ハンニバルのブログ

023




































日嗣の皇子

大空を翔く倭健伝説

大空へ翔ぶ皇子

甲斐国の山や河の神、そして荒ぶる者達を言向け終わり、倭健は尾張国に入った。当然、約束通り美夜受比売(みやずひめ)の元に入りそこへ座した。

美夜受比売は、倭健が何も無く帰ってきたので喜び祝宴を催した。そして、自ら酒杯を持って倭健に捧げ奉じたのである。

倭健が、美夜受比売を見ていたら、身に着けていた上衣の裾に障りの血が付いていた。その月のさわりを見て倭健は歌を詠んだ。

遠いかなたの天の香具山

その上を啼き声響かせ 飛び渡るクグヒ(オオハクチョウ)

その首のごとく細く しなやかな腕を

巻寝ようと われはすれども

共寝しようと われは思うけど

お前の着ている 上衣の裾に

月が立ってしまったことよ

すると美夜受比売は倭健の歌に答えて詠んだ。

高くかがやく 日の御子さまよ

八つの隅まで統べるわが大君よ

あらたな 年が来て過ぎゆけば

あらたな年が来て過ぎゆく

まことまことに あなた様を待ちかねて

わが着たる 上衣の裾に

月は立ったのでございましょう

こうして、日を経て月が去るのを待って、倭健と美夜受比売は結ばれ枕合(まぐあう)った。

美夜受比売との幸福な日々は長くは続かなかった。

倭健は暫くすると今まで身に着けていた草薙剣を見に佩かずに、伊服岐山(いぶきやま)の神を退治に出かけてしまった。如何して守り剣である草薙剣を美夜受比売の所に置いて行ったのか、倭健としては必ず戻ってくると言う証であった。

伊服岐山に分け入り緑深い所まで来ると牛程の白い大猪が表れた。倭健は足を止め思った。

(この白い大猪に姿を変えているのは、山の神の使いだろう。今殺さず帰りにでも殺せばよいだろう・・・)

処がこの白い大猪は、神の使いでは無く伊服岐山の神そのものであった。そうとは知らずに倭健は山の神を平らげようとして、伊服岐山の山頂目指して、登って行った。

どうやら風が出てきたようだと倭健が思うと風は強くなり、今度は礫の様な雨が降ってきた。

実は、白い大猪は山の神の使いでは無く誠の山の神そのものであった。神を恐れぬ倭健を懲らしめようとして山の神が強い風を吹かせ礫の様な雨を降らせたのである。伊服岐山の中を隈なく歩いて山の神を探したが、倭健は山の神に出会うことがなかった。既に、白い猪である山の神の毒気に当てられた上に、伊服岐山中を隈なく歩いた倭健は気力と体力を消耗してこれ以上、歩けない状態に成ったので山の神を平らげるという事を諦めて山を下った。山を下った所に玉倉部という場所があり、そこに清水が湧いていたので渇いた喉を潤した。そして、玉倉部で暫く休んで体力が回復するのを待った。

この場所は後年、倭健が山に神に毒気を当てられ意識朦朧としていた時に飲んで、回復をした泉である事から居寤(いさめ)の泉と呼ばれるようになった。

護り剣である草薙剣を持たずに、山の神と出会った倭健はすっかり山に神の毒気に当てられて力を失っていた。

どれ位、居寤で休んでいただろうか。やがて倭健は立ち上がり歩きはじめた。そうして、当芸野(たぎの)の畔に着いた。

吾の心はいつも空を飛び翔(か)って懐かしい倭へ向かっていた。然しながら今は、吾の足は歩むことができず。折れ曲がり、たぎたぎと這うばかりにおぼつかなくなりはてた事よ

たぎたぎうと倭健が、這うばかりに成った場所を当芸(たぎ)と言うようになったのもこの物語が語源である。

それから、少しばかり歩いたが、歩く事ができなくなってしまったので、近くの木の小枝を折り杖として漸く歩く事が出来た。それで、そこも杖衝坂(つえつきさか)と名付けられたのである。

そこから、又歩んで海辺の尾津の前(さき)に出て一つの松の木の元に至って腰を下ろした。そこには東征する時に食(おし)物を摂った処で、東征する時に置き忘れた太刀が一振り失せもしないで残されていた。それを見て倭健は歌を詠んだ。

