場から、解体する携帯電話に電池が残っていたのを見つけ、自分のポケットに入れて毎日『写メ』と呼ばれているいかがわしい画面を見ては、便所に行き自分を慰めていた。それを看守に見つかり、処遇部門に連行されて取り調べを受けて『陰部摩擦罪』と『不正物品不正所持』の二件の規則違反で懲罰三十日を受けて元の工場である五工場に戻れず六工場に来たのである。猪狩が六工場に来た日の昼休み私と鎌田氏が、食卓を挟んで出版された本の寸評をしていると猪狩が傍に来た。

「今度、この工場で働きます猪狩と申します。宜しくお願い致します」

「解ったよ。処で猪狩さん。あんたは茨城生まれかな?」

「はいっ、自分は茨城生まれで、十人で強盗団を組み全国を回っていましたが、到頭パクられてしまい、ここの刑務所に入った訳です」

「全国を回っていたというが、埼玉県は回ったのかな?」

「埼玉県では江南町と言う所で、やばい目に遭いそうになりました」

江南町は私の家がある場所なので興味が湧いてきた。

「江南町で何かあったのか」

「怖い目に遭いました。江南町に大沼とか言う公園があり、その畔に和風の大きな家がありましたので、仲間と下調べに行き今夜はあの家を狙おうと決めました。一応と思って町に人にどんな人が住んでいるか聞き込みをしましたら、あの家はヤクザの親分の家で、若衆も荒っぽいから、近寄らない方が好いですよと聞き、その和風の家へ強盗に入るのを止めました」

「おいッ、その家は俺の家だ。お前殺されずに済んでよかったな」

「???…有難うございました。親分の家とは知らず失礼をいたしました。お陰様でこの通り生きている事が出来ています。親分は命の恩人です。有難うございました」

猪狩は深々と頭を下げた。既に、鎌田氏は大笑いをしている。私も腹を抱えて笑いたいのを我慢して微笑むほどにして猪狩に言った。

「今度出たら、家だけじゃなくて、その家に誰が住んでいるか良く調べてから強盗に入れよ」

「はい。そうします」

猪狩が起した爆笑問題は多くある。後、一つだけ紹介をしよう。服役者は入所する時に、自分のもっている私物の荷物・指輪・時計・その他、諸々の品物を領置される。

そして囚人服に着かえさせられて、毎日の生活で使用する物は、毎月一回の購入日がきまっていて、石鹸・歯ブラシ・歯磨き・チリ紙・ノートなどを買って生活をする訳であるが、出所三ヵ月前に成ると『私物調べ』をする事が出来る。それは、社会に出て行くのに、自分の着て出るものを確認する訳であり、又、領置してある物が何であるか調べ足りない物は、社会から送ってもらうのである。

詐欺で十年の刑期を務め終ろうとしていた佐藤と言う、小でっぷりしたメガネをかけた者が、出所三ヵ月前に成ったので、領置調べに行った。領置調べに付く看守は、領置専門にやっているから、普段反則を見つけ様として、鵜目鷹の眼になっている工場看守とは違いズバリ言えば鈍間である。佐藤は鈍間看守の目を盗み、領置してあるバイアグラを一錠ズボンとパンツに間に入れ隠し持って工場に還ってきた。幸いか幸いでないか、私には解らないが、佐藤と猪狩は同室者である。舎房に隠し持って入り、九時の消灯前に成ったので佐藤は言った。

「バイアグラを領置調べのときに持ってきたが、誰か飲みませんか?」

刑期が長く本で読んだ事しかないバイアグラに、興味を持っていた猪狩は、直ぐに佐藤に返事をした。

「俺は、未だ、バイアグラと言うものを見たこともないし、飲んだ事もない。是非・俺にバイアグラを飲ませてくれよ。佐藤さん」

「好いですよ。でもバイアグラは効きますよ」

五十歳を過ぎて、六十歳が目の前に来ている猪狩は、思ったのに違いがない。

(今夜はバイアグラを飲んで優子リンの写真でも見て、目いっぱいやってやろう…)

