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実録 宮城刑務所の凶悪犯

新・翔  遊

六 天  舜

法律、塀、鉄格子に肉体は縛られても精神と心までは縛ることができない。縛られない心は塀から飛び出して、宇宙の彼方までぶ。






は じ め に

 仙台藩祖・伊達政宗が若林城を一六二七年に築いた古城の土地を一八七二年警視庁が伊達家から買い上げる。翌年、宮城集治監を設置。中央に四階建ての塔(六角塔)があり、二階六棟の房が放射線状に出てパノプティコン(雪形六角の構え)と呼ばれる建物を建てた。

 一八七七年(明治十年)西郷隆盛が指揮した西南の役の際の捕縛者を収容した。

一九二二年宮城監獄を宮城刑務所と改名した。

 現在は無期刑及び刑期十年以上のLBと区分された受刑者が、一二〇〇人から一三〇〇人収容されている。

国家権力の恣意により悪戯に、人権を無視された野獣の掃き溜めの様相を示していて、看守の恣意的圧力により、泣くことを忘れ自己のアイデンティティを守るため道化と化している者が多くいる。

 特に、社会で新聞やテレビといったメディアを賑わせた者たちは、行った犯罪と宮城刑務所での生活との乖離があればあるほど虚構の世界に陥っている。

 無期刑を服役しているものは、その重圧から逃れるように、架空の世界の主人公になり大言壮語を吐き周囲の受刑者の顰蹙をかっている。

 しかし、無期を努めている者が必ずしもそうであるとはいえず、「三菱ビル爆破犯」の黒川君などは、株の研究をしている。小説を書いている者もいる。

 僕が服役していた時に、特別に親しくして戴いた[新宿四夜交番爆破事件]の首謀者である左翼の鎌田氏は、マルクス・レーニン主義者であるので、神や仏の存在を否定する立場でありながら、初対面の時、この人は禅でもやり、かなり高い境涯に至っている人ではないかとすら思える位、強烈な印象を僕に与えた。

 「桶川ストーカー事件」の実行犯である久保田祥史君は、宮城刑務所新入訓練で同じ部屋に入っていた。

出身が埼玉県であるので特に、親近感も生まれ彼は僕に「桶川ストーカー事件」の隠された部分と顛末を話してくれた。

 民主党の「石井絋基衆議院議員・殺害事件」を起した伊藤白水君「仙台アルバイト女性殺人犯」の平間龍治君。テナー演奏者の渡辺貞夫の兄を殺し強盗をやらかした中氏・新左翼で「東アジア反日武装戦線」のサソリを名乗っていた黒川芳正君等の宮城刑務所に当時、服役をしていた者の中には、一般社会で「凶悪犯」と言われた者は数限りなくいた。そうそう、マブチモーター強盗殺人事件を犯した小田島君は、宮城刑務所で共犯の守田君を知り、計画を練り実行したのである。

 僕は未決通算が四年もあったので、宮城刑務所には約八年服役したが、彼らが起した事件は重大であり非難すべき点は多くあるが、その事件を起こした凶悪犯達の宮城刑務所での日常の素顔を紹介したいと思っている。

二〇一二年十一月 一日   

大沼公園に鴨が十羽飛来してきた日

六 天  舜

目      次

はじめに              二頁

一、   小菅から仙台へ             四頁

二、   桶川ストーカー事件の実行犯       八頁

三、   仙台アルバイト女性殺人犯        一四頁

四、   山一証券代理人弁護士夫人殺人犯    一八頁

五、   石井紘基刺殺犯            二二頁

六、   マブチモーター社長宅殺人放火犯    二六頁

七、   深川通り魔事件の実行犯        三〇頁

八、   東アジア反日武装戦線 サソリ     三五頁

九、   ナベサダ兄強盗殺人犯         三九頁

十、   友よ いつ帰る            四三頁

十一、           おわりに             四九頁              








小菅から仙台へ

忘れもしない平成三年八月二十一日、それまで刑事被告人として、川越拘置所で一年六カ月・東京拘置所で二年六カ月合計四年間「拙見禁止」が解けた僕は、言語障害が治らないまま葛飾区小菅にある東京拘置所から、現在。某社の代表をやっている岸本龍雄氏と二人で手錠をされ腰縄を巻かれ、数珠繋がりにされて、五十人からは乗れると思える法務省が用意した大型バスに、東京拘置所前の綾瀬川に、今まさに太陽が上がろうとしている時に乗せられた。