尾張の方に まっすぐ向きあう

尾津の崎なる一つ松

ああなつかしき 一つ松

なんじが人であったなら

太刀を佩かせてみましょうものを

衣を着せて見ましょうものを

一つ松 ああなつかしい

尾津を発って三重の村にいたりついた時に倭健は弱音を吐いた。

(吾の足は三重の曲がりの如くでひどく疲れたものよ・・・)

それで、そこを三重と呼ぶようになった。

更に、三重から歩いて行き能煩野(のぼの)に至った時に、倭の国を思い出して歌を詠んだ。

倭は 真秀(まほ)なる国ところ

たたみ連なる 青々とした垣

その山々に囲まれた 倭こそは美しい

続けてまた歌を詠んだ。

命継ぎ 倭へもどる人たちよ

畳の菰を重ねた 平群の山の

そのくまかしの葉を 飾りとせよ

倭へ向かう者たちよ

この二つの歌は倭健の国思いの歌とされている。その言葉通り生まれ育った国を思い詠んでいるのが解かる。

そして、又歌を詠む、

なつかしき わが家の方より

雲がわき立ち上がる

この歌は方歌である。誠であれば誰かが、もう一つ歌を詠まなくてはならないのだが、この時の倭健は自分の歌の後に続いて読んでくれる者がいなかった。

ここに居たって倭健の体も命の終わりが近づいた。それでも歌を詠んで心を表した。

おとめの その床の傍に

われが置いた 剣の太刀よ

その太刀をわれに

この歌を詠み終わると倭健は、息が絶えてしまった。


大白鳥は何処に

何人かいた供の者は、倭健が息絶えたので驚いてすぐさま早馬をしつらえて都の大君の元へ奉ったのである。

倭健が息絶えたと聞き妃や皇子たちは皆揃って能煩野に下り来て、その葬の為に庭を作り、亡骸を納める喪屋を建て、倭健の御魂を呼び返して、また、鎮めようとする祈りをする為に、すぐさま葬を執り行った。

そして、妃や皇子たちは、喪屋に添って作られた泥田に入り腹ばいに成って転げまわりながら声を上げ哭きつつ歌うのである。

泥んこの田に残る 稲の茎に

その稲の茎に 絡まり這い廻る

山の芋の蔓よ

すると倭健の魂は、その骸から抜け出て、八尋もの白い鳥となり天に翔り、浜に向って飛び去って行ったのである。

「あっ、オオハクチョウに成って天をかけ始めた」

皇子の一人が言うと全員が、オオハクチョウが飛んで行った方向へ、土に生えた小竹や切り株に足をとられ血を流しながら、その痛さも忘れて哭きながらオオハクチョウを追いかけた。

そして歌った。

丈低い篠原を歩んで 腰はよれよれ

空を飛べぬ人の身は もつれつつ足で行くよ

又、飛び去る八尋のオオハクチョウを追い海の中に入り、塩の水に浸りながら行く時も歌っていた。

海の中を行くと腰はよれよれ

大きな河面の 浮き草のごと

海の上を漂って

未だ飛び翔るオオハクチョウを追って、ごつごつした磯を辿る時にも、倭健の魂を呼び返そうとして妃や皇子たちは歌い続けた。

浜の千鳥は 浜辺を行かず

磯伝い

その倭健の魂であるが、伊勢国の能煩野から飛び翔り行き、懐かしい倭を飛び越えて河内国の志磯に留まった。それで、そこに御陵(みはか)を作り鎮まり坐さしめたのである。そこでその御陵を名付けて白鳥の御陵と呼んでいるのである。然し、倭健の魂はさらにそこから高く天に翔(かけ)り、遠く深く飛んで行ったのである。



終わりに

本居宣長が古事記研究者では国内第一人者であり、宣長の心を射止めて生涯の研究に没頭させた古事記には日本人として、知っておかなければ成らない史実が多くある。その古事記の中でも燦然と輝きを放っているのが、倭健の命である。その倭健に日本人が外国の文化や歴史・知識に振り回されていない時代の情粋な大和心を託して書いてみたかった。

父である景行天皇から疎まれ東征させられ、歌や地名を多く残した倭健の最後は英雄らしく悲劇で終わっている。悲劇だからこそこうして、物語を紡ぐことができるのである。オオハクチョウに成って大空を翔ける倭健、眼を閉じるとそのシーンが浮かんで来るようである。日本の古代いや神話時代の研究をもっとやらねば成らないと感じつつこの物語を終わらせる。

平成二十六年一月五日  

 

 

 

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