佐藤からバイアグラを受け取ると水も飲まずに、バイアグラの青い錠剤を口に中に猪狩は放り込んだ。

一時間もしない内に、猪狩が本棚から、エロ本を三冊ばかり取るために立ち上がった。部屋の者は猪狩が、バイアグラを飲んだ時から、寝ている振りをしていたが全員が猪狩の動向を観察していたのである。猪狩はエロ本を取るために、蒲団から立ちあがった時は、猪狩のジュニア―も既に立ち上がっていたのである。部屋の全員が盗み見をしているとも知らず、猪狩は日頃の疲れを癒すように、朝まで起きていて到頭、五回もジュニア―に安らぎを与えてしまった。ニュースが少ない刑務所の中において、この出来度とはビックニュースとして流れ、翌朝の工場内は、あっちでクスクスこっちでクスクス笑う声が聞こえたので、私と鎌田氏は何事が起きたのであろうかと、同じ班の藤原君に聞いた。

「皆、クスクス笑っているけど何かあったのか」

「親分、猪狩の馬鹿が、バイアグラを飲んだらしいです」

私もバイアグラと言うものを知らないので、藤原君に猪狩を呼んで来るように頼んだ。

「適当な用事があると看守に言って、猪狩を連れて来てくれ」

「解りました」

と言うと藤原君は、直ぐに手を上げて自席から移動することを看守に告げ猪狩の所に行き、猪狩を私と鎌田氏が並んで作業をしている横に連れてきた。

「猪狩、お前は何をしたのだ」

と私が問いかけた。

猪狩はバイアグラの効果を、他人に話したくてどうしょうもない様な顔をしながら応えた。

「親分。バイアグラはスゲーですよ。最高です」

笑いを堪えるのが、きつくてこの儘、ここへ猪狩を置いておくと腹がねじれる位に笑ってしまうと思えたので、笑いを我慢して猪狩に自席に帰るように言った。

「好かったな猪狩、これでシャバに行っても女性に対して、恥を欠かなくて済むな」

「頑張ります」

何を頑張るのか分からないが、猪狩はそう言って私達の席から自分の席に戻った。又、茨城県の者で申し訳ないが、放火で十年の刑期を持ってきた当時、七十歳のでっぷりした爺様がいた。芝の内一家の中島氏が、私に馬橋の爺様は同県人で年を取っているので、運動仲間にしてやってくださいと申しこんで来たので、運動仲間に入れてやった。然し、休憩時間と昼休みに遣る私たちの運動は、並みの人間ならすぐに泣きを入れてしまう位キツイものである。

スクワット百回・腕立て伏せ百回・腹筋百回と言うものである。中島氏の推薦なので運動仲間に入れてやったのは好いが、途中で鳥が絞殺されるような声を上げ泣きを入れるので、真剣に運動をしている者の邪魔に成ってしまう。仕方ないので私が馬橋の爺さんに言ってやった。

「さま爺、自分で出来る運動を遣っていいよ。それから鳥が絞殺されるような声はだすなよ」

その日から馬橋の爺様は、私達が運動をしている間中、腰をくねくねさせる卑猥な運動を始めた。堪らなくなり、後藤君が馬橋の爺様に言った。

「可笑しな運動をしているが、それはなんだのだ」

「儂の女房は、三十六歳だから出てから、女房に出来ないと困るから腰だけは鍛えておくのさ」

何をいわんやである。この様な人物は多く宮城刑務所にいた。冬が来て豚ウィルスが、流行っている頃、私が馬橋の爺様の席の処を通りながら話しかけた。

「さま爺、豚ウィルスが流行っているから、気を付けなさいよ」

一瞬、何を私が言っているのかと疑ったような顔をして、馬橋の爺様は言った。

「俺は豚と遣った事がねーよ」

おもしろい事をいうなと思い、更に私が浴びせかけた。

「豚と遣ってねーと言うのは何の事だよ」

尽かさず馬橋爺様は、右手の親指を人差し指と中指の間から出して、そのナックルを私の眼に前に突き出した。

 

 

反権力闘争の狼煙をあげる

 稲川会八王子一家の若い者で塚原と言う者が工場では、反則喧嘩と言った事を起して、何度も懲罰を受けながら、反省をしないとして昼夜独居者として生活をしていた。そこへ勤務変えに成り、相原と言う独居担当の看守部長が来た。この看守は塚原が八王子の高校へ通っていた時の後輩である。通常、服役者と看守は、作業や願い事の時以外は、口を聞いてはならないという内規がある。然し、遠く仙台まで来てお互いに、自分の生れ育ったところの話ができる相手はいない。自然この二人は親しく話をする仲に成ってしまった。クリスマスの時である。塚原が相原につくづくと呟いた。