 バスに乗せられる前の「押送先言い渡し」で宮城刑務所に移送されるのが解った。

 岸本氏と僕を乗せた法務省の大型バスは、薄く霧が立つ東北道を北進した。

 岩槻・羽生・館林・佐野どこも僕にはなじみがある土地であった。バスに揺れられながら、手錠をされたままの姿で僕は、館林にいた時のことを思い出していた。若干二十八歳前後であった。暴力・恐喝・抗争の日々であり今から思えば修羅の道を確実に、急ぎ足で走っていたと考えている。

 そのような僕の郷愁にも似た思いを余所にバスは、三時間四十分走って「会津磐梯安達太郎山サービスエリァ」に入り駐車場に停止をした。

「あの後ろに見えるのが、安達太郎山でしょう」

 岸本氏は、おやっとした顔をして僕の方を向いた。

「高村光太郎が、詠んだ『智恵子抄』にある山でしょう。好いですね。昔の人は男女の仲を詠んだ歌は琴線に触れる細やかな愛情が感じられる」

 そのような話をしていると、運転手を入れて三名の看守は、バスに一人だけ残して、二人で降りて休憩に行った。トイレを済ませて煙草を吸いながら缶コーヒーなどを飲むのである。

十分して二人は帰ってきた。今度は運転をしていた看守が休憩に行った。帰ってきた看守は煙草の匂いをぷんぷんさせてきた。通常、この様な移送の時は、移送をされる者にも缶コーヒーくらいは飲ませるものである。トイレだって、サービスエリァで済まさせるのである。

「おいっ、看守さん。僕たちにも缶コーヒー位、飲ませてくれるのだろう」

「・・・・・・」

 今度は僕が言った。

「小便がしたいから、バスから下ろしてくれないか」

運転席の隣にいた副看守長が、煩いとばかりの口調で指示をした。

「このバスにも便所は付いている。小便がしたければ、そこでやれ」

 手錠をされ数珠繋がりになって僕の前に座らせられていた岸本氏が、軽蔑を眼に表せて副看守長に向って言った。

「看守さん。僕たちが移送になるについて、一人頭何百円と言う予算が法務省から出ているのではないか。誰に聞いても缶コーヒーくらい飲ませてくれると言いますよ。ちょっと、可笑しいのではないですか」

 岸本氏に図星を言い当てられた副看守長は、横を向きながら、もう一人の看守に小声で呟いた。

(うるさい奴らだから、宮城に付いたら取り調べにしてやろうか・・・)

 問いかけられた看守が頷いた。それを見ていた僕は、岸本氏に耳打ちをした。

(こんなバカ者たちを、構ってもしょうがないですよ。我慢するしかないでしょう岸本さん・・・)

 事実収容者を移送する時は、官から移送費用として一人頭何百円と言う経費が出るのである。例えば弁当代とジュース代として、五百円ほどは出ると聞いていた。

何度も刑務所に務めている者は、そんなことは周知のことでもある。

 何故。移送の看守が収容者の移送経費をくすねるかと言うと、移送先の刑務所に、クラブというものがあり、そこで移送先の看守が接待をするのである。その後、自分の懐で町中に繰り出し、居酒屋辺りで一杯飲むのである。その為に、収容者の移送の経費をくすねるのである。国家公務員と言っても所詮は、さもしい心の持ち主の牢番である。

 仙台インターを降りて正面のТ字路を右折して、暫く行くとそこからは、残刑八年を服役しなければならない「宮城刑務所」である。

 仄聞するところによると、ここは、伊達正宗公の隠居城跡で明治になり西郷隆盛の「西南の役」の捕囚を収容したのが最初で、集治監・監獄・刑務所と名称変えたのは、看守が囚人を虐めて、人権問題が浮上する度のイメージチェンジの為であり「宮城刑務所は、人権を重視し行刑をやっています。何も心配はありません」

と言う形ばかり、表面の善い処ばかり外部に見せている劇場刑務所でしかないのである。

数年前に名古屋刑務所で起きた看守に拠る収容者殺人事件が、発覚したために監獄法を改め「刑事施設収容者処遇法」などという外部の人に聞こえが良い例えば、手紙の発信が増えるとか面会が、親族以外でも出来るということまでも所長の裁量権に委ねるという原則の上に変えられたのである。

移送の看守は僕たちの身分帳(過去服役した刑務所の履歴が記載されている控え)を見せると、門番の看守が頷きバスは、開かられた門の中へゆっくり進んでいった二・三〇メートル位、進むと今度は、明治の建築物であろうか。古い宮城刑務所を象徴するかのように、赤レンガで出来た五・六メートルの大きな門があった。