「相原よー、ワインでも飲みてーぜ。娑婆では新宿辺りで、皆でワインを飲んで騒いでいるだろう」

相原は東京で生まれ東京で育った。だから仙台が北の都と言っても東京から比較してしまうと雲泥の差があることが解かり、自分では田舎に送られたと思っている。勤務も二日置きに夜勤がある。その内、良い勤務先があれば辞めたいと考えていた。

「先輩。ワインを持ってきましょうか」

塚原は瓢箪から駒が出たような気持ちに成り、相原に聞いた。

「大丈夫なのか相原」

「如何ってことはないですよ」

「それじゃー、煙草なんかも大丈夫か」

「まあっ、見ていてください。先輩の気に入るように遣りますから」

「相原、俺にワインや煙草を持って来てくれれば、それなりの金は事務所に連絡してお前の所に送って遣るから、そうだ携帯も何とかなるか」

「携帯でも何でも、自分がやれば何て言う事はないですよ」

刑務所側の発表では、金銭のやり取りはなかったとしたが、社会に出て塚原に私が直に聞いたら、金銭の授受は当然あったという。ワイン・酒・煙草・携帯の看守による収容者に対する供与事件は、こうして約二年近く続いた。然し、悪い事も良い事も、長く続かないのが刑務所である。二年に一度づつある勤務替えで、警備副隊長が変わり、小野進と言うサディストになった時にうすうす、この件を知っていた小野が、警備隊を連れてきて、塚原の部屋を徹底的に捜検(家宅捜査の様な事)をして、蒲団の中に隠してあった携帯や煙草を見つけたのである。

刑務所の事件としては、前代未聞であるこの事件を、如何に社会に発表するかで新しく赴任した全国に、その悪名を知られた平川忠輝所長は飽くまでも刑務所は悪くないようにしないと自分の首が危ないと考え懲役悪人説・刑務所善人説を作りだして、仮釈放に成る者に、直ぐに仮釈放を遣るという約束をして『アサヒ芸能社』に刑務所側で作成したシナリオ通りリークさせたのである。その上で、仙台地検に行き、支部長検事にこういったと後から、弁護士に聞いた。

「新聞等で御存じであると御承知でしょうが、今、宮城刑務所の収容者は良くありません。少しばかり締めたいと考えているのですが、如何なものでしょう」

「然るべく」

こうして宮城刑務所の警備隊による収容者無差別暴行が始まったのである。取締り側の副警備隊長がサディストであるのが、収容者にとり最悪の事態に成った。自分達の工場では、まだ警備隊が来て殴るけるの暴行を加えた事実はなかったが、毎日何処の工場で誰が暴行を加えられたという情報が入った。

「鎌田さん。今度来た副警備隊長は異常ですね」

「このような所へ勤務している者は、劣等感の塊の様な者ばかりです。その劣等感のはけ口を何も出来ない懲役に、向けているのです。人間としては逆らう事が出来ない者を虐めるという事は最低な事です」

「逆らう事が出来ない者を虐める野郎は、俺は大嫌いだ」

だが、この警部副隊長の小野進と私で衝突する事に成ってしまった。平成一七年七月七日、この日私の愛する唯一の娘である麗子の十七歳の誕生日である。私は夜間独居で部屋に帰り、一人静かに坐禅をして、我が子の誕生を祝いたいと考えていた。坐禅を遣る事により遣りながら、自分で思っている事を一心不乱に念ずればその思いは相手に届くのである。麗子に元気に育ってくれて有難うと、念を送りたかった。作業が終わり部屋に帰った時、隣りに入っている取り調べ中の京都の極道が、作業の材料を何時の様に、部屋の外に出そうとして、材料を持って部屋の外に出た。それを見咎めた警備副隊長の小野進が、安全靴の音をドタバタと立て駆けつけていきなり、右足を上げると京都の極道の胸を蹴り上げた。

(何て酷い事をするのだろう…)

噂では小野進の異常な暴力は聞いていたが、間の辺りにしたのは初めてである。

「なにをするんやー」

と言いながら倒れた極道を今度は、引き立たせて柔道の払い腰で投げ飛ばした。

「ドッスーン!…」

と音を立て音は私の部屋にも響いてきた。更に倒れた極道の首をやはり同じく柔道の締めにかかった。

思わず私は声を出してしまった。

「止めろ!」

小野進は極道の首を絞めながら、私の方を見て如何にも憎らしいという様な顔をして反則違反を告げた。

「無断交談だ。連行する!」

その内、看守が二人ばかり飛んできて、極道は羽交い絞めにされ手錠をされ連行されてしまった。その後、配食をしている鎌田氏が、お茶を配りながら、私の部屋の前に来て聞いた。

「大きな音がしたけれど、何かあったの?」

「酷いものですよ」

警部副隊長の小野進が、傍にいるとは二人共解からなかった。

「髙田・鎌田・無断交談だ。処遇に連行をする!」

勝ち誇ったように小野進は、サディスチックな笑いを浮かべた。

(この野郎だけは勘弁できない…)

小野進が押した非常ベルを聞きつけた看守が、二十五人ばかり来たので鎌田氏が驚いた顔をした。

「無断交談位で、こんなにも看守が来るとは、一体どうした事なのだ」

すると小野進が、鎌田氏の腕をねじ上げた。

「何をするのだ。痛いじゃないか」

小野進はしてやったと言うサディスチック顔をして、鎌田氏に更に、規則違反を告げた。

「不穏な言動だ!」

こうして鎌田氏と私は処遇部門に連行されてしまった。

 

 

義の弁護士舟木友比古先生

私が友人と成り知己にまでなった鎌田俊彦と言う人物について紹介しておくこととする。一九四三年(昭和十八年)五月、中國満洲に生まれる。一歳半の時、家族と共に父親の出身地である秋田県に引き上げる。六十年代末に、学生・労働者・市民が集まったベトナム反戦、反権力闘争に学生として参加するも、圧倒的な警察力・機動隊の前に倒れる。そこで、閉塞した状況を打開し、肥大化した警察力に打撃を与えるプロパガンダ(政治的宣伝)闘争としての〝爆破闘争〟に立ち上がる。一九七一年 九月・十月に連続して爆弾闘争を行う。更に、一九七一年十二月二十四日に新宿伊勢丹デパート前の交番・追分派出所に、クリスマスツリーに偽装した爆弾を設置する。通行人の避難と爆弾処理車の到着の十分な時間を見て新聞社に、予告電話をしたが、取り上げられず爆発し、警察官が重傷を負い通行人数人が負傷するという唯一の失敗爆弾闘争と成る。そして、一連の交番爆破は『黒ヘルグループ』の犯行とされる。その後、指名手配されるが、八年余の逃亡の後、逮捕され、九十一年二月、最高裁判所で『無期懲役』が確定する。同年五月、宮城刑務所に収監されて、懲役刑に従事することに成る。現在、より色濃く季節と共に変化する獄窓からの光と風の中で、外側の社会と内側の社会の変化を敏感に感じ取る生活から生まれる〝意見〟を発信続ける。この様な男と私は無二の友人となり、切するが如し摩するが如き毎日の生活をしていたのである。

私が無断交談・鎌田氏が不隠な言動で処遇部門に連行をされて私は、警備隊長と遣り会ったが、就業取り調べとなり、鎌田氏は本格的取調べとして取り調べ房に入れられて、自分の部屋に帰ってくることはなかった。

(ふざけやがって、俺の親友を取り調べに入れやがり、何を考えているのだ。この際だから告発でもして、刑務所と戦うぞ。本当の男が如何いうものであるか見せてやる…)

翌日、工場に出ると担当看守の千田から、願箋を貰い弁護士面会願を出した。弁護士は鎌田氏の事件の弁護をした舟木友比古先生で、普段から鎌田氏に何かあったら舟木先生に依頼して貰いたいと言われていた。

先生と初めて面会をした時、私は驚いた。先生は東京辺りの弁護士と違いスーツなど着ていない。古びたダウン・ジャケットを纏い擦り切れた小さなバックを片手にぶら下げて、面会室に入ってきた。弁護士面会は立会がいないから、正面に相対して坐り先生の顔を見てから、眼を正視した。

(只者ではない…)

私は感じた。先生も私を見つめた。冷静さと知性が溢れている目である。坐禅を毎日している私の神経は研ぎ澄まされている。その研ぎ澄まされた眼で私が真剣な眼差しをして、人を見ると大概の者が眼を逸らしてしまうのだが、先生は眼を逸らさず私の眼を鋭く見つめながら口を開いた。

「この様な官を相手取る事件では、大概の者が途中で挫けてしまう事が多く、私達は、二階に登らせられ梯子を外された思いを何度したか解りません。髙田さん。もう念を押しますが、この事件最後までやりますか」