 外門の時と同様に看守が、身分帳を門番に渡すと形式的に目を通し、直ぐに鉄でできている大きな扉を開けた。バスはゆっくり入り左折すると直ぐに停まった。

「着いたぞ。降りろ」

 看守の命令に従って降り左側を見るとТ字型の大きな松の古木があった。後に知るのだが、この地の出身である土井晩翠が「蟠竜の松」と名を付けたと知った。

 僕と岸本氏は、それぞれの考えを以て眺めていた。

(この松を二度、眺められる事があるか、有るとしたら八年後か・・・)

僕と岸本氏の考えを余所に、看守位は、僕と岸本氏を宮城刑務所に引き渡せば、一応の業務が終了するので急いでいた。

「何を見ているんだ。そんなものは観ていないで、こっちにこい」

たまゆらの感慨を抱くことも許されない身であるので、看守のいうことを聞いて連行されるが儘に建物に入った。

二階立の建物の一番隅にある六畳位はあるかと思える部屋に、連行されて椅子に座ることも許されずに休めの姿勢で後ろ手に組まされて二人は立っていた。

五分後、三人の宮城刑務所の看守が部屋に入ってきた。その内の一人は、上着の腕に金線を一本巻いていた。副看守長だろう。

別な看守が自分で気を付け、をして言った。

「気を付け!礼!氏名!」

 狭い部屋に響き渡り耳が痛いほどの声である。小学生に言っているのではない。余りにも馬鹿げているので、聞こえるか聞こえないかの声で言われた通りに応えた。

岸本氏も同じく看守が大声を出して明らかに、威嚇をしていると見て、気を付け、礼をして、態と小声で氏名を言った。そして僕の顔を見て笑った。

「これから、持ち物検査をするからな、持っている者を全部、そこに敷いてある茣蓙の上に出せ」

 一畳分の茣蓙の上に私物を出した。

「これから、私物控えを読んで行くから、品物があったら返事をして、茣蓙の別な所に置け」

 呆れる位、威張っている宮城刑務所の看守を見ているとこの人達は、本気で僕たちより偉いと思っているのかな。とまで思ってしまい笑い出したくなってしまった。

 私物を調べ終わる頃。岸本氏のロレックスの時計でベルトまでダイアが埋め込んである品物を看守が、交代で手に取り検査をしていた。

「岸本、この時計は何という時計だ。百万円位はするのだろう」

「馬鹿な事を言うんじゃない。高価なものだから若し、ダイアが一つでも無くなったら、責任を取ってもらうからな」

 看守は、副看守長に時計を見せて、指示を仰ぐようにして顔を見た。

「岸本、この時計は『特別領知』にして、出所まで官の金庫に保管して置く」

「そうしてくれ、君たちが買える代物ではないんだからな」

 この様な遣り取りがあり、領置調べは終わった。

「二人共、副看守長の前に立て」

 立てと言われても、六畳位の部屋にびっくり箱(取り調べ待合室九〇×九〇が二個)設置されている上に、僕たちの私物調べが終わった衣類等の品々が散乱しているのである。

私物から手を放し、横を向き立てば気を付けが直ぐに出来るのである。

 副看守長は、僕たちの身分帳を手にして威厳を示し、これからこの刑務所で使われる僕たちの番号を言った。

「六天 舜二一八〇番。岸本龍雄二四八〇番。忘れないようにしてくれ。これからは、この番号を使い、君たちの名前は使わないからな」

 刑務所という所は、番号で呼ばれて当たり前であるという通常観念があるから、刑務所に入った事がない人は当たり前であると考えるだろうが、良く考えて見ると人を例え、犯罪者であっても番号で呼ぶということは、人権軽視でしかないのであり、人としての平等精神の上からしても、間違っている事ではないだろうか、外国の刑務所の事を僕は知らないが、外国では特に、先進国と言われている国では、生きている人間を如何なる理由があろうとも番号では呼ばないだろう。

そして、所持金を領置された。

「六天 舜二百三十万円。岸本二百万円。間違いはないな」

 こうして所持金は領置されて国庫に預けられる。百万円以上持って入所してくる者は、千三百人中十パーセント所持金ゼロ円は約四十パーセント後の、五十パーセントは平均三十万円である。それに、懲役として十年以上勤めたものは労働の代価として報奨金を平均百万円以上計算上所持している。馬鹿に出来ない数字であり、領置金と報奨金を合計したら一億円は下らず国庫に入っている訳である。

 銀行に預けたら、金利だけでもかなりの数字が出るのではないだろうか。この当たりの事について、刑務改革等と大義を掲げて本を書いて、監獄法が改正になる時に、法務大臣の諮問委員になっていた法律の専門家は、如何して触れずにいたのだろう。

 尤も、法務省は政治家達でも触れたがらないサンクチュアリなのであろうか。