「先生私の座右の銘は『吾道は一を以て之を貫く』です。私は天に唾を吐くような事は絶対にしません」

先生は私の言葉を聞くと厳しかった顔の頬を緩めた。

「貴男は蒲田さんと同じ人間ですね」

先生が弁護を承諾してくれたので私は既に、電報で細かく書いた事の詳細を話した。

「この刑務所は前から、問題が多くある刑務所です。髙田さんが告発する看守の暴行事件も起訴にはなりません。考えても見て下さい。刑務所も検察庁も同じ法務省の管轄下にあります。それだけでも不利と言わざるは得ません。然し、未だ奥の手があります。公務員が事件を起こした場合、即ち、この件では『公務員特別凌辱罪』に当たりますので告訴が不起訴に成っても『不審犯請求』と言うものができます『不審犯請求』は弁護士である私が今度は、検事役に成り行う事ができます。ですから、髙田さんが最後まで遣り抜くとうのなら、収容者に無差別な暴行を加えた警備副隊長は、処罰することができるでしょう」

「遣ります。例え私の身に何が起ころうと、私は最後まで戦いたい」

「戦いましょう。刑務所の職員であるから、収容者に暴行を加えて良いという事はありません。是は是・非は非で行かないと人生悔いが残ります」

その言葉を聞き私は舟木弁護士が好きになった。

(流石・鎌田さんが信頼している先生だ。この人も男だなー…)

この後、鎌田氏と面会をするからと言い、先生は面会室から出て行った。こうして、舟木先生との出会いがあり、この事件ではライターの亀井洋二氏や明治大学の教授であり日本の刑法学者では高名である菊田幸一教授などと言う人物に会う事が出来るように成ったのである。私が、弁護士を依頼したことにより、宮城刑務所との闘いの火蓋は切られた。私は唯、鎌田氏が、『不隠な言動』と言う規則違反で独房から帰って来ないのが、心配であり、処遇部門の最高責任者である処遇首席に面接をした。処遇首席は、銀縁の細い眼鏡をかけた如何にも私は、インテリであると言う顔をしていた。

初めて処遇首席の顔を見て私の慧眼は、この様な出世主義者では話に成らないと感じた。それでも、鎌田氏を何とか工場に還して貰いたいから、処遇首席に下げたくない頭を下げた。

「鎌田さんは、何も規律違反をしていません。直ぐに工場に還してください。鎌田さんは宮城刑務所の良心です」

「宮城刑務所の良心?」

「そうです。鎌田さんのような人が、いないと凶悪犯ばかり、収容されているこの刑務所は可笑しくなってしまいます」

「解った。早急に取り調べをさせて、工場に還すようにする」

利巧ぶっているようで、馬鹿な処遇主席は自信を持った顔で言った。

「それと、ここの警備副隊長は、のべつ幕なし懲役に暴力を振るっている。この様な事は看過出来ない。あんたも看守の親分なら、理由なき暴力を止めさせてくれないか」

塚原の事件を刑務所善人説にする為に、懲役悪人説に仕立てた仲間であり、看守に直に指示をする立場でありありながら、処遇首席は知らぬ振りをした。

「その様な事は報告に上がって来ていない。うちの看守は暴力など振るわない」

好くも、ぬけぬけと白々しい事が、言えるものであると感心をした。尤も、塚原のワイン・煙草・携帯・供与事件では、この処遇首席も最低限の処分を受けるであろうし、現在起っている暴力事件が、暴露されれば生涯、現在の地位から上には昇級出来ない。だから、暴力事件が有ったとしても、もみ消す立場である。

「ここでは暴力事件は起きていない。報告も上がっていない。余計な心配などしないで六工場で静かに務めていてくれないか」

「私はこの眼で警備副隊長の小野進が、隣の房の者に、焼きを入れたのを見た。この件については告発するから承知してくれ」

私の言葉を聞くと処遇首席はむっとした顔をした。

「刑務所を相手に戦う事に成るぞ。勝てると思っているのか」

「思ってはいない。それより人間はどのような弱い立場でいても、是は是・非は非の精神で生きて行きたいものです」

私とこれ以上、話しをしても、埒があかないと思って、処遇首席は自分から席を立って工場へ連行する看守を呼んだ。

「鎌田さんの事は頼みますよ。処遇首席」

「解かっておる」

細い体の肩を怒らせて、処遇首席は部屋から大股で出て行